BARONESSの音楽性はプログレッシヴスラッジメタルなどと呼ばれますが、そのアウトプットの仕方は作品ごとに大きく異なります。1st『The Red Album』(2007)と4th『Purple』(2015)がそうした呼称のよく似合う逞しく神秘的な曲調が並べられた作品になった一方で、2枚組となった3rd『Yellow & Green』(2012)はメタルとかハードロックというよりはむしろブリティッシュフォークをプログレッシヴロックやミニマル音楽のフィルターを通して変容させたような穏やかな歌モノ揃いのアルバムとなり、音楽的バックグラウンドはもともと非常に広く豊かだということが示されていました。2nd『Blue Record』(2009)はそうした豊かな音楽性をうまく整理することができずアルバム全体としてはやや均整を欠いた仕上がりになってしまっていたと個人的には思うのですが、5thフルとなった本作『Gold & Grey』(1枚組扱いですがタイトルや構成を考えれば2枚組を意識してそう)ではその2nd的な路線が非常に良い形で成功しているように感じられます。本作の印象を一言でまとめれば[Solange『When I Get Home』とBLACK SABBATH『Vol.4』の間にあるようなアルバム]で、ミニマル/アンビエント寄りの単曲やOPETHあたりに通じる神秘的なコード遣いなど過去作では前面に出てきていなかった要素を抽出発展させつつ、隣接する各曲間では微妙な溝があるのにアルバム全体としては不思議と整った輪郭が描かれる、という難しい構成を見事に築き上げています。ある場面ではポストパンクやエモの薫りが漂い、また別の場面ではTHIN LIZZYやブリティッシュフォーク的な叙情が立ち上る、そしてそれらに通低する味わいにより異なる音楽性の並びに不思議な統一感が与えられている、というように。ストーナーロック版ロジャー・ウォーターズ(PINK FLOYD)という趣のボーカルも非常に良い味を出していると思います。BARONESSはインディーロックとメタルの間を繋ぐような音楽性を最も早く体現するバンドの一つとしてALCESTやDEAFHEAVENなどと並びこちら方面の代表格であり続けていましたが、4年ぶりのこの新譜はそうした領域における屈指の傑作になっていると思います。繰り返し聴き込み吟味したいと思わされる不思議な魅力に満ちたアルバムです。
いわゆるヴィジュアル系の領域における神にして日本のアンダーグラウンドシーンを代表する奇才の一人によるソロ名義新譜。同名義の前作『HARD CORE REVERIE』(2014)とCREATURE CREATUREの最新作『DEATH IS A FLOWER』(2017)の中間にあるような作品で、Boris(本作最終曲にも参加)を経由してV系とポストロック/ポストメタルを繋ぐポジションに位置しつつ孤高の音楽性をさらに鍛え上げた傑作です。ゴシックロックとフュージョンをプログレッシヴロックを介して融合させるようなコード感覚はいわゆるプログレブラックの代表格(IHSHANやENSLAVEDなど)の上位互換とすら言える蠱惑的魅力がありますし、Z.O.A.の黒木真司をはじめとした達人を従えるバンドとしての演奏表現力も驚異的に素晴らしい。個人的にはアルバムの構成がやや生硬いのが気になってしまうためこの順位としましたが(特にソロ前作の輪郭の整い方との比較で)、これで全く問題ないと思う方もいるでしょうし、安価とはいえないCD(サブスク配信はおろかDL販売すらない)を買って聴く価値は十二分にあると思います。傑作であることは間違いないです。
ももクロは初期から「全ての楽曲で異なる音楽ジャンルを試みる」「一つ一つの楽曲の中で複数の音楽ジャンルを滑らかに接続する」活動を続けてきましたが、それが最も強力かつ不可解な形で達成されたのが本作(4人体制になってから初めてのアルバム)だと思います。現行ポップミュージックの音響基準に完全対応しつつ全曲で異なる音楽性を追求したアルバムで、一枚通しての謎のまとまり感や居心地は似た作品が見当たらない。The 1975やBRING ME THE HORIZONの近作に通じる無節操に豊かな作品で、彼女たちの声(そしてその源となる人間性)がなければ成立しなかっただろう傑作です。
のもとで元ネタとは別のエクストリームなポップソングを生み出してしまう手管が本当に素晴らしく、単にコンセプト作りや設計がクレバーというだけでなくそれらに頼りきらず縛られない自由な閃きや化学反応が生じているように思います。全9曲36分という簡潔な構成も絶妙で、何度でも気軽に聴き通せてしまい更にリピートしたくなる聴き味はこのアルバムデザインあってこそのものでしょう。NINE INCH NAILSやBUCK-TICK、JAPANらの代表作に並ぶと言っていい一枚で、海外のゴシックロックには出せないV系~歌謡ロック由来と思しき柔らかさもたまらない。個人的にはコード進行の傾向が生理的な好みから微妙にずれる(もっと落ち着くものを求めてしまう)ために順位としてはこのくらいにせざるを得ませんでしたが、日本からしか生まれないタイプの世界的大傑作であることは間違いないです。
いわゆるブラックミュージックにおけるプログレッシヴ・ロック的感覚/構造の受容という点において一つの最高到達点と言えるアルバム。FLYING LOTUSは以前からGENTLE GIANTやSOFT MACHINE、CANなどをよく聴いていると発言しており、FINAL FANTASY Ⅶなどのゲームサントラもあわせブルース的引っ掛かりの少ない音楽からも積極的に影響を受けてきたようですが(親族であるジョン・コルトレーンやアリス・コルトレーンのようないわゆるスピリチュアルジャズ~フリージャズ方面の音が同様にブルース的引っ掛かりから距離を置くものだったというのもその下地になっていた面もあったかも)、本作においてはそちら方面のアイデアや構築美が楽曲単位でもアルバム単位でも過去最高の形でうまく活用されています。最先端のビートミュージックで培われた知見でカンタベリー系プログレや近現代クラシック(ストラヴィンスキーあたり)を転生させたような趣も。よく編集し抜かれた一本の映画のような構成力があり(デヴィッド・リンチがナレーションを務める13曲目「Fire Is Coming」を挟む前半後半はともに約32分という凝りよう)、それでいて過剰な解決感もなく繰り返し聴き続けられる。マッシヴなボリューム感を気軽に呑み込ませてしまうクールで熱い大傑作です。
フィンランドの地下メタルシーンを代表する(知る人ぞ知る)名バンドORANSSI PAZUZUとDARK BUDDHA RISINGの合体バンドによる1stフルアルバムで、後者のラフな混沌を前者のタイトな構成力でまとめる感じの方向性が完全に奏功。同郷のCIRCLEやUNHOLYといった何でもありバンドの気風を最高の形で継承発展する大傑作です。作編曲・演奏・サウンドプロダクション全てが著しく優れたアルバムで、4曲目「Journey to the Center of Mass」における29拍子ベースリフ&3拍子系の上物フレーズ(29拍と30拍の絡みで1周期ごとに1拍絡むポイントがズレる)のような仕掛けを全く小難しく感じさせず[集中しつつ忘我に至る]的感覚の源としてしまうのがまた見事。カルトでマニアックな内容ながら道筋の滑らかさキャッチーさはポストメタル方面の作品の中でもトップクラス。エクストリームメタルの歴史における金字塔になりうる一枚です。
この『0』は『14』同梱の引換券をライヴ会場に持参することで終演後に入手できる「二十五周年記念贈呈盤」。ゴシックロックやノーウェーヴとNWOBHM(New Wave Of British Heavy Metal:IRON MAIDENに代表される80年代初頭のパワーコード多用型メロディックメタル)などを混ぜたらグランジ寄り歌謡ロックができたという趣の内容で、その圧倒的な素晴らしさについてはこちら
Ben Frost的ヘヴィエレクトロニクスとMADLIBやFLYING LOTUSのような複雑なヒップホップ寄りビートをダブステップやドゥームメタル的音像のもとで融合させたジャズギター作。中東方面の叙情的な旋律をフィーチャーしつつ音響の昏い快楽を探求するようなビートミュージックで、ジャズのインプロヴィゼーションがどうだとかいちいち考えなくても楽しめる理屈抜きの心地よさに満ちている。全編でわかりやすいリードメロディが用意されている一方で驚異的に緻密な作り込みがなされており、ストリーミングの圧縮音源だと把握できない部分も多い。フィジカル盤やBandcampで非圧縮音源を入手し楽しむのをお勧めします。
Sen Morimotoはマサチューセッツ育ちで、そこで10歳の頃からジャズスタイルのサックスを学び始めたといいます。当地西部のDIYヒップホップシーンでマルチ楽器奏者/作曲家として活動を開始した後2014年にシカゴに移住し、その豊かな音楽シーンに大きな影響を受けたとのこと。SoundCloudで定期的に新曲を公開/消去するのと平行してBandcampで『For Me & Ladie』(2015年)と『It`s Late Remastered』(2017年)の2枚のEP(収録時間はともに10分台)を発表したのち、同じバンドに所属したこともあった当地のミュージシャンNnamdi Ogbonnayaが経営するSOOPER RECORDSと契約。本作は同レーベルからのデビュー作として製作されたキャリア初のLPで、当初は20曲以上からなる長尺を想定していましたが、より凝縮した構成のアルバムにしたかったこと、そしてパソコンの故障により録音データのかなりの部分を失ったことから、収録する曲数を大幅に絞ることになりました。そうして完成したのが全9曲40分構成の本作『Cannonball!』です。「データ破損の際は打ちのめされ喪失感にさいなまれたけれども、それを再構築する過程を通して製作に集中できるようになり、結果的に良い方向に進むことができた」という本作の仕上がりは実際大変素晴らしく、異なるスタイルに磨き上げられた楽曲全てが“ここしかない”といえる位置で互いを引き立てあう構成は完璧。何度でも快適にリピートし続けられる一枚になっています。
本作はそのローファイなサウンド(ハイファイ(金のかかったクリアでリッチな“高音質”サウンド)とは逆の印象を与える音像)もあってかあまり“技巧的に洗練された”音楽という印象を抱かれないようですが、その構造は驚異的に高度で、同じ枠で語られることの多い“インディーポップ”やジャジーヒップホップの多くとは一線を画します。よく言われるリズムトラックはもちろん和声構造がとにかく凄い。カンタベリー系のプログレッシヴロック(初期SOFT MACHINE、HATFIELD & THE NORTHあたり)やフランク・ザッパといったクラシック音楽寄りジャズロック、そしてミシェル・ンデゲオチェロやエスペランサ・スポルディングといったネオソウル~現代ジャズを、両者の共通成分である現代音楽~ポストロック的要素を媒介して融合した…というような趣のあるコード感は、たとえばMats/Morganやディグス・デュークなどにもひけをとらない高度なものですし、それらを凌駕しているのではないかと思える場面すらあります。この人が凄いのはそういう和声構造を鍵盤のコード弾きではなく複数のメロディを積み重ねる手法により構築してしまうことで、サックスやボーカルなどの印象なフレーズが絡み合って魅力的な和音を構成し、その中で各々のフレーズが効果的な引っ掛かりを生む、という理想的なアレンジを随所でみることができます。
こうした演奏感覚の味わい深さだけでなく、本作のリズム構造は楽譜的(記号的)にみても非常に興味深いものになっています。「How It Feels」と「How It Is」ではそれぞれ10拍・12拍でループする複合拍子的なフレーズが聴けますが(後者は変則的なアクセント移動のせいもあってか11拍のように錯覚しやすい)、それらは予め変拍子にしようと考えて作られたものではなく、できたものを聴いて数えてみたらたまたまそういう拍構成になっていたのだといいます。先にコンセプトを設定してそこに縛られるのではなく各々のフレーズ(そしてそこに不可分に関わるコード進行)が自然に要求する形を描いていったらたまたま変拍子になったという成り立ちもあってか、イレギュラーなリズム展開にもかかわらずそこに聴きづらさとかひけらかし感のようなものは一切なく、余計なことを考えず聴き流せる居心地のよさすらあるのです。前者終盤の「10拍ループのトラックに4拍ループのボーカルリフがポリリズミックに絡む」パートや後者の基軸となる「11拍×3で1周するループフレーズ」はそうした感覚の賜物なのではないかと思います。こうした構造が先述のような演奏感覚のもとで具現化されることにより生まれるグルーヴは唯一無二。このような点においても非常に興味深い音楽です。
以上のように、Sen Morimoto初のLPサイズ作である本作『Cannonball!』は、「宅録マルチプレイヤーによるジャジーヒップホップの変種」といった枠に留まらない音楽で、現代ジャズやアシッドフォークなど様々な方面から注目されるべき内容をもつ大傑作なのではないかと思います。個人的には「Mat/Morganとピーター・アイヴァースを混ぜて落ち着かせた」ようなものとして接している面もあり、勢いはあるけれども肩の力を抜いて浸れるものとして大変重宝しています。ジェイコブ・コリアーやディグス・デューク、WONKやANIMALS AS LEADERSといったものを好む人にもアピールしうる魅力がありますし、今年のサマーソニック&単独公演で一気に注目される可能性も高いのでは。ぜひ聴いてみてほしいです。
世界各地の民族音楽要素を併用統合し新しい日本語のポップスを生み出した、という評価をされ各メディアの年間ベストでも上位入りしている(『ミュージック・マガジン』日本のロック部門1位など)アルバムで、確かにそういう要素もあるのだけれども、個人的にはミルトン・ナシメントらの『街角クラブ』やTHE BAND『Music from Big Pink』に並ぶバンド表現の妙味が収められた一枚だという捉え方をしている。とにかく曲が良いしそれと同じくらい演奏が素晴らしい。弾き語りライヴを観て「遠くへ呼びかける」タイプの民謡発声をしているのに接したことも理解を深めてくれたように思います。時代を超えた名盤として語り継がれるだろう大傑作。
THE BEACH BOYSとJacob Collierの間にあるような複雑で親しみやすい和声+よく動くのに徹底的にキャッチーな歌メロという配合が極上で、ポップソングとしての粒立ちは全曲最高レベル。しかも演奏が素晴らしい(この人は超一流のドラマーだけどシンセベースなどもたまらなく良い)。すさまじいテンションと底抜けの脱力感が独特のユーモア感覚のもと自然に統合されているような音楽。もちろんライヴも最高でした。
「前作『ネオ』でもバンド演奏とエレクトロニクスの融合に手応えを感じてはいたがまだ生々しさがある気がした。RHYMESTERとの共演曲「The Great Journey」もKIRINJIなりにガツンといけた感じはあったが、それでも生演奏っていう感じではあるから、ダンスミュージックのトラックに比べると若干いなたく感じるときがあって、今回はそれを解消したいという気持ちがあった」
「After The Party」ではドラムスを打ち込みでスクエアに貼ったところにベースやギターがずらした演奏を乗せるネオソウル~現行ジャズ的なアンサンブル表現を試み、The Weekndを意識しつつだいぶ異なるかたちに仕上げた「新緑の巨人」では、録音したキックをサビで均一に貼りなおす一方でその前のパートではポストロックっぽい不均一な生ドラムを採用し両者をミックス段階で自然に繋げる。本作収録曲のテンポは最近のダンスミュージックやヒップホップと同程度(BPM100付近)のものが多く、アルバム通して大きな変化を生まない構成になっているのですが、上記のようにして全曲異なるグルーヴ作りがなされているため、全体としてのまとまりと微細な変化が絶妙に両立され続けます。大枠としての方向性を絞りつつそのなかで多彩な試みをすることにより統一感と表情の豊かさが両方得られる。本作のこのような持ち味は〈ループ中心の曲でもベースを細かく変化させるなど、どうしても曲を構成したくなってしまう〉嗜好の持ち主が〈同じようなテンションのまま自然にサビへ移る〉ダンスミュージック寄りポップスを志向したからこそ生まれたのだと思われます。
それにしても本当に特別な雰囲気を持ったアルバムです。例えば「新緑の巨人」。毎年〈新緑〉が芽吹く3~4月頃に心身の調子が悪くなるという堀込高樹がそうした気分からの解放を願う曲なのですが、メランコリックで哀しげなサビでも元ネタであるThe Weekndほどストレートに絶望一直線にはならず、うつむき気味ながら涼やかな佇まいで“想いが重い”感じを回避することができています。頑張れない人特有の反省と決意を描いたという「明日こそは/It`s not over yet」も見事で、深い倦怠感を滲ませつつカラ元気を捨てない様子を“控えめだけどパワフル”に示すアンサンブルは若手のバンドには難しいのではないかと思われます。これは堀込高樹の〈シニカルだけど嫌味にならない〉柔らかい歌声があってこそ可能になる表現ですし(よりシニカル度の高い堀込泰行込みの編成ではこの味は出ない)、低域を強く意識したというわりには押し出しが控えめなサウンドプロダクションもこうした絶妙なバランスに大きく貢献しています。そして極めつけはアルバム最後を飾る「silver girl」。ガールフレンドの頭に白髪があるのを見つけたポール・サイモンが「君は“silver girl”だね」と言った話からヒントを得て生まれたという歌詞〈黒髪の中に ひとすじ 銀色の細いリボンが光る〉が南米の黄昏を仄かに漂わせる物哀しいコード進行の下で柔らかく歌われ、それをスティールパンの淡く輝く音色が彩る。インスパイア元であるドレイク「Passionfruit」を上回る、マイケル・ジャクソン「The Lady In My Life」にも並びうるメロウなソウルの名曲だと思います。以上のような絶妙な〈力加減〉〈距離感〉の表現は50歳を目前にした成熟したミュージシャンだからこそ可能になるものでしょうし、その上で全く老け込んでいない瑞々しい雰囲気は、本人は「いい加減〈エバーグリーン〉とか言われたくないんです(笑)」と言っていますが、やはりその言葉が相応しい(そういう意味においては岡村靖幸にも通じる)のではないかと思います。心技体すべてが充実したベテランが最新のトレンドに完全対応することで初めて到達できた大傑作。広く聴かれてほしい素晴らしいアルバムです。
浦本雅史のミックス(サカナクションやAwesome City Club、DAOKOなどで生のドラムサウンドとエレクトロニクスをうまく混ぜなおかつ現代的なミックスをしていたのをみて採用)によりドラムスとベースがバチッとくる感じに仕上がった。堀込が自分でミックスするとストリングスやキーボードを高い音で入れてウワモノでにぎやかしを作してしまいがち。それと比べると歌の聞こえ方が全然違って新鮮だった。
AT THE GATESがカテゴライズされることが多いメロデス(この略語は日本発祥のようですが、英語圏のメディアでも使われることがあります)というジャンルは、90年代のハードロック/ヘヴィメタルシーンで大きな人気を博す一方で、コアなメタルファンからはかなりの抵抗感を示されてきました。 そもそも、メロデス登場の背景となった北欧(特にスウェーデン)の初期デスメタルシーンでは、スカンジナビア・ハードコアパンクの“すっきり流れる一方で常に渋みを伴う”音遣い感覚に、CARCASS的な暗黒浮遊感、そして欧州フォーク〜クラシック音楽的な振幅の大きい美旋律を加えるスタイルが育まれてきました。そうした初期デスメタルの名バンド(DISMEMBERやENTOMBEDなど)は最近のハードコアパンクシーンにも大きな影響を与える強力な魅力を持ったものばかりで(先述のような音遣い感覚はもちろん硬く躍動感のあるグルーヴなども)、これはコアなメタルファンにも歓迎されることが殆どです。このような「それ以前のスラッシュ/ハードコアの渋みを残したまま美旋律を導入した」北欧デスメタルも所謂メロデスに括られることが多いのですが、現在広く認知される(そしてコアファンから敬遠される)タイプのメロデスは、美旋律の導入を優先する余り先述の“渋み”を失っていることが多いです。具体例はあえて挙げませんが、特に90年代後半に日本盤が乱発された類のメロデスは、クラシカルなスケール(ハーモニックマイナー主体で殆ど半音を使わない)の薄味演歌的フレーズと安易な解決(ドミナントモーション)を連発するコード進行が極めて多く、そのワンパターンで底の浅い構造が様々な層から批判されてきました。そうした傾向は「メロデス」と最初に呼ばれるようになった幾つかのバンドより後に登場した(フォロワー的な)バンド群にかなりはっきり共通し、先述のようなスタイルの「わかりやすく刺激は強いものの味の質が単調で浅い」感じが悪い意味でジャンル全体の特徴として認識されてしまうことになったのです。 このような抵抗感は名サイト『Thrash or Die!』 http://www.geocities.co.jp/Broadway/4935/hm.html のレビューにおける評価の分かれ方でもよく示されています。実際、スラッシュメタル/ハードコアを聴き込み訓練された耳からすればそうした評価は妥当なものばかりで、私も良くも悪くも大きな影響を受けました。 しかし、全ての「メロデス」バンドがそうしたワンパターンなスタイルに陥っていたわけではありません。ARCH ENEMYはそこに分類されつつ最初から一線を画す音遣い感覚を備えていましたし、DARK TRANQUILLITYやIN FLAMES、SOILWORKなどはそこに分類されつつ優れた拡張/発展を繰り返してきました。
メロデス第一世代に数えられるAT THE GATESもそうした優れたバンドの一つです。このバンドが1995年に発表した4thアルバム『Slaughter of the Soul』はメロデスを語る際真っ先に挙げられる歴史的名盤で、先述のような初期スウェディッシュ・デスメタル的爆走感覚をより硬く整ったプロダクションでまとめたサウンド(後に「デスラッシュ」と呼ばれるサブジャンルの雛形になりました)にわかりやすく鮮烈なリードメロディをたっぷり載せるスタイルで大きな人気を博しました。
(発表当時はあまり注目されなかったようですが、アルバムリリースに伴うアメリカツアーで当地のメタルファンに衝撃を与えた結果、KILLSWITCH ENGAGE、THE BLACK DAHLIA MURDER、AS I LAY DYING、DARKEST HOURといったいわゆるメタルコア(2000年代以降の意味でのくくり)を代表するバンド達に決定的な影響を与えるなど、メインストリームのメタル/へヴィロックバンドの傑作群を上回る存在感を示し続けています。)
ただ、その名盤4thはこのバンドにとってはむしろ例外的な作品で、それ以前のアルバムではもっと雑多で豊かな音楽要素が様々な形で示されていました。1992年発表の1st『The Red in the Sky Is Ours』では専任バイオリン奏者が在籍し(メタルバンドとしては極めてイレギュラーな編成)、北欧トラッド的なパートと初期北欧デスメタル的なパートがうまく統合されないまま併置されていましたし、2nd『With Fear I Kiss the Burning Darkness』(1993)や3rd『Terminal Spirit Disease』(1994)も、1stに比べればこなれていたものの、ゴシックロック~ゴシックメタル的要素など、スタンダードなデスメタルスタイルからは逸脱する(しかし同時期の当地のシーンではTREBLINKA~TIAMATやGOREMENTなど似た味わいを追求するバンドも確かに存在していた)音楽要素が取り入れられていたのです。4thはそうした要素を隠し味程度に引っ込めつつストレートに勢いのあるスタイルに整理した作品で、それがFredrik Nordströmによるサウンドプロダクション(初期スウェディッシュ・デスメタル特有の冷たくささくれだった音作りを程よくクリアに整えつつダイナミックに仕上げた:これ以降Fredrikはメロデスシーン最大の売れっ子プロデューサーになる)で仕上げられたことにより強い訴求力を獲得し、大きな影響力と名声を勝ち得た。ということなのだと思います。つまり、そもそもAT THE GATESは典型的な「メロデス」の枠内だけで語られるべきバンドではなく、そうしたものにありがちな定型から外れる要素こそを持ち味とする音楽性の持ち主と言えるのです。
この4thアルバム発表の翌年にはバンドの中心人物だったAnders Björlerがツアー疲れを理由に脱退を表明。それをきっかけに解散したAT THE GATESは、4thアルバム発表時の編成で2007~2008年に一時的な再結成をした後、本格的な再結成を望むファンの声を受けて2014年に同編成での活動を再開。4thをTHE HAUNTED(Björler兄弟が結成した“デスラッシュ”寄りメタル/ハードコアバンド)に近づけつつそれ以前のスタイルも微妙に参照したような佳作5th『At War with Reality』を同年に発表し、その後はライヴ活動を続けていくことになります。そして2016年に再びAndersonがツアー疲れから脱退を表明。バンドはJonas Stålhammar(GOD MACABRE、ex. UTUMNO)を加え、本作6th『To Drink from the Night Itself』を製作することになったのでした。
「聴いていて気持ちの良い、楽しくて踊りたくなるようなダンス・ミュージックのアルバムを作りたかったんだ。俺のばあちゃんも楽しめるような音楽。古き良きブギーを感じてもらいたくてね。メッセージも伝えたいけど、スピリチャルになりすぎたり、重い感じにはしたくなかった。「Live for Today」は、確かにクインシー・ジョーンズやリオン・ウェアにインスピレーションを受けていて、弦楽器の音を入れて懐かしい時代の雰囲気を出したかった。アルバムの製作中には、ロナルド・アイズレー、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダー、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、アルバート・キングなどをよく聴いていたよ。俺は82年生まれだから80年代っ子で、80年代を反映する音楽を作りたかった。プリンスやジャム&ルイスも大好きだしね。だけど俺はクラブにも行くし、DJの音楽などもよく聴いているから、クラブっぽい変則的なビートなども入れている。ジャズ・ミュージシャンの視点を通して、最近の音楽がどんな感じなのかというのを伝えたかったんだ」
そうした方向性のもと製作された本作では、前作のような「シンプルな4拍子系のなかで一つ一つの出音がビートに対して大きくズレ揺らぐ」タイプの(ネオソウル的な)リズム処理は控えめになり、それぞれのパートが異なる拍子(4拍子と3拍子など)・分割(4連符と3連符など)を描きながら並走するポリリズミックなアレンジが多用されています。こうしたリズム構成は、いわゆるアフロポップや、菊地雅章、ティポグラフィカ、DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENほか菊地成孔関連、水谷浩章のphonolitetなどを参照しつつ、サポートを含むメンバー全員のアイデアを柔軟に取り入れて作られたもので、膨大な情報量が非常にうまくまとめられています。「ベッテン・フォールズ」(8分音符の長さを変えず5拍子から9拍子に移行→その8分音符1個ぶんの長さを3連符1個ぶんの長さに移し変えた4拍子に移行→既出の5拍子パートに移行、中盤では9拍子のところから8拍子に移行する)と「Buzzle Bee Ride」(アフリカ音楽のリズム型のひとつを7拍子に変形させ、そこにいわゆるアフロ・ビートが混ざってくる展開にした:アイデアの着想としてはアフリカがあるけれども民族音楽をやりたいわけでは全くないとのこと)の2曲以外でいわゆる変拍子(4または3でない拍子)が土台になる場面は一切なく(「夜になると鮭は」のトラックなども4拍子で割り切れます)、ストレートに流れる拍子の上で捻りの利いたフレーズが機能衝突を起こさず互いを引き立てあっているのです。前作の“ヨレる”“訛る”リズム処理が控えめになったのはこうしたクロスリズム的な構造を明快に提示するための(こういう構造が必然的に要求する)ものでもあるわけですが、だからといって完全に棄却されたわけでもありません。本作ではそういうニュアンス表現ができる演奏力を前提としたアンサンブル構築がなされており、微細ではありますがそういうヨレもしっかり描かれています。最終曲最後の4ツ打ちパートでも「縦割りで踊らせるものではなく、ずっと揺らいでいる感覚」が意識されているのです。インタビューで語られている
「ロウレンソ・ヘベチス(ブラジルのジャズギタリスト)の『O Corpo de Dentro』からは、民族音楽をジャズやヒップホップ、ビートミュージックといった都市的なものと接続する意志が感じられ、今回のアルバムと通じるものがあると思う。民族音楽と電子音楽をただ一緒に鳴らすというようなイージーな発想ではなく、たとえば民族音楽の太鼓のリズムの訛りがヒップホップのビートの揺らぎと似ている、だから接続可能なんだ、という考え方に立脚していると思うし、そこに共感している」
近年のSWANS(長尺ミニマル志向を強めたアンサンブル)とNINE INCH NAILSを合体させた感じの音遣い/雰囲気をCHAOS UKのような機動力を誇るハードコアバンドがじっくり演奏しているような音楽性。フレーズ/コード的に美味しい部分は高音のトレモロノイズ(ギターっぽい音色だけど何で演奏しているか音源だけではわかりくい)が担当していて、THE POP GROUPやEP-4をブラックメタル寄りの薄く肉感の乏しいサウンドにしつつ足腰の強さを高めたような質感もある。8年ぶりの新作という本作より前の作品ではグラインドコア~マスコア的な速くめまぐるしいスタイルだったとのことですが(自分は未聴)、そういうスタイルの機敏なタッチ(猫足立ちで重心を深くとるような、打音を長くとらないけど芯を打ち抜く鳴り)を維持しつつミドル~スローの長尺構成をもたせていく緩急表現および時間感覚は完璧に堂に入ったものに思えます。
個人的には、これは全てその通りなのだと思います。自分は10月5日の大阪単独公演(心斎橋Music Club JANUS)に立ち会うことができたのですが、ちょうど1時間程度の短さながら非常に充実したステージを観ていくうちに、本作を初めて聴いたときに抱きその時までまだ少しは残っていた穿った視点のようなものが氷解していく印象を抱きました。この公演は一言でいってしまえば超絶技巧シンガーによるカラオケ独演会だったのですが、MCや盛り上げのための身振り手振りといった聴衆をもてなすための動作というものが一切なく、ひたすら自分自身の納得できる音楽表現をやりきる姿勢が潔く、“交流はないが交感はある”ライヴの最高の形を示してくれたように思います。スタジオテイクをさらに上回る完璧な発声にいわゆるブラックミュージック的に精密なビート解釈が加わったボーカルは超一級で、スタジオ音源とは異なるフェイクフレーズを連発しその全てを音楽的な必然性をもって成立させていくのですが、そこにひけらかし感は一切ありません。観客を感動させ泣かせるために技巧を駆使するというような下心を全く匂わせない、あくまで自分が納得できる音楽表現を自身のために探求するという趣のパフォーマンスは、本作全体の起点となった4曲目「Daydream in Guam」について1曲目の語りで説明されるところのフロイト「喪の仕事」をそのまま示すものでしたし、宇多田ヒカルらとの対談で語られた「私的・自意識」の葛藤状態を見事に反映するものでもあったと思います。最高に性能の良い車を乗りこなす楽しみを満喫するような快感に浸りつつ、それに淫することは決してなく、ライヴでこその(他者の視点も意識した)表現を真摯に追及し続ける。何よりもまず自分のために歌う姿勢が雑味のない表現力につながり、その高純度/高品質のパフォーマンスが結果的に聴衆に見事に訴求するさまは、先述の対談記事で語られている
そういう歌詞にストレートに物哀しい音進行をあてるのではなく、むしろ巧まざるユーモア感覚あふれる楽しげな曲調でまとめてしまうというのもこの人の本当に得難いところ。Fukase(SEKAI NO OWARI)と向井秀徳を混ぜたら何か別の味わい深いものができてしまったという趣の声質も、上記のような歌詞と楽曲が組み合わさって生まれる複雑なニュアンスによく合いさらなる深みを生むものとして機能しているのだと思います。リリカルだけどペシミスティックにはならず、深みはあるけれども重くならない。尖った質感(怒りや苛立ちもあるだろう)と穏やかさ(深い落ち着き)を柔らかく両立する佇まいは、初期エモの名バンド達に別の在り方で並び立つものですし、個人的には「たま」(日本のビートルズと言われた沖縄出身の偉大なバンド)に通じるものも感じます。勢いや意志はあるけれども良い意味で定まっていない音色表現は聴き手の感情を無理に方向付けない優れた曖昧さ(そして素敵な謎)を生み、嫌味のない爽やかさ、素朴だけど地味ではない印象とあわせ、親しみやすさと頼りがいを感じさせてくれる。 本作『いつかみた国』は、こうした“在り方”レベルのキャッチーさが卓越した作詞・作曲・演奏能力とともにうまく表現された、あらゆる面において充実した傑作なのだと思います。
まず、2009年発表の1stアルバムでは、ENTOMBEDやMORBID ANGELのような初期デスメタルバンドから大きな影響を受けた速く激しいスタイルがマニア層からも高い評価を受けました。そうした人々はただ激しく重いだけの無難に整った作品は認めず、リフ(反復されるフレーズ:エクストリームメタルにおいては楽曲の主軸を担うサビ/ミニマル要素として最も重視される)の個性や音楽的必然性、そしてアンサンブルのうまさや勢いを厳しく吟味する傾向があります。それに関連して先掲レビューで用いられている「デスラッシュ」という言葉について補足すると、2000年頃から一般的なメタルファンの間で用いられるようになった意味での「デスラッシュ」は「メロディックデスメタルの音進行をスラッシュメタル的な高速テンポ&回転速度(フレーズが長くなく繰り返される量が多くなる)に落とし込みブラストビート(※バスドラム・スネアドラム・シンバルを同時に16分音符以上の細かい刻みで連打する手法でデスメタルやグラインドコア以降で主流となったスタイル:それ以前に誕生したスラッシュメタルのカテゴリでは使われないことが多く体感的な疾走感はツービートなどに比べむしろ落ちるためコアファンからは拒否反応が生じることもある)も積極的に混ぜるもの」を指すのに対し、BOYのようなコア層(メロデスを好まない:本稿AT THE GATESの項参照)のいう「デスラッシュ」は「初期デスメタル的な個性的な音進行をスラッシュメタル的な高速テンポ&回転速度に落とし込みブラストビートは本当に効果的な場面でのみ最低限用いる」ようなものを指します。TRIBULATIONの1stは後者として「2000年代スウェディッシュ・デスラッシュの最高峰」(BOYレビューから引用)というように高く評価され、アンダーグラウンドシーンにおける一つの期待の星となりました。
で言及されているように、バンドはDISSECTION(ブラックメタルのカテゴリで特に有名だが、90年代前半スウェーデンにおける「初期デスメタル」「初期ブラックメタル」のちょうど中間をいくスタイルで両シーンの人々から高く評価されている)や1999年以降のIRON MAIDEN(「ブレイズ・ベイリー期の後」すなわちブルース・ディッキンソン復帰以降)、THE BEATLES、ホラー映画のサウンドトラック(GOBLIN、ファビオ・フリッツィ、POPOL VUHなど)から影響を受けており、そうした要素をしっかり咀嚼した上で独自の形で活用することができています。例えば3曲目「In The Dreams Of The Dead」では、静と動の変化タイミングやリズム形態などはIRON MAIDEN的な様式美構成を明確に下敷きにする一方で音遣いはイタリアホラー映画音楽に北欧ゴシック風味を加えたものが主軸になっているというふうに。こうした配合の妙とそれをキャッチーな歌モノメタル形式にまとめるプレゼンテーションの上手さは一級品となり、前作までで試され積み上げられてきた持ち分が一気に花開くことになりました。なお、本作録音時にはボーナストラックとしてTHE CURE「One Hundred Years」(1982年発表の名盤4th『Pornography』1曲目)のカバーが収録されていますが、これはTRIBULATIONメンバーの友人が書いた2ndのレビューで比較対象に挙がっていたのを見て初めて聴いたことろ「これはイイぞ!」「俺達がやりたいことと完全に合致している」と感じ取り組むことになった模様。つまりそれまではTHE CUREのようなメタル外のゴシックロックは殆ど聴いたことがなく、薫り高いゴシック要素はここまで挙げてきたような初期デスメタル(ENTOMBEDやDISSECTIONのような北欧初期デス/ブラックは成り立ちの頃から濃厚に独自のゴシック成分を持っているし、MORBID ANGELも中心メンバーがDEAD CAN DANCEやTHE GATHERINGを好きなバンドの筆頭に挙げている)やホラー映画音楽から間接的に吸収してきたのだろうと思われます。そうした立ち位置の彼らがカバーする「One Hundred Years」は原曲を知らない人には「TRIBULATIONのオリジナル曲だ」と言ってもわからないくらいドハマりしたものになっていますし、THE CUREやSISTERS OF MERCYのような英国ゴシックロックバンドとAT THE GATESのようなプレ・メロディックデスメタルを繋いでみせる音楽的批評としても優れた仕上がりなのではないかと思います。
そして、2018年に発表された4thアルバム『Down Below』は、2ndから3rdに至る洗練傾向をまた別の形で推し進めたものになりました。3rdではそれまでの作品に比べ構成が整理されたとはいえ器楽パートで長い展開を描く場面が多かったのに対し、本作ではそうした間奏的場面は(一般的なポップミュージックの基準からすれば十分長いけれども)大きく削減され、ボーカルはメロディを一切歌わないガナリ声を貫いているものの楽曲のサビ的な部分が全曲で明確に用意されているというふうに。前作の構成をIRON MAIDENになぞらえるとすれば本作のそれはMERCYFUL FATEを経由して80年代JUDAS PRIEST(『Defenders of The Faith』あたり)やKISSに至るという感じで、ツインリードギターによる美しいメロディを終始乱舞させつつコンパクトでわかりやすい歌モノにまとめ上げることができています。このメロディの質はある種メロディックデスメタルにも通じるものなのですが、それを肉付けするコードの感覚がここまで述べてきたような複雑な音楽要素を反映しているものだからなのか、自分のようなメロデス苦手派でも「物足りない」「つまらない」と感じる瞬間が全くありません。このバンドが長く培ってきた独自のゴシック感覚はDARK TRANQUILLITYやKATATONIAに匹敵する薫り高さを勝ち得ていますし、滑らかに流れていくのに「泣いて済ます」感じには全くならず得体の知れない異物感を残していく聴き味は北欧エクストリームメタルに限らず他のどんな音楽にもない複雑な酔い口を与えてくれます。実は自分はこの酔い口を現時点では100%肯定することができず、30回以上聴き通した(10回時点でハイレゾ音源を購入し聴き始めた)上で年間ベスト20枚に入れようか迷い結局外してしまったのですが、それは本作の勘所(特に接する際の気分の持ち方)をうまく見つけられていないからで、これからさらに長く付き合っていくことでどんどん味が増し個人的評価も高くなっていくのではないかと思います。自分がうまく没入しきれない理由としては本作から加入したメンバーによるドラムスのロックンロール的な大味さがリズムアンサンブルの面から好みでないというのも大きいのですが、この大味さは先述のような異物感を生む原動力として大きく貢献しているように思いますし、本作にしかない独特のノリ、いうなれば「哀しみを笑い飛ばす(笑い飛ば“そうと”する)タフで柔軟な姿勢」「内省的でガッツもあるしなやかな佇まい」を生むための不可欠なパーツなのだという気もします。地下シーンの音楽的成果や雰囲気を濃厚に残しつつ非常に聴きやすい楽曲に落とし込み、スタジアムロック的な豪快さをもって提示してしまう。こうした在り方は音楽性の傾向も含め日本のヴィジュアル系にも通じるものですが(作品ごとにアウトプットの仕方を変えるのはいわゆるV系とはやや異なるがBUCK-TICKにも通じるものがある)、
の15の項で述べたように音楽的には全く保守的ではなく、同時代の流行を節操なく取り入れつつ旧来からのファンも(時間をかけて)納得させるという離れ業をやり続けてきました。例えば問題作とされた『Point of Entry』(1981)ではニューウェーブや当時のR&B要素が生硬く援用されていますし、今では歴史的名盤とされる『British Steel』(1980)や『Screaming for Vengeance』(1982)でも、前者ではハードコアパンクやレゲエ、後者ではTHE POLICEあたりに通じる音進行など、“伝統的なメタル”だけ聴いていたら得られない豊かな音楽要素が活用されています。それに対し、ほとんどのメタル系メディアはそうした要素に言及せず、旧来のメタル観のみで評価できるポイントのみを持ち上げ評価を完了します。正統派ヘヴィメタル史上屈指の名盤とされる『Defenders of The Faith』(1984)も特に後半はポストパンクやテクノに通じる要素が違和感なく導入され当時のこのジャンルでは珍しい実験をメインストリームのど真ん中でやってのけているのに、前半曲のメロディの美しさばかりが注目されるというふうに(確かにジャンル最高級のツインリードギターが聴ける大傑作なので仕方のない面はありますが)。このような状況が続いてきたのは、やはり、そうしたメディアに携わる人々がメタル外の音楽をあまり聴かず、読者にもメタル外の音楽の魅力を仄めかすことが非常に少なかったというのが大きいのではないかと思います。引きこもりが悪循環で増幅されてきたというか、悪い意味での純血主義が保たれてきたからだというか。ここ数年はそうした状態を打破しようとする動きがメディアの側からも出てきていますし(『BURRN!』が取りこぼしてきたメタル近傍ジャンルのメタル内再評価を進めている同シンコーミュージック刊の『ヘドバン』と同誌が推し続けているBABYMETALはその急先鋒と言えるでしょう)、聖飢魔Ⅱがディスクユニオンにおいてさえメタル棚に分類されていなかった10数年前と比べれば確実に状況は良くなってきていますが、個人的にはまだまだ十分ではないと思っています。あらゆるエクストリームメタルの重要な参照点となりメタル外にも大きな影響を及ぼしたCELTIC FROST