【2022年・下半期ベストアルバム】
・2022年下半期に発表されたアルバム(上半期に聴き逃したもの含む)の個人的ベスト20選(順位なし)です。
・評価基準はこちらです。
http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2014/12/30/012322
個人的に特に「肌に合う」「繰り返し興味深く聴き込める」ものを優先して選んでいます。
個人的に相性が良くなくあまり頻繁に接することはできないと判断した場合は、圧倒的にクオリティが高く誰もが認める名盤と思われるものであっても順位が低めになることがあります。「作品の凄さ(のうち個人的に把握できたもの)」×「個人的相性」の多寡から選ばれた作品のリストと考えてくださると幸いです。
・これはあくまで自分の考えなのですが、他の誰かに見せるべく公開するベスト記事では、あまり多くの作品を挙げるべきではないと思っています。自分がそういう記事を読む場合、30枚も50枚も(具体的な記述なしで)「順不同」で並べられてもどれに注目すればいいのか迷いますし、たとえ順位付けされていたとしても、そんなに多くの枚数に手を出すのも面倒ですから、せいぜい上位5~10枚くらいにしか目が留まりません。
(この場合でいえば「11~30位はそんなに面白くないんだな」と思ってしまうことさえあり得ます。)
たとえば一年に500枚くらい聴き通した上で「出色の作品30枚でその年を総括する」のならそれでもいいのですが、「自分はこんなに聴いている」という主張をしたいのならともかく、「どうしても聴いてほしい傑作をお知らせする」お薦め目的で書くならば、思い切って絞り込んだ少数精鋭を提示するほうが、読む側に伝わり印象に残りやすくなると思うのです。
以下の20作は、そういう意図のもとで選ばれた傑作です。選ぶ方によっては「ベスト1」になる可能性も高いものばかりですし、機会があればぜひ聴いてみられることをお勧めいたします。もちろんここに入っていない傑作も多数存在します。他の方のベスト記事とあわせて参考にして頂けると幸いです。
・いずれの作品も10回以上聴き通しています。
[下半期20](アルファベット音順)
明日の叙景:アイランド
こちらで詳説した。Rate Your Musicなど海外サイトでも極めて高く評価され、ツイッターなどで公開されている個人単位の年間ベストではメタルをあまり聴かなそうな人も選んでいるのが頻繁に観測されるなど、「J -POP?それともブラックメタル?」というキャッチコピーからも垣間見える越境的な仕掛けは大きな成功をおさめている。名実ともに今年のメタル領域を代表する傑作だと言える。
歌詞表現について付記すると、物語的な論理的つながりを求めるとよくわからない言葉の並びが多いのは確かだが、一文一文が喚起するイメージはむしろ明確で、情念の大きさや色彩感覚は鮮明に伝わってくる。太い描線を重ねながら厚塗りしていく趣の言葉の並びは印象派の絵画のようでもあり、それは緻密な作編曲による饒舌なニュアンス表現と非常に相性が良い。イメージを喚起する装置としての歌詞という意味では、むしろこういう在り方こそが正解なのではないかと思えるし、そしてそれは、歌メロや明確な節回し(ラップなど)を伴わない、それでいて矢継ぎ早に言葉を並べられる、ある意味で高度に抽象化されたこういう絶叫ボーカルにこそ向いている歌詞表現なのかもしれない。このような「歌詞というものの在り方を踏まえた上でそこへ思い切る」(詩というよりも歌詞として活かす)手捌きが素晴らしい音楽でもある。歌詞が軽視されがちなメタル領域からこうした作品が出てきたことは、とても意義深いことではないかと思う。
前作『すべてか弱い願い』に絡めてこちらの記事でも触れた“聴き方”についていうと、音響的には、トレモロギターの伽藍(春の嵐、または初夏の入道雲のイメージ)を下から見上げるような角度で、ボーカルのlowの響き(ダブルで録っているのならその微妙に低い方を探す感じで?)経由で全体像を捉えるようにするのが、響きの結節点〜スイートスポットをつかむコツな気がする。『結束バンド』を繰り返し聴いた後の耳で接するとしっくりきた体験の記録として、ここに書き残しておきたい。
Bala Desejo:SIM SIM SIM
こちらやこちらをはじめ各所で絶賛、今年を代表するブラジル音楽作品との呼び声高い1stアルバム。70年代のMPBやブラジリアンフュージョンをはっきり想起させる音楽性だが、和声進行の感覚や演奏の溌剌としたキレはすぐれて現代的で、馴染み深く肌に合うオーセンティックな印象(〜アクセスの良さ)と、理由はすぐにはわからないが確実に別物と感じられる新しさ(〜飽きのこなさ)が絶妙に両立されている。強烈な勢いのオープニングと比べてそれ以降は比較的落ち着いているため前者のノリを期待すると肩透かしを食うが、後者のテンションを基準としてみればむしろ非常にしっくりくる、というアルバムの流れはどことなくマリーナ・ショウの名盤『Who Is This Bitch, Anyway?』に通じるとか、「Dourado Dourado」のビートチェンジはなんとなく折坂悠太を連想させる、みたいなことを考えて聴きどころを探っていくほどに面白くなる作品でもあり、どれほど繰り返し流しても新鮮な印象が保たれる。そりゃみんな好きですよね、斜に構えて外すのも無粋だよね、と納得させられてしまう圧倒的包容力。奥深く親しみ深い素晴らしいアルバムだ。
betcover!!:卵
こちらで触れたように、70年代欧州のジャズロック〜ジャズに大きく接近した作品で、たとえば初期Black Sabbathに代表されるVertigoレーベルの音、セピア色にぼやけた感じの空気感が好きな人にはこたえられないサウンドになっている(そうした意味において、この録音はかなり意識的なつくりでしかも成功しているように思われる)。その上で、「ばらばら」におけるL'Arc〜en〜Ciel的なゴシック歌謡感(このタイトルは柳瀬二郎自身の影響源プレイリストに入っている「花葬」の歌い出しと同じ)や、King Crimson「Islands」に通じる叙情的な「卵」(中盤のさりげない7拍子が素晴らしい効果をあげている)、そしてそのKing Crimsonの『Earthbound』に通じる「超人」といった広がりが味わい深く、それらがモザイク状に混ざり合った結果、大槻ケンヂの特撮(筋肉少女帯というよりも)を思わせる場面が少なからず生じているのも面白い。その点、手軽な比較対象として挙がるblack midiとは楽曲の構造や構成要素が異なる部分が多いように感じられる。
こういう個人的な嗜好を突き詰めた作品が、異様な気迫と聴きやすさを両立することで強烈な訴求力を発揮し、熱烈な反応を得ることで「次はこういう音楽性が来る?」的な雰囲気をも醸し出しているのをみると、流行というのは後付け的に解釈される面も多く、シーンの天気読み的なことはかなりの度合いでナンセンスなのではないかとも思えてくる。自分は「◯◯にベットする」みたいな(結局はコンテンツ消費に留まるような)接し方は好まないが、こうした捉え方のほうが、「今のシーンはこんな感じ」「次はこれが来る」みたいな(観測範囲が限られたなかでの)俯瞰よりも流れを的確に捉えやすく、当たった場合は芯を食いやすいのかもしれない。betcover!!がどのくらい意図的な仕掛けを行なっているのかはわからないが、その按配が見えないところまで含め、大きな扇動力を持ったバンドなのは間違いないだろう。たまたま音楽的な嗜好が合っているから楽しんで聴く、というくらいの立場の自分からしても、刺激的で有り難い存在だと思う。
boris:fade
こちらの記事で詳説した。今年リリースされた3つのアルバムの中では個人的に最も肌に合う一枚で、ゴシックロック〜ヴィジュアル系方面のリリシズムをうまく咀嚼できなかった頃の自分からすると抵抗もあったBorisの音遣い感覚が絶妙な塩梅に料理されている作品だと思う。抽象的だが掴みどころのない印象はあまりなく、むしろ非常に聴きやすい。このバンドの入門編としてもお薦めできる逸品。
Cloud Rat:Threshold
今年はグラインドコアの当たり年で、8月の時点でこういう記事が出るくらい優れた作品が多かった。現代メタルガイドブックでも述べたように、グラインドコアとは気合いと限界突破の音楽で、ブラストビートの高速を軸とする一方でそこには複雑な作り込みと開拓精神が伴う。演奏スタイルにある種の共通点を備えながらも音楽的には多様な領域なので、どの作品を高く評価するかは選者の好みによるところも大きい。ということを踏まえていうと、個人的にはCloud Ratの本作が最も響いた。とにかく作編曲が素晴らしく、切れ味と個性を最高度に兼ね備えたリフだけを敷き詰めて15曲31分を駆け抜けるアルバム構成は、メタル〜ハードコアの歴史全般を見渡しても屈指の出来ではないかと思う。2019年のEP『Do Not Let Me Off the Cliff』ではインディポップ〜アンビエントな作風に徹するなど、グラインドコア以外の引き出しも豊かなバンドだが、本作では、そうした要素に近いところにあるポストメタル〜ポストブラックメタル的なフレーズと、日本のメタリックなハードコアの系譜にあるフレーズ(「Persocom」などで抜群に格好良く繰り出される)とが、その双方に通じるDiscordance Axis的なコード感のもと滑らかに融合され、確かに未踏の境地を切り拓いている。自分は本作でCloud Ratを知って過去作も遡って聴いたのだが、いずれも本当に素晴らしかった。広く聴かれてほしい凄いバンドである。
Dream Unending:Song of Salvation
昨年の下半期ベスト記事にも挙げた1stフルの構成要素を引き継ぎながらも語り口は大きく変わっていて、ゴシックデス/ドゥームのリバイバルから出発しながらも、そこから遥か遠くへ向かう、異形のポストロックとも言える仕上がりになっている。1stフルの楽曲は尺が長くても明快に整理された直線という感じだったが、この2ndフルは見通しのきかない修験道を「このまま進んでいいのだろうか」と疑いながら歩み続けるような趣がある。
こういう掴みどころのない聴き味を解釈する糸口を得るためにインタビューを読んでいたら、作曲担当のDerrick Vellaが以下のように述べていた。「これは、大きな円弧(arc)の中の円弧なんだ。オープニングの曲(Song of Salvation)の中で、ドラムが消えて不気味な単音のギターラインが現れ、スパゲッティ・ウエスタン映画に出てくるようなタムの効いたビートでドラムが戻ってくる部分がある(※4分40秒からの展開だと思われる)。それで、この曲を聴いたとき、“ああ、カウボーイが天に昇る歌なんだ”と思ったんだ。」別のインタビューでの発言「アルバム『Song of Salvation』は、何よりも自己受容(self-acceptance)を扱った作品だと思う」も併せて考えると、なるほど確かにしっくりくるものがある。本作の楽曲展開は入り組んではいるものの各場面の繋がりは滑らかで、アルバム全体が約44分の組曲と言えるくらいまとまりが良いこともあってか、先行きは見えなくても道に迷っている印象はあまりない。迂回し渦を巻く(しかし古びた石畳で舗装されてはいる)巡礼路を踏みしめ、無限にも思える時間をかけて煉獄で少しずつ浄化されていくような構成は、逡巡と自己受容を描く本作の志向に至適だろう。こうした“構成における引っ掛かり感覚”を引き立てるのが初期ゴシックメタル系譜の執拗なテンションコードで、ジャズ的な切れ味の良い交錯ではなく、対位法的なアレンジのなかで鈍いぶつかりを繰り返すようなつくりは、アンビエント〜ニューエイジにも通じる独特の宙吊り感を生み出しているように思われる。
実際、「Secret Grief」のインスピレーション源はThe Blue Nileの「Let’s Go Out Tonight」で、アンビエントなポップスから多くのものを得ている作品でもある。自分は本作を聴いているとなんとなくソランジュ『When I Get Home』を連想させられるのだが、その『When I Get Home』がカウボーイをテーマにしていることを鑑みると、上記の逡巡うんぬんとはまた違ったところで様々な領域と繋がっている音楽でもあるのかもしれない。アルバムの聴き味についていえば、『When I Get Home』は細切れの展開が飛躍を伴いながらコンパクトに並べられているために引っ掛かりが明確に得られるのだが、『Song of Salvation』はその“飛躍”が綺麗に均されているために、浸りやすくなる一方で掴みどころのなさも増している。そして、その「掴みどころのなさ」が具体的にどんな具合なのかを意識するようにしていくと、ブルースの短期的で濃厚な反復感覚をプログレッシヴロックの大曲構成のようなロングスパンに拡張したものにも感じられ、俯瞰的な引っ掛かり感覚を吟味する糸口が得られるような気もしてくる。というふうに一筋縄ではいかない音楽なのだが、それだけに全く聴き飽きないし、何かを聴き込んでいく楽しみというのはこういうところにこそあるのだとも思える。「Song of Salvation」の5分50秒〜8分10秒頃に仕掛けられた不思議なギターエフェクト(シューゲイザー流のディレイや逆回転を駆使した?潮騒のようなループ)など、未知の境地を切り拓く音響表現も多い。安易な解決に飛びつかない思索の過程が具現化されたような、もどかしくも頼もしい作品である。
Elder:Innate Passage
一言でいえばRush+マニュエル・ゲッチング、またはMastodon+Neu!という感じだろうか。シンフォニックなプログレッシヴハードをストーナーロックやOpeth以降の感覚で著しくハイクオリティに仕上げたような音で、そこにはクラウトロック的な酩酊感が巧みに混入している。Elderはドゥームメタルやサイケデリックロックの領域で語られがちなバンドで、こうしたジャンルと本作のような綺麗なサウンドは基本的には食い合わせが悪いのだが、そのあたりの配合は絶妙で、生きている彫像という趣の官能的な鳴りが生まれている。とにかく演奏・録音・音響(ミックス&マスタリング)が素晴らしく、ツルツルした清潔な鳴りなのに生の味わい深さがしっかり伴っている。そういう意味において、ストーナーならではの埃っぽくダイナミックな鳴りの妙味も確かに活かされている作品と言えるだろう。以上のサウンド面に加えて見事なのが作編曲で、「Catastasis」の13(6+7)拍子→19(9+10)拍子をはじめ、変拍子・混合拍子が多発するのにその枠内でのフレーズ作りやそれらの繋ぎがきわめて流麗だからか、煩雑な印象はほとんど生まれない。「Coalescence」イントロのMotorikビート(クラウトロックの定番であるグルーヴ表現)を7+7+7+8拍子でやるドラムスのキックの入れ方など、リズムアレンジも素晴らしく何度でも飽きずに楽しめる。複数の層が綺麗に重なり互いを引き立てる構造は極上のミルフィーユのようでもあり、聴けば聴くほど面白みが増していく。そして、最後を飾る「The Purpose」の静謐な叙情はこの上なく美しい(自分が今まで聴いた全てのアルバムの中でも屈指の締め方かもしれない)。この手の音楽に馴染みのない人もぜひ聴いてみてほしい。
Ellen Arkbo・Johan Graden:I Get Along without You Very Well
作品の背景やアンサンブルの性質についてはこちらのレビューが素晴らしいのでぜひ。そういう卓越した演奏表現が切実な雰囲気表現と分かち難く結びついているのがたまらない作品で、泣きはらした後の虚脱感と安堵の中で眠りにつくような、別離の痛みにそろそろ慣れながらも大事に抱えてしまうような気分が、透き通った上澄みと薄く堆積した澱の間で揺れる音像のもとで鮮明に捉えられている。個人的にはシェシズやCamberwell Now、The Beach Boysあたりを連想させられたりもする音楽で、実験的なようでいて親しみ深いポップソングになっているという点では少なからず通じるところもあるように思う。特に「love you, bye」の、感情が凪のまま堰を切ったように膨れ上がり、しかるのちに穏やかにほどけていく流れは絶品。聴く側にも刺さるものがあるのにこれほど繰り返し聴けてしまう音楽は稀だろう。様々な季節や時間帯を通して末永くふれていきたい傑作だ。
松丸契:The Moon, Its Recollections Abstracted
たとえば「didactic / unavailing」では、変則的なフレーズを繰り返すゆったりしたピアノに注意を引かれていると、後景で蠢くサックスなどはふと目を離した隙に、ヤカンから勢いよく白煙が噴き出すように激しく沸騰している。また、「回想録#2」を聴いていたときに、茫漠とした深い反響の向こうから16時半の夕焼けチャイムが流れてきて、そしてそれが他の音楽なら無粋で不快な干渉に思えるのにこの曲では自然に溶け込み、むしろ非常に良い後景音に感じられるのを体験すると、この抽象的な(それでいて異様な説得力は常にある)音楽の勘所、どういう角度から触れれば読み込めるのかという手掛かりが急に得られる気がしてくる。というふうに、何かしらの気付きを得た瞬間に、つかみどころなく思えていた作品のニュアンスや存在意義(自分にとっての)が鮮明に見えてきて、得体の知れない謎としてではなく明確な謎として、焦点を合わせて積極的に没入できるものになる場面が非常に多い。本作のサウンドは何も考えずに聴き流すとよくあるアコースティック・ジャズ編成にも思えるが、一見普通なようでいて全然普通でない構造も多く、どの曲も非常に印象的なフレーズばかりで飽きず気軽に聴き通せる一方で、そのフレーズのかたちやそこに絡む各パートの動き、アンサンブルの関係性などはきわめて入り組んでいる。耳に馴染みやすいアコースティックジャズ編成、というイメージにとらわれて「普通」扱いすると真価を見失ってしまう、聴く側にもセンス・オブ・ワンダーが求められる音楽だが、じっくり向き合うほどに多くの収穫を与えてくれる。静かな集中力と異様な展開、不測の事態に動じない安定感が保たれた明晰夢のような居心地は、自分の知る範囲で言えば60年代後半のマイルス・デイヴィスやウェイン・ショーターあたりに通じるが、そうした高みに比肩しつつ確かに別の境地を切り拓いていると思う。アルバム全体の流れまとまりも良い。何度でも繰り返し聴ける素晴らしい作品。
麓健一:3
世の中一般に対する根本的な憎悪、と言っていいくらいの苛立ちと、それをどうこうしようとするのはもはや諦めているような、または酒の力を借りてあえて意識の隅に追いやろうとしている(その上で追い出しきれない)気分が端々から滲み出ている…というと何やら大変な音楽に思えるが、実際大変な音楽ではあるけれども、聞こえてくる音の響き自体はむしろ穏やかで、あからさまに耳に痛い部分はほとんどない。ただ、チルアウトというよりは浮世離れした音の流れは完全に気兼ねなくリラックスさせてくれるものでもなく、少し昼寝しようと思って横になったら21時くらいになってしまったような、後悔と充足感とがぼんやりした気分のなかでないまぜになるような感覚にこそ通じる(または、実際にそうなってしまった後の寝起きに聴くとしっくりくる)。このような意味において、音楽構造は異なるけれども、個人的にはシド・バレットの『帽子が笑う…不気味に』や割礼の『ネイルフラン』あたりを連想させられるし、在り方としても通じるものがあるように思われる。世間の時の流れに無頓着だが、だからといって葛藤がないわけでもなく、俗世間を泳ぎきれずにぷかぷか浮いている。そしてその具合に慣れて抗わず身を任せるのが堂に入ってしまっているような趣がある……というのが本作の核となる弾き語り部分の印象で、麓健一によるそうした気ままな演奏と、それを曲げずにそれとなく支える石橋英子とジム・オルーク、その2層の兼ね合いがなんとも味わい深い居心地を生んでいる。アシッドとかサイケというのともなんか異なる、黎明期ポストロックのようなところに別の水脈から辿り着いている不思議な音響だと感じる。Gastr Del Solあたりにも通じる奥行きや聴き味があるし、同じように永く付き合っていける得難い音楽なのだと思う。
結束バンド:結束バンド
ゼロ年代エモ〜メロディックハードコア(notメロコア)を総覧しメタル的技巧でブーストしたような極上の音楽で、ひねくれた構造とキャッチーさの両立、情熱と内省のバランスが全編素晴らしい…といった話はこちらの寄稿記事でまとめたので、ここではそこへの追記として、歌唱表現の話と文脈的つながりの話をしておきたい。
まず、歌唱表現の得難さについて。全曲(4名とも)良いのだが、「転がる岩、君に朝が降る」での青山吉能が本当に素晴らしい。明らかに歌い慣れていなさそうな発声と流麗緻密な節回しを自然に両立する超絶技巧は、こういう声の人がこんなフレージング(単語〜文節単位のアクセント付けや音色変化など)をこなせることはまずないだろ、というくらい有り得ないコンビネーションなのだが、役への深い入り込みもあってかきわめて自然に感じられる。その上で、うつむき気味に始まって上を向き(アジカンの原曲には入っていない技巧的なギターソロの終わり際に逡巡を滲ませてから)、また顔を下げるが最初よりは確かに前を向いている…という音色表現の設計と達成が見事すぎる。とにかく歌が良く、そしてそれは声優ならではの技術があればこそ、という点において優れた「声優音楽」でもあり、それだからこそ到達できる境地といえるだろう。歌い回しの一部にボカロ的な響きがあるのも興味深く、そうした意味でも音楽ジャンル/シーンの優れた文脈批評にもなっているように思われる。
以上のことに加えて意義深いのが、本作のような音楽性のなかでメタル的なギターが全面フィーチャーされることである。これは作中の「ギターヒーロー」設定によるところが大きいが(これがweb配信のアカウント名なのも“インターネット発の音楽”以降の話という点で趣深い)、そういう動機や理由はともかくとして、バッキングギター(右チャンネル)の大部分がギターソロになっているようなアレンジが、メタルとは距離があった類のゼロ年代〜テン年代の邦ロック路線のもとでなされているのは非常に大きい。既に絶賛され大ヒットしていることからも名実ともに「名盤」と言われる資格を得ており、邦ロック(ひいてはエモ)とメタルの和解としても、定期的に話題になる「ギターソロ不要論」への対処(というかそういうギターが好まれる潮流を生むきっかけ)としても、決定的な一手になりうるアルバムだと思う。様々な音楽ファンに聴いてみてほしい傑作である。
《2023.1.12追記》
そういえば「ギターヒーロー」(特にメタル的な意味での)という概念は少なからずマスキュリニティ(男らしさ)や体育会系的なものと絡めて意識されてきた歴史があり、上記のような音楽性の系譜が「メタル」でも「ハードコア」でもなく「ギターロック」と言われてきた背景にはそうした要素から距離を置きたい気分も伴っていたように思われるのだが、『ぼっち・ざ・ろっく!』では、その「ギターヒーロー」がマスキュリニティや体育会系的なものから切り離された形でフィーチャーされている。これは結束バンドの音楽性についても言えることで、かつては力強さや華々しさと分かち難く結びついてきた「ギターヒーロー」的な要素は、爽やかさと陰を兼ね備える声優の柔らかい表現力により絶妙に中和され、新たな存在感を獲得している。このような転換がいわゆる「音楽ファン」に留まらない注目を集める場でなされたのは、「ロック」や「メタル」の歴史的な流れにおいても実に意義深いことなのではないか。そうした意味でも、とても得難い作品であるように思う。
Makaya McCraven:In These Times
公式プレスリリース(英語資料)で「ポリ・テンポ」という言葉が使われているように、複数のBPMや連符が同時進行するアレンジが全編で追求されており、どのレイヤーに注目するかによって音楽全体の印象は大きく変わる。コード感だけみれば特に奇天烈なものはなく、60年代ジャズや世界各地の民俗音楽、リオン・ウェアあたりにも通じる南米音楽風味ソウルの系譜など、スムーズに聴き流してしまえる展開が主なのだが、たとえば「The Fours」ひとつとっても、7連符のベースラインに乗る上物が4(または8)連符を主張、それを5連符のベースラインが引き継ぐ流れが同一BPMのもとでなされるというふうに、リズム構造は複雑を極める。上記のスムーズなコード感はそうした複数のリズム層を滑らかに融け合わせるためのものでもあるのだろうし、ヒップホップ系譜のヨレるビート(実際、生演奏をヒップホップ流に編集している箇所も多い模様)が土台になっていることで、先述のような連符の推移に違和感が生じにくくなっているというのもあるだろう。かくのごとく意識的な読み込みが少なからず求められる音楽で、小綺麗なバーのBGMにもってこいな心地よさを前面に押し出しながらも、そこに込められた狙いや構造的な強度は計り知れない。デビュー当時から7年以上の月日をかけて作り上げられたというのも納得の作品だ。
The Orielles:Tableau
「Chromo Ⅱ」では8+8拍のフレーズがいつの間にか7+8拍に変化し、それがまた8+8拍に戻る。それを支えるMotorikビート(Neu!をはじめとするクラウトロック系譜のミニマルなグルーヴ表現)もあって確かにRadioheadを想起させられるが、最初期Pink Floyd的に通じる酩酊感とそれとは対照的に澄明な質感が一体化した音響は、滑らかに整ったリズム処理も併せ、明らかに一線を画すものでもある。そうしたサウンドを引き継ぎつつ茫漠とした展開に溶け込む「Improvisation 001」は、Can的な酩酊フリー展開をアンビエント的な角度から再構築した感じの曲調で、足元が定まらない危うさ(粗悪なドラッグを濫用しているような悪酔い)は排除された、無重力的だがコントロールも効いている、スペーシーなジャズという趣の居心地が生まれている。「Darkened Corner」など他の曲にも漂うドラッギー且つクリーンなイメージはこのアルバムの得難い持ち味で、その「ドラッギー」な按配が場面によって巧みに調整されていくさまは、隅々までサービスが行き届いた宇宙遊泳ツアーのようでもある。どのトラックも「このまま永遠に続けてくれ」と思えるくらい良いが、そういう未練を断ち切るようにどんどん進んでいき、その上で各トラックの繋がりが著しく良く一定のムードが保たれるのも味わい深い。DJセット的な小気味良い流れと没入感あるまとまりが美しく両立された、ポストパンクの系譜を最高度に洗練発展させたような音楽だと思う。Young Marble Giantsのファンにもナラ・シネフロ(昨年リリースされた傑作『Space 1.8』が話題になった)のファンにもお薦めできる素晴らしいアルバム。
Polyphia:Remember That You Will Die
Djent系譜の超絶テクニカルプログメタルとして語られるバンドだが、本作では冒頭からBRASSTRACKSが参加、リードボーカルをフィーチャーした曲もLil Westをはじめエモラップ的な場面が多いなど、ネオソウルやフューチャーファンク経由で近年のポピュラー音楽一般に大幅に接近。ギターソロが単体で前面に出る箇所も少なく、ポップスとして洗練された作編曲が心掛けられているように思う。しかしその上で面白いのが「テクニカル」な要素は控えめになってはいないことで、速く複雑なシーケンスを弾きまくれるプレイヤーでなければ思いつかない、入れようと思わないようなフレーズが端々に仕込まれており、それが一般的なポップスとは異なる無二の個性として映えている。イングヴェイ・マルムスティーン系譜のネオクラシカル的なメロディ(いわゆるブラックミュージックの要素は希薄)が上記のネオソウル的なメロディ(ブラックミュージックの系譜)と混ざって生まれる独特な音遣い感覚はありそうでなかなかないものだし、それが全曲を貫く共通点となっているからか、アルバム全体の流れまとまりは驚異的に良い。チノ・モレノ(Deftones)参加の「Bloodbath」からスティーヴ・ヴァイ参加の「Ego Death」に繋げる終わり方など、ジャンル文脈の示唆も気が利いている。聴き手を圧倒する派手なカマシが少ない作風(こんなにテクニカルなままでそう仕上げることができているのも凄い)なだけにあまり話題になっていない印象もあるが、実は非常に意義深い作品ではないだろうか。そんなことを一切考えず「ただ心地いいからひたすらリピートできてしまう」仕上がりも含め、相当の傑作だと思う。
Rafael Martini:Martelo
単体で聴いても隅々まで素晴らしい作品だが、自分がその真価を掴めたのは来日公演を観てからだったように思う。その感想でも詳しく述べたように、マルチニのピアノとロウレイロのドラムスが驚異的に見事で、このスタジオ録音の音響では控えめな位置にあるシンセベースも含め、丁寧で艶やかな鳴りと卓越した機動力が両立されている。そういうミクロ&マクロのコントロール能力や表現設計があって初めて可能になる音楽で、Rush〜プログメタルにも通じる変則拍子(冒頭の「Martelo」では10拍子と9拍子が交互に出てくる)を煩雑に感じさせない構成力と、それを必要不可欠に活かす表現設計(アルツハイマー型認知症の母親と共に生きる上で起きたことを「語る」というコンセプト)の兼ね合いも美しい。肉体が滑らかに駆動する歓びと深い思索/屈託が不可分に絡む、稀有の凄みを湛えた作品だと思う。
ハファエル・マルチニの音楽性と本作の成り立ちについてはこちらのインタビューが素晴らしいのでぜひ。
RYUTist:(エン)
正直に申し上げると、RYUTistには微妙な苦手意識があった。2016年末の『WonderTraveler!!! Act.5』の予備知識ゼロ感想で「良くも悪くもプロとして洗練されきっている感じ」「ガッチリ仮面を被った感じは個人的にのめり込みきれないタイプだが、そういう感じが薄いそれまでの出演者と好対照をなしてはいた」と書いているように、まさにその「それまでの出演者」(3776やsora tob sakanaなど)目当てにイベント参加しそちら向けの視点にチューニングしていたこともあってか、この時は適切な角度から観ることができなかったのだと思う。そうした印象を引きずって2020年の名作『ファルセット』も聴いていなかった自分が興味を持つきっかけになったのが「水硝子」で、君島大空(この記事の末尾でメタル的視点から詳説)の持ち味であるCynicや南米音楽のエッセンスが最高の形で活かされた作編曲の素晴らしさはもちろんのこと、その“曇り気味に輝く”ニュアンスがRYUTistの面々の歌唱により絶妙に映えているのに感銘を受けた。その君島楽曲を軸として構築されたアルバム『(エン)』は作家陣の凄さもあって全編非常に充実した仕上がりで、上記のような“曇り気味に輝く”ニュアンスも様々な形で描き分けられ、アルバム全編を貫く芯として機能している。おそらくはこれこそがRYUTistでなければ出せない味で、正統派アイドル路線のもとで技術的に洗練された類の歌唱は本作のような少しひねくれた音楽性でこそより活きる面もあるのだろう。そういう納得を与えてくれたのがパソコン音楽クラブによる「しるし」で、本作収録曲のなかでは例外的にストレートなアイドルポップスをやっているこの曲があるからこそ、RYUTistならではの正統派な持ち味と柔軟な対応力の双方が他曲との対比で引き立つ。過去作のファンは「しるし」を手掛かりに本作の音楽性に慣れていくのだろうし、自分のような経路で入った聴き手は「しるし」を手掛かりに過去作の音楽性に慣れていく(実際、最初は「しるし」だけ微妙に苦手だったのがむしろ好ましく思えるようにもなった)。それを助けてくれるのが曲順構成の良さで、個人的には「PASSPort」と最後の「逃避行」の間にもう1曲あった方がちょうどいいペースで締まるような気はするけれども、非常に完成度の高いアルバムになっていると思う。音楽的に攻めているというだけでなく、グループの持ち味そのものに取り組み優れた成果をあげているという意味でも素晴らしい作品である。
岡田拓郎:Betsu No Jikan
このスタジオ録音版の素晴らしさもさることながら、単独公演(岡田拓郎、石若駿、松丸契、千葉広樹、増村和彦)とFESTIVAL de FRUE(岡田拓郎、石橋英子、山本達久、千葉広樹)とで演奏内容が大きく変わり、各編成の持ち味を反映した異なる時間感覚や呼吸の表現がなされていたことに感銘を受けた(それこそ「別の時間」のように)。名前をつけようのない新たな音楽を創造していくかのような作品だが、各々の楽曲には既に名前のつけられた様々な音楽文脈の成果が息づいていて、聴き継がれていけばスタンダードナンバーにもなりうるソングとしての強度もある。これは、岡田をはじめとした演奏メンバー(スタジオ録音版も上記ライヴも)の殆どが今の日本のポピュラー音楽シーンで重要なセッションプレイヤーとして活躍しているのとも少なからず関係があるのではないか。霧がかかったような艶やかな音響も好ましく、山奥の澄明な空気を俗世にそのまま吹き入れてくれるような有り難さがある。腰を据えて聴き込む対象としても心地よいBGMとしても永い付き合いになってくれそうな作品。
Titan to Tachyons:Vonals
ジョン・ゾーンやMr. Bungleに連なる類のジャズ〜メタルと、Gorgutsからニューヨークの越境的音楽シーンに至る不協和音エクストリームメタル、その二つの交差点として最先端といえる2ndアルバム。前者の系譜とこのバンドの成り立ちに関してはこの日本語インタビューが非常に充実しているのでぜひ読んでみてほしい。そうした文脈の音楽的成果をうまく解きほぐしつつ豊かさを損なわずにまとめた素晴らしい作品で、不穏な鎮静感を醸し出す和声感覚はVed Buens Endeのような実験的ブラックメタルの先を示すものでもある。ツインベース(少なくとも一方は6弦)の鳴りを綺麗に聴かせる音作りも見事で、2010年代以降のポピュラー音楽の音響基準を通過し更新されたメタルサウンドという意味でも出色の出来なのではないかと思う。iTunesやHDtrackなど一部のDL販売サイトを除けばデジタルで聴くことは不可能(サブスクはもちろんBandcampからも取り下げられている)、Tzadikから出たCDを手に入れるしかない、という状況が非常にもったいない傑作である。
これは本作の内容とは直接関係のないことだが、ジョン・ゾーンは音楽のフィジカル(LPやCDなど)リリースに並々ならぬこだわりがあるため、自身のレーベルであるTzadikから出る作品は基本的にはデジタル配信を期待できないと考えたほうがよさそうだ。『ユリイカ』のジョン・ゾーン特集号(1997年1月号)には、Painkiller『Guts of a Virgin』日本盤のアルバムジャケット写真を修正するか否かについて担当者とやりとりしたFAXのコピーが掲載されているのだが(結果的に無修正で発売されている)、そこには日本語でこう書かれている。
「オレのばあいは、じぶんのRECORD COVERSはすごくたいせつなんだ。COVERが音楽そのものをあらわしていなければならない。オレは音楽だけじゃなくて、RECORDSをつくるんだ。ただTAPEをCOMPANYにあずけて、まかせっきりのやりかたは、それでうれるとしても、オレにはできない。IT HAS TO MEAN SOMETHING. RECORD PACKAGEはARTだし、きゃくはおんがくをききながら、COVERもみていると思います。」(p136から引用)
これは1991年6月の話なので今も同様のスタンスを固持しているかはわからないが、Titan to Tachyonsの今回のリリース方式(前作はサブスクにもBandcampにも残っているのでそこからの離脱はバンド自身の方針ではないだろう)を考えると、その信念は曲がっていなさそうである。個人的には、サブスクを使い始めるまではデジタル購入にさえ抵抗があったのでその気持ちはわかるのだが(逆に今は一切ない:ただし本記事の20作は全て購入済というように、聴き込むものは良い音質で鑑賞できるように必ず買っている)、Bandcampでの販売さえ否定するそのスタンスが、ゾーン関連の重要な音楽文脈が見落とされ続ける現状に繋がっているのも確かなわけで、やはりそれはあまりにも残念に思える。などなど、なかなか難しい状況ではあるが、本作を筆頭に素晴らしい作品が多いので、興味を持たれた方はぜひ掘り下げてみてほしいものである。
Trevor Dunn’s Trio-Convulsant avec Folie à Quarte:Sèance
Trevor DunnはMr. Bungleの一員であり、Titan to Tachyonやネルス・クラインのバンドにも参加、ジャズとメタル双方の領域で辣腕をふるうベーシスト。Trio-ConvulsantはそのTrevorのリーダーバンドで、Trevor同様に越境的な活躍を続けるギタリストMary HalvorsonとドラマーChes Smithという達人揃いのラインナップ。本作はそのトリオにFolie à Quarteという四重奏団(ヴィオラ/ヴァイオリン、バスクラリネット、チェロ、フルート)が加わったツインバンド編成で構築されている。Bandcampで詳しくコンセプトが説明されているように、18世紀フランスで異端視されていたConvulsionnaires(痙攣派:痙攣を伴った病気の快癒という奇跡を信じ、助けと称する過酷な業に身を投じたキリスト教の一派とのこと)や、そこに絡む排外主義や精神疾患(の社会的な扱われ方)などがテーマになっているようだが、そうした込み入った話は「研究と並行してソングライティングを行い、音楽が完成するまでは両者を結びつけない」という姿勢のもと、互いの要素に引きずられすぎないインスピレーション源として活かされている模様。本作の印象をきわめて大雑把にまとめるならHenry Cow+Mahavishnu Orchestraという感じで、滑らかな変拍子の推移(これもBandcampページに丁寧な解題あり)で場面転換を明確にしつつ、各人の卓越した演奏表現力を手際よく活かす舞台作りが素晴らしい成果をあげているように思う。極めて複雑で仄暗く難解な雰囲気があるのに、耳あたりはむしろかなり良く、テーマの内容はともかくこの音楽自体には排他的な雰囲気はほとんど感じられない、というのはやはりTrevor(ひいてはMr. Bungle)のポップセンスの賜物なのではないかと思う。繰り返し聴くほどに新たな側面が見えてきて面白みが増していく作品だ。
なお、こちらのプレイリストにもあるように、Mary HalvorsonはMelvinsからも大きな影響を受けているとのこと。こういうところにもジャズとメタルを繋ぐ地下水脈が流れているようで興味深い。
Vacuous:Dreams of Dysphoria
2020年結成のUKロンドン拠点デスメタルバンド。こちらのインタビューで述べられているように、AutopsyやdiSEMBOWELMENTのようなデスドゥームや、Portalをはじめとした不協和音デスに影響を受ける一方で、GriefやEyehategod、Dystopiaといったスラッジコア、Dead KennedysやBad Brainsなどの越境的な初期ハードコアパンクから得たものも大きいようで、その上でCerebral RotやOf Feather and Boneなど近年のデスメタルバンドからもインスピレーションを得ているらしい。ということで、まさにそうした要素をひとまとめにしたような音楽性になっているのだが、似通いながらも微妙に距離があるそれらのエッセンスをすっきり統合する手捌きが見事で、その上で確かに新しいものを生み出している。ぐずぐずに崩れてはいるのだが汚い印象のない音響は聖堂の地下に眠る屍蝋のようで、個性的な捻りを多数仕込みつつ簡潔に整理されたリフの並びを絶妙に引き立てる。加えて素晴らしいのがドラムスの機動力。「Body of Punishment」などの高速D-beat的パートや、続く「Matriarchal Blood」イントロのカウベルなど、多彩なリズム構成に極上のキレとタメを与えるグルーヴ表現力はジャンルを超えた逸品だろう。アルバムの流れまとまりも申し分なく、優れた世界観表現を備えた超一流のビートミュージックとして楽しめる。デスメタルというもの一般への入門編としても機能しうる傑作だと思う。
今年のエクストリームメタルについてはこちらやこちらの年間ベスト記事が素晴らしいのでこの領域に興味のある方はぜひ。SedimentumやCabinetのような若いバンドが新たな境地を切り拓き、ImmolationやAutopsyをはじめとする古参バンドもさらなる高みに昇っている。これからも新鮮で奥深い領域であり続けてくれそうで何よりである。