【2018年・年間ベストアルバム次点】(工事中)

【2018年・年間ベストアルバム次点】(工事中:随時追加修正をしています)

 

2018年に発表されたアルバムの個人的ベスト次点36枚です。

順位は無し。並びはアルファベット順です。

 

評価基準はこちら 

 http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2014/12/30/012322

個人的に特に「肌に合う」「繰り返し興味深く聴き込める」ものを優先して選んでいます。

アルバムを“付き合う相手”にたとえるならば、恋の激しさよりも愛の深さ、もしくは微妙な緊張関係があったとしても腐れ縁的に長く付き合えるものを。“家”にたとえるならば、時々訪れてキレイさ面白さに感心するアミューズメントパークみたいなものよりも、終の棲家として長く過ごせるものを優先して選んでいます。

 

年間ベスト20枚の記事とは異なりあえて軽く書き流すよう心がけましたが、それができていない場合も少なからずあります。文章の分量がまちまちなのはそういう事情によるものだと思っていただけるとありがたいです。

上半期ベストで扱った3枚に関しては基本的にはそのまま転載しています。

 

 

 

 

 

【次点36枚】

 

 

《目次》

短評を書いたものは太字にしています

 

 

青葉市子

A$AP ROCKY

AT THE GATES

Brandon Coleman

cero

DAUGHTERS

DORIAN CONCEPT

ENDRECHERI

星野源

HOWLING SYCAMORE

IDLES

IMPERIAL TRIUMPHANT

Janelle Monáe

JUDAS PRIEST

KING CRIMSON

筋肉少女帯

Klan Aileen

Mitski

THE 1975

小袋成彬

PORTAL

A PERFECT CIRCLE

RITES OF THY DEGRINGOLADE

RIVERS OF NIHIL

SADIST

崎山蒼志

SATAN

SLEEP

SOLEIL

SWARRRM

Toby Driver

Travis Scott

TRIBULATION

ツチヤニボンド

YOB Yves Tumor

 

 

 

《短評》

 

 

 

青葉市子『qp』

 

 

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個人的には今年最大の衝撃でした。評判の高さは何年も前から耳にしていたのですが、シンガーソングライターというもの一般への妙な偏見(自意識の高さが悪い意味で前面に出た人が多いという勝手な印象)や、自分が見た賞賛の言葉に巫女的イメージ(個人的に最も苦手なタイプの一つ)を煽るものが多かったことからか、なんとなく聴かずにいてしまった次第。そんな折、『ギター・マガジン』10月号「プロ・ギタリストが選ぶ我が心の新3大ギタリスト」で鈴木慶一さんが「ライブを観てこのようなギターを弾く人は見たことがないし聴いたことがないと思い、さらに弾きながらのボーカルが超人的です」というコメントとともにセント・ヴィンセントおよびフアナ・モリーナと並べて絶賛していたのを見て、さすがにそろそろ観ておいたほうがよさそうだと思い、翌月の全感覚祭(投げ銭で運営するDIYフェス、10月21日)@堺に行ったのでした。そうして予備知識ゼロで臨んだパフォーマンスはもう信じられないくらい素晴らしいものでした。ポール・マッカートニーがクラシカルギターでミナスサウンドを弾いているかのようなウィスパーボイス弾き語りで、THE BEATLES『Blackbird』にブラジル的な浮遊感とクラシック音楽的なメロウさを加えた感じの音遣い感覚をベースにした作編曲がとにかく良いことに加え、ギターもボーカルも技術・表現力ともに超一流。2名の達人が完璧な呼吸でデュエットしているような演奏で、どちらかが過剰に前面に出る瞬間が一切なく、どんな曲でも弾ける/歌えるだろうというテクニックを毛の先ほどもひけらかさずに静かで奥深い表現力の生成に徹しているのです。この日は発売3日前の本作収録曲のみが演奏された(つまり観客はほぼ全曲初体験だった)のですが全く問題なし。完璧な音程~フレージングで全てのコードチェンジが驚異的に美しくキマるアンサンブルは曲の良さを十二分に伝えてくれたと思います。その後の原田郁子クラムボン)出演時にさや(テニスコーツ)との3人で披露した「マホロボシヤ」もとにかく素晴らしく、感動した自分はサブスクリプションSpotifyApple Musicのような定額音楽配信サービス)での公開を待たずに本作を購入することになったのでした。

 

そうして手に入れた本作ですが、収録曲は全曲素晴らしくアルバムとしての流れまとまりも完璧で文句なしの傑作だとは思うものの、個人的には日常的に常用するには少々重いかなという印象があります。音圧で泣かせにかかるようないやらしい仕掛けをせず淡々と潤い続ける演奏は掛け値なしに素晴らしいですし、深夜にひとりの部屋でかける音楽としてはこれ以上のものはない(佐井好子に少年のような爽やかさを加えたふうな趣もある)ものの、歌われるテーマやそれを反映する音色表現はよく聴くと優しくも実は非常に重く、あまりしつこく聴き返し続けると気付かないうちに中てられてしまうというか。例えば「みなしごの雨」は曲調だけみれば明るい北欧トラッドという趣もある可愛らしい小品ですが、歌詞は「人々の祭壇に テトラポッドの雨が降る 祈る掌に砕け 見上げた空に舞い上がる ひかり 七色の銃弾」という感じで、それがいわゆるメンヘラ的な印象を一切抱かせない優しくくぐもった声で何でもないような風に歌われます。こういった極めてハードコアな何かを、単にピュアというのとは全く異なる、淀みを湛えたうえでの底抜けの清冽さをもって表現してしまう様子は、そこまで重くない曲調では「魚が住める程度に美しい水」という感じで個人的にも居心地よく思えますが、ものによっては(気分によっては)やはりきつい。驚異的な色彩の豊かさを薄闇で包みほどよくモノトーンな印象を加える音色表現、ブルース的な引っ掛かりを強く伴わずにほどよい引っ掛かりをもって滑らかに流れていく音進行(ミナスサウンドの浮遊感をクラシック音楽で溶かしほぐした感じ)などは、以上のような只ならぬ念の強さ深さを中和するものとして不可欠かつ効果的に機能しているのだと思いますが、そうやって口当たりよく仕上げられ気軽に聴けるものになってしまっているだけに、自分としては警戒が必要なものに思えてしまうわけです。その点ノルウェーの初期ブラックメタルに通じるところもあるかな。そういうものを日常的に摂取しても大丈夫な方にとってはこれ以上ない人生の友になりうるのではないかと思います。稀有の音楽であることは間違いないです。

 

というふうに、本作については現時点では「肌に合うものを感じつつうまい付き合い方を見出せていない」状態に留まっている自分ですが、ULVERのように長くそう感じていながら一時期以降の作品でうまく波長を合わせきれるようになった例もありますし、これからも折に触れて聴いていく価値の高いものだとは思っています。そしてなによりライヴが本当に素晴らしい。12月23日に神戸の湊川神社境内にある能の劇場「神能殿」で開催された「港町ポリフォニー 2018 EXTRA」では、箱鳴りの具合を繊細に把握した上で自身の共鳴腔(体内で声が響く空間)を会場と完全に一体化させているような感覚すら与える驚異的な響きの表現をしつつ、小曲を並べた約50分の長さを一つのアンビエント曲のように感じさせる時間感覚を描き出してくれました。こういうのを体験するとやはり生でこそ真価を発揮する人だと感じますし、何度でも観ていきたいと思います。

 

ところで、本作を聴くにあたって意外と見過ごされがちなポイントとして「大音量で聴く」というのがあるように思います。「ボサノバのレコードはボーカルがささやき気味ということもあって小さな音量で再生されがちだけれども、生では意外と爆音のことも多い」という話もあるように、本作も大きめの音量で聴くことにより初めて見えてくる側面があり、そうすることで初めて理解が深まる部分も多いです。その上で深夜に小さめの音量で流すのも好ましい。いろいろ書きましたが、どんな接し方も許容してくれる上に飽きのこない傑作だと思います。

 

青葉市子に似ている音楽として自分がまず思い浮かぶのはミルトン・ナシメントの「Calling(Chamada)」。この荒涼とした柔らかい歌ものアンビエント的曲調、通じるものが少なからずある気がします。

 

 

 

 

A$AP ROCKY:Testing

 

 

 

 

 

AT THE GATES:To Drink From the Night Itself

 

 

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いわゆるメロディック・デスメタルメロデス)を代表する名バンドの復活(2010年)後第2作。これまでメインソングライターだったAnders Björler抜きで製作された初めての作品で、もう一人の作曲家Jonas Björler(Andersの双子の弟)のセンスが全面的に開花した一枚になっています。もともとメロデスの枠に留まらなかったこのバンドの音楽性が深化拡張された上で非常にうまくまとめられた内容は見事の一言で、スウェーデンの初期デスメタルハードコアパンクをゴシックロックのエッセンスを加えつつ統合したようなスタイルは当地のシーン史上屈指の成果では。個人的にはこのバンドの最高傑作だと思います。

 

AT THE GATESがカテゴライズされることが多いメロデス(この略語は日本発祥のようですが、英語圏のメディアでも使われることがあります)というジャンルは、90年代のハードロック/ヘヴィメタルシーンで大きな人気を博す一方で、コアなメタルファンからはかなりの抵抗感を示されてきました。 そもそも、メロデス登場の背景となった北欧(特にスウェーデン)の初期デスメタルシーンでは、スカンジナビアハードコアパンクの“すっきり流れる一方で常に渋みを伴う”音遣い感覚に、CARCASS的な暗黒浮遊感、そして欧州フォーク〜クラシック音楽的な振幅の大きい美旋律を加えるスタイルが育まれてきました。そうした初期デスメタルの名バンド(DISMEMBERやENTOMBEDなど)は最近のハードコアパンクシーンにも大きな影響を与える強力な魅力を持ったものばかりで(先述のような音遣い感覚はもちろん硬く躍動感のあるグルーヴなども)、これはコアなメタルファンにも歓迎されることが殆どです。このような「それ以前のスラッシュ/ハードコアの渋みを残したまま美旋律を導入した」北欧デスメタルも所謂メロデスに括られることが多いのですが、現在広く認知される(そしてコアファンから敬遠される)タイプのメロデスは、美旋律の導入を優先する余り先述の“渋み”を失っていることが多いです。具体例はあえて挙げませんが、特に90年代後半に日本盤が乱発された類のメロデスは、クラシカルなスケール(ハーモニックマイナー主体で殆ど半音を使わない)の薄味演歌的フレーズと安易な解決(ドミナントモーション)を連発するコード進行が極めて多く、そのワンパターンで底の浅い構造が様々な層から批判されてきました。そうした傾向は「メロデス」と最初に呼ばれるようになった幾つかのバンドより後に登場した(フォロワー的な)バンド群にかなりはっきり共通し、先述のようなスタイルの「わかりやすく刺激は強いものの味の質が単調で浅い」感じが悪い意味でジャンル全体の特徴として認識されてしまうことになったのです。 このような抵抗感は名サイト『Thrash or Die!』 http://www.geocities.co.jp/Broadway/4935/hm.html のレビューにおける評価の分かれ方でもよく示されています。実際、スラッシュメタル/ハードコアを聴き込み訓練された耳からすればそうした評価は妥当なものばかりで、私も良くも悪くも大きな影響を受けました。 しかし、全ての「メロデス」バンドがそうしたワンパターンなスタイルに陥っていたわけではありません。ARCH ENEMYはそこに分類されつつ最初から一線を画す音遣い感覚を備えていましたし、DARK TRANQUILLITYやIN FLAMES、SOILWORKなどはそこに分類されつつ優れた拡張/発展を繰り返してきました。

 

メロデス第一世代に数えられるAT THE GATESもそうした優れたバンドの一つです。このバンドが1995年に発表した4thアルバム『Slaughter of the Soul』はメロデスを語る際真っ先に挙げられる歴史的名盤で、先述のような初期スウェディッシュ・デスメタル的爆走感覚をより硬く整ったプロダクションでまとめたサウンド(後に「デスラッシュ」と呼ばれるサブジャンルの雛形になりました)にわかりやすく鮮烈なリードメロディをたっぷり載せるスタイルで大きな人気を博しました。

 (発表当時はあまり注目されなかったようですが、アルバムリリースに伴うアメリカツアーで当地のメタルファンに衝撃を与えた結果、KILLSWITCH ENGAGE、THE BLACK DAHLIA MURDER、AS I LAY DYING、DARKEST HOURといったいわゆるメタルコア(2000年代以降の意味でのくくり)を代表するバンド達に決定的な影響を与えるなど、メインストリームのメタル/へヴィロックバンドの傑作群を上回る存在感を示し続けています。)

ただ、その名盤4thはこのバンドにとってはむしろ例外的な作品で、それ以前のアルバムではもっと雑多で豊かな音楽要素が様々な形で示されていました。1992年発表の1st『The Red in the Sky Is Ours』では専任バイオリン奏者が在籍し(メタルバンドとしては極めてイレギュラーな編成)、北欧トラッド的なパートと初期北欧デスメタル的なパートがうまく統合されないまま併置されていましたし、2nd『With Fear I Kiss the Burning Darkness』(1993)や3rd『Terminal Spirit Disease』(1994)も、1stに比べればこなれていたものの、ゴシックロック~ゴシックメタル的要素など、スタンダードなデスメタルスタイルからは逸脱する(しかし同時期の当地のシーンではTREBLINKA~TIAMATやGOREMENTなど似た味わいを追求するバンドも確かに存在していた)音楽要素が取り入れられていたのです。4thはそうした要素を隠し味程度に引っ込めつつストレートに勢いのあるスタイルに整理した作品で、それがFredrik Nordströmによるサウンドプロダクション(初期スウェディッシュ・デスメタル特有の冷たくささくれだった音作りを程よくクリアに整えつつダイナミックに仕上げた:これ以降Fredrikはメロデスシーン最大の売れっ子プロデューサーになる)で仕上げられたことにより強い訴求力を獲得し、大きな影響力と名声を勝ち得た。ということなのだと思います。つまり、そもそもAT THE GATESは典型的な「メロデス」の枠内だけで語られるべきバンドではなく、そうしたものにありがちな定型から外れる要素こそを持ち味とする音楽性の持ち主と言えるのです。

この4thアルバム発表の翌年にはバンドの中心人物だったAnders Björlerがツアー疲れを理由に脱退を表明。それをきっかけに解散したAT THE GATESは、4thアルバム発表時の編成で2007~2008年に一時的な再結成をした後、本格的な再結成を望むファンの声を受けて2014年に同編成での活動を再開。4thをTHE HAUNTED(Björler兄弟が結成した“デスラッシュ”寄りメタル/ハードコアバンド)に近づけつつそれ以前のスタイルも微妙に参照したような佳作5th『At War with Reality』を同年に発表し、その後はライヴ活動を続けていくことになります。そして2016年に再びAndersonがツアー疲れから脱退を表明。バンドはJonas Stålhammar(GOD MACABRE、ex. UTUMNO)を加え、本作6th『To Drink from the Night Itself』を製作することになったのでした。

 

本作の作詞・作曲はそれぞれTomas Lindberg(ボーカル)とJonas Björler(ベース)が基本的に全て担当し、全員が何かしらの形でアレンジに貢献しているといいます。Jonas Stålhammarが加入した時点では手付かずの部分は殆ど残されていなく、担当リードギターのフレーズ作りを除き関与している部分はあまりないとのことなのですが、本作の音遣いにはそうした話が意外に思えるくらいUTUMNOに通じる要素が多いです。UTUMNOは初期スウェディッシュ・デスメタルの中ではいわゆる“激情ハードコア”に特に近い音楽性を持つバンドで、IHSAHNやENSLAVED(ひいてはMESHUGGAH)に通じる“オーロラが不機嫌にまたたく”ような明るい暗黒浮遊感のあるコード感も魅力の一つでした。本作でもそうした音遣い感覚が各所で効果的に活用されており、AT THE GATESが過去作で培ってきた音楽要素と絶妙な融合をみせています。いわゆるメロデスメロブラ(メロディックブラックメタル:ここではDISSECTIONやNECROPHOBICなど初期スウェディッシュデスメタルシーンの近傍にいたバンドをさす)特有の比較的素直に流れる音進行を軸としつつ、北欧独特のゴシック感覚や暗黒浮遊感がうまく溶かし込まれている感じというか。最終曲『The Mirror Black』はその好例で、『The Mind`s I』期のDARK TRANQUILLITYに通じるゴシック感覚と初期IN FLAMESのようなNWOBHM由来メロデス的な音進行がこのバンドにしか扱えない按配で自然に融合しているという趣があります。そうした叙情的な音進行がスウェーデンのバンド特有のブルース感覚のもと巧みにコントロールされているのも本作の素晴らしいところです。クラシカルで流麗な旋律が多用されながらもコード的には一定の“解決しなさ”が保たれる音遣いは、定型的メロデスの「泣いて済ます」安易な進行とは異なり、「涙が流れきらない感じをどう描くか」に主眼が置かれている。本作では、そうした音遣い感覚が、複数の旋律が複雑に絡み合う多層構造(ULVER『Nattens Madrigal』などをも凌駕しうる緻密な対位法的アレンジ)のもと、かつてない錬度で熟成されています。このような構造を持った本作は、メロデスとか慟哭とかいう手垢のついた謳い文句ではなく、たとえば「北欧デスメタルシーンから生まれた異形のシンフォニック・ゴシックロックの大傑作」など、もっといろんな視点から吟味されるべき作品なのではないかと思います。

本作の素晴らしさは以上のような作編曲だけでなく演奏の良さによるところも大きいですね。このバンドのオリジナルメンバーであり地下メタルシーンを代表するセッションプレイヤーでもあるドラマーAdrian Erlandssonはメタル的安定感とハードコアパンク的躍動感を最高のバランスで統合した名人のひとりで、16分音符のシンバルが雑だというような弱点はありますが、一音一音が心地よく切れ込むバスドラムや絶妙のタイミングで引っかかるスネアなどのコンビネーションには他の追随を許さぬ旨みがあります。それが最高の形で発揮されているのが6曲目「The Chasm」で、AT THE GATESには珍しいD-Beat寄り疾走パートを渋く美味しく彩っています。それにぴったり噛み合うJonas BjörlerのベースもTomas Lindbergのボーカル(デスメタルシーンを代表する名ボーカリストのひとりで、ハードコアパンクやファンク~ソウルミュージックの影響を消化した正確で個性的なフレージングが売り)も実に素晴らしい。本作ではこのようなアンサンブルの妙味を多彩なリズム構成のもと様々な側面から楽しめるようになっていて、完璧に滑らかな部分とそうでなくむしろもっさりしている部分の両方が非常に良い形で活かされています。こういう面においても聴きどころの多いアルバムです。

 

以上のように全ての要素が充実した本作は、スウェーデンの地下メタルシーン史上屈指の一枚というだけでなく、メタルとハードコアパンク両方に影響を受けて生まれた音楽の一つの到達点としてみることもできる大傑作なのではないかと思います。「どうせメロデスだしつまらないんじゃないの」という先入観を持つ人(自分もそうでした)にはぜひ聴いてみてほしいですし、わかりやすく泣けるメロデスを好む人にとっても北欧初期デスメタルハードコアパンクの深い森に分け入る入門編として良い内容と言えます。お薦めです。

 

 

 

〈参考資料〉

DECIBEL MAGAZINE掲載インタビュー

https://www.decibelmagazine.com/2017/11/22/gates-forthcoming-lp-heavier-death-metal-last-one/

METAL WANI掲載インタビュー

https://metalwani.com/2018/04/interview-at-the-gates-tomas-lindberg-on-upcoming-album-concept-i-was-a-big-challenge-to-portray-it-musically-lyrically-in-a-death-metal-setting.html

Tomas Lindbergを創ったアルバム10選

https://www.revolvermag.com/music/gates-tomas-lindberg-10-albums-made-me

 

 

 

 

 

Brandon Coleman:Resistance.

 

 

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70~90年代のソウルミュージックR&BP-FUNKZAPP的センスでまとめつつ、現行ジャズの和声感覚や各種ビートミュージックの要素を注入して口当たりよくまとめた、という感じの傑作。Brainfeeder(オーナーのFLYING LOTUSをはじめゲーム音楽~シンフォニックなプログレッシヴロックやフュージョン寄りのものが多い)のレーベルカラーを押さえつつそこから出ているものにしては例外的なくらいブルース的な引っ掛かりがしっかり備わっている音楽性で、ファンク的な粘りを音進行・グルーヴ表現の両面で維持しつつ口当たりよく仕上げる手管が見事。その点、故バーニー・ウォーレルのクラシック音楽要素がより前面に出たPARLIAMENTが2010年代に再臨したというふうな趣もあります。

 

本作に関しては日本盤CDのライナーノーツ(林剛氏による)が非常に良い情報源/解説となっているのでそちらを読んでいただくのがよいと思いますが、インタビュー部のみ引用させていただくと、

「俺はロジャー/ザップの大ファンだ。でもトークボックスは使わない。理由は、みなロジャーみたいに聞こえてしまうから。ロジャーはトークボックスの頂点を極めた人だから、他の人が使っても個性がない。だから自分はヴォコーダーを使う。あの電子的な音が好きでね。俺はあまり自分の声が好きじゃないけど、歌うことは好きだから、ヴォコーダーを使って歌ってみたら周りから褒められて、それで音楽を作り始めたんだ。そうして出来たのが『Self Taught』であり、今回のアルバムなんだ。この音を出すのに20年かかったよ。音にヴァリエーションを出すために「Sexy」では3種類のヴォコーダーを使ってて、ひとつはダフト・パンクも使った、LAに2台か3台しかないやつなんだ」

「聴いていて気持ちの良い、楽しくて踊りたくなるようなダンス・ミュージックのアルバムを作りたかったんだ。俺のばあちゃんも楽しめるような音楽。古き良きブギーを感じてもらいたくてね。メッセージも伝えたいけど、スピリチャルになりすぎたり、重い感じにはしたくなかった。「Live for Today」は、確かにクインシー・ジョーンズリオン・ウェアにインスピレーションを受けていて、弦楽器の音を入れて懐かしい時代の雰囲気を出したかった。アルバムの製作中には、ロナルド・アイズレー、マーヴィン・ゲイマイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダースティーヴィー・レイ・ヴォーンアルバート・キングなどをよく聴いていたよ。俺は82年生まれだから80年代っ子で、80年代を反映する音楽を作りたかった。プリンスやジャム&ルイスも大好きだしね。だけど俺はクラブにも行くし、DJの音楽などもよく聴いているから、クラブっぽい変則的なビートなども入れている。ジャズ・ミュージシャンの視点を通して、最近の音楽がどんな感じなのかというのを伝えたかったんだ」

ということを言っていて、これで音楽性やその成り立ちを概ね説明してくれているのではないかと思います。70~80年代のソウルミュージック寄りポップスの美味しいところをミネアポリスファンクやデトロイトハウス的な肉感あるエレクトロサウンドでパッケージし、複雑な配合を洗練された歌ものスタイルに落とし込みわかりやすく提示する。強烈なインパクトはないもののありそうでない味わいをもつ曲ばかりで、アルバム全体としての流れまとまりも非常に良い。アナログ音色シンセによるオーケストレーションの巧みさなど聴きどころのとても多い一枚で、何度聴いても飽きない優れた傑作になっていると思います。

 

ヴォコーダーの話についていうと、KIRINJI「silver girl」について堀込高樹が言った「普通に歌ったデモは茫洋としたつまらない感じだったのだが、オートチューンをかけたらグッとカッコイイ曲に聴こえた。この曲に限らずBon Iverのボーカル処理(ボーカルのデジタルクワイアを中心に音作りをしていて生歌とエフェクター使用との境目が全然分からない箇所がとても多い)もそのままというわけではないが非常に参考にしている」という効果が非常に良い形で示されている作品なのではないかと思います。スムースな薄絹をまとっている(裸でない)からこその官能、感情を溢れ出させすぎないからこそ伝わるソウルというか。終盤のハイライト「Giant Feeling」はその真骨頂が聴ける一曲ですね。ブルース成分の濃い音楽に慣れていない人がFLYING LOTUSやBrainfeederレーベル作品を経由していわゆるブラックミュージックの深みにはまり込む入り口にうってつけのアルバムだと思います。

 

 

 

 

cero:POLY LIFE MULTI SOUL

 

 

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2015年発表の3rdアルバム『Obscure Ride』で一世を風靡、シティ・ポップやネオソウル歌謡などと呼ばれるカテゴリの代表格となったグループの4thアルバム。前作で全面的にフィーチャーされていた“ヨレる”“訛る”リズム処理(ディアンジェロロバート・グラスパーを参照したもの)は後景に引っ込み、ティポグラフィカやいわゆるアフロ・ポップに通じる多層リズムアレンジ、南米音楽などを参照しつつ独自の配合を確立した高度なコード進行が、微細なニュアンスを描き分ける超強力なアンサンブルによって巧みに統合されています。複雑な構造を過剰に難しく感じさせないプレゼンテーションの手管は完璧で、アルバム全体としても“聴きやすく聴き飽きにくい”理想的な仕上がりになっている。R&B~ヒップホップ~クラブミュージックのファンはもちろんプログレッシヴロックやポストロックのファンなどにも強くアピールしうる内容で、各所の年間ベストアルバムを獲得しまくること間違いなしの大傑作です。

 

本作のこのような音楽的方向性は、前作発表後に国内外で同様のスタイルを志すグループがあまりにも多くなりすぎた状況によるところも大きいようです。各所に掲載されたインタビュー(文末にリンクをまとめて掲載:いずれも非常に興味深く内容の被りも少ないので御一読をお勧めします)では、

  「『JAZZ THE NEW CHAPTER』で紹介されてきたような現行のジャズをリスナーとして探求する一方、ロバート・グラスパーのフォロワーが激増して「良いけどみんな一緒じゃん」となった時に、『Obscure Ride』同様そうしたもののフォロワーとして活動していくのに嫌気がさした」

「グラスパーのフォロワーが「ビートもの(ヒップホップなど)を参考にして打ち込みを生演奏に置き換える」ことばかりにフォーカスする一方で、自分たちの興味はブラジルやアフリカにも向かっていて、それらを研究しつつも未来のことを考えていく」

「何か一つのムーブメントに熱を上げ翻訳を試みる、というのではなく、世界中・古今東西の音楽を切り貼りしてめちゃくちゃ雑多なものをつくる」

 という意識・判断があったことが語られています。そうした音楽的志向は「『Obscure Ride』のようなスタイル(ネオソウル歌謡、シティポップなど)は現状すでに供給過多なのではないか」(ひいては「そこを回避することによりうまく音楽ファンにアピールできるのではないか」)という現状認識にうまく合致するものでもありました。戦略的な見方と音楽好きとしての志向性が軌を一にした結果本作が生まれた、という面も少なからずありそうです。

 

そうした方向性のもと製作された本作では、前作のような「シンプルな4拍子系のなかで一つ一つの出音がビートに対して大きくズレ揺らぐ」タイプの(ネオソウル的な)リズム処理は控えめになり、それぞれのパートが異なる拍子(4拍子と3拍子など)・分割(4連符と3連符など)を描きながら並走するポリリズミックなアレンジが多用されています。こうしたリズム構成は、いわゆるアフロポップや、菊地雅章ティポグラフィカ、DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENほか菊地成孔関連、水谷浩章のphonolitetなどを参照しつつ、サポートを含むメンバー全員のアイデアを柔軟に取り入れて作られたもので、膨大な情報量が非常にうまくまとめられています。「ベッテン・フォールズ」(8分音符の長さを変えず5拍子から9拍子に移行→その8分音符1個ぶんの長さを3連符1個ぶんの長さに移し変えた4拍子に移行→既出の5拍子パートに移行、中盤では9拍子のところから8拍子に移行する)と「Buzzle Bee Ride」(アフリカ音楽のリズム型のひとつを7拍子に変形させ、そこにいわゆるアフロ・ビートが混ざってくる展開にした:アイデアの着想としてはアフリカがあるけれども民族音楽をやりたいわけでは全くないとのこと)の2曲以外でいわゆる変拍子(4または3でない拍子)が土台になる場面は一切なく(「夜になると鮭は」のトラックなども4拍子で割り切れます)、ストレートに流れる拍子の上で捻りの利いたフレーズが機能衝突を起こさず互いを引き立てあっているのです。前作の“ヨレる”“訛る”リズム処理が控えめになったのはこうしたクロスリズム的な構造を明快に提示するための(こういう構造が必然的に要求する)ものでもあるわけですが、だからといって完全に棄却されたわけでもありません。本作ではそういうニュアンス表現ができる演奏力を前提としたアンサンブル構築がなされており、微細ではありますがそういうヨレもしっかり描かれています。最終曲最後の4ツ打ちパートでも「縦割りで踊らせるものではなく、ずっと揺らいでいる感覚」が意識されているのです。インタビューで語られている

「ロウレンソ・ヘベチス(ブラジルのジャズギタリスト)の『O Corpo de Dentro』からは、民族音楽をジャズやヒップホップ、ビートミュージックといった都市的なものと接続する意志が感じられ、今回のアルバムと通じるものがあると思う。民族音楽電子音楽をただ一緒に鳴らすというようなイージーな発想ではなく、たとえば民族音楽の太鼓のリズムの訛りがヒップホップのビートの揺らぎと似ている、だから接続可能なんだ、という考え方に立脚していると思うし、そこに共感している」

という話は、微細な揺らぎを意識的に表現する演奏とクロスリズム的な(譜面上で/記号的に交錯する)楽曲構造を両立する本作のスタイルをよく表したものと言えます。

 

そして、このようなリズムアレンジ以上に意識的に取り組まれたというのがコード面での探求です。

「前作『Obscure Ride』までは、エキゾチカやブラックミュージックなど様々な音楽に影響を受けてアレンジが変わっていったけれどもコードに関してはいわゆる邦楽の範疇に留まっていた。そういうところから脱するために、リズムについての歴史や楽理を独学で研究した後、コードについても勉強しなおした」

「今回、リズムが変わったと思う人が多いかもしれないけど、実はコードの方が凝っている」

という本作の音遣いは、エグベルト・ジスモンチマルコス・ヴァーリ、エルメート・パスコアールといったブラジルの高度なポピュラー音楽に通じつつ独自の落とし所を見つけているものばかりで、前作ではまだ色濃く残っていた「シティ・ポップ」的なスタイルを完全に回避することができています。

(前作に最も近い曲調の「Double Exposure」も何かの亜流と感じさせない個性的な進行に仕上げることができています。)

ブラジル音楽の薫りを漂わせながらも70年代フュージョン的な定型オシャレ進行に縛られない本作の音遣いは、そうした進行を多用するジャジーヒップホップ~トロピカルハウスや「シティ・ポップ」の一種として済ませられない独自の境地に到達できており、そうした点においてFLYING LOTUSやアンダーソン・パークなどに並び立つ(音楽構造の強度ではむしろ凌駕する)ものになっています。こうしたコード面の作りこみを先述のような多層リズム構造を活かすモーダルな(=コードでなくフレーズ“から”構築していく)作曲スタイルと両立する楽曲の完成度は大変なもので、聴けば聴くほど味が増す、汲めども尽きせぬ滋味に溢れているのです。

 

こうした構造の強度を支えるのがグループの卓越したアンサンブルです。

「便宜的にバンドと称することはあっても、自分(髙城)の中ではとっくにそれは終了していて、プロジェクト・チームみたいな」「主役になるのはサポートメンバーの人達で、その人達が遊べる容れ物を作る、かつ、それ(サポートメンバーが遊ぶことにより生まれる成果)をいただいて、ceroが新しいプレゼンテーションを世間にやれる、という関係が望ましい」(『ミュージック・マガジン』2018年6月号 p36より)

というふうに、本作のアンサンブルは

ceroの3人:髙城昌平(vocal, guitar, flute)、橋本翼(guitar, chorus)、荒内佑(keyboard, sampler)に

サポート:光永渉(drums)、厚海善朗(bass)、古川麦(trumpet, chorus)、小田朋美(keyboard, chorus)、角銅真美(percussion, chorus)

を加えた固定メンバー(在り方としてはTALKING HEADSなどに通じるかも)が1年以上にわたるライヴ活動を通して熟成したもので、「練習が足りないと複雑に聴こえる」という楽曲の数々を明快に解きほぐされた形で提示することができています。リズムと和声進行の大枠を提示した上で「A地点からB地点に行くまでにこの旗とこの旗をタッチしてください、というルールを設定した上で、途中のルートは各自にお任せします」というふうにし、その「ルート」をセッションやライヴを通して作り込んでいったという製作過程が示すように、各メンバーのアイデアや演奏の持ち味がアレンジにおいて必要不可欠な構成要素として活かされ、このグループにしか生み出せない“アンサンブル全体としての味わい”を作り上げていく。7~8割はメンバー全員による一発録りだという演奏は以上のような関係性の賜物なのでしょう。どのパートに注目して聴いても面白く、全体としての一体感(=グルーヴ)も素晴らしい。こうした点においても稀にみる傑作になっています。

 

このような楽曲構造の発展に呼応するかのように、本作では作詞の面でも素晴らしい達成がなされています。

「リズムやコードによって選ばされる言葉が変わってくる」「言葉と音楽の関係が、どっちが優位に立っているかで在り方が変わってきますよね」「言葉と音楽、どちらもイニシアチブを持ってるものがあるかというと、それはわらべ歌なんじゃないか。「あんたがたどこさ/肥後さ/肥後どこさ」(「肥後手まり唄」)って変拍子ですけど、言葉の区切りがリズムを生んでるので言葉が優位なのかというと、言葉と音楽がイコールだとも言える。それに近いものをつくりたいという思いはあったかな」

という意識から編み出された「かわわかれわだれ」というフレーズは、「かわわかれ(川は枯れ)」と「かれはだれ(彼は誰)」と「だれかわわかれ(誰かは別れ)」という言葉がポリリズミックにループする、音楽的な響きと言語的な意味を兼ね備えた“音楽的な言葉”で、複数の曲(1・8・12)でリズム・意味の両面において効果的な引っ掛かりを生み、アルバム全体にテーマ面での統一感を与えるのにも貢献しています。その他にも、「TWNKL」における「ちょっとレゲエ・マナーというかステッパーみたいなリズムに複雑な譜割の歌詞を乗せてみよう」「『Obscure Ride』のときは多用していたR&B的フェイクを減らしたことにより歌がトラックと調和し、いなたさがなくなった。こういう3拍子のビートダウン・ハウスみたいなものにどうやって日本語をのせるかと考えた時にゲットしたやり方のひとつ」という試みなど、作詞/ボーカルの面においても楽器陣の卓越した演奏にひけをとらない音楽表現がなされています。その上で、「生」と「死」の境界線上で遊ぶというイメージ、その象徴としての“川”、といった従来からの物語的な表現力もしっかり活かされている。聴きどころは非常に多いです。

 

  以上のような音楽的探求をする一方で、彼らが本作の製作過程で最も気を遣ったのは

「複雑なことをやっているけれどもそれを難しく聴かせない」

「難しいことをやってますというプレゼンを絶対にしない」

ということだったようです。

 「車で言ったら、エンジンの構造は複雑なんだけど単純に乗り心地が良い、みたいな感じが理想」

「途中でダンスが止まらない、踊りやすい形に調整していく」

「変わったリズムの曲をつくると言っても必然性が必要」

 という考え方は、japantimesのインタビューで語られている

「目標は理解させることではなく踊らせること。なので踊らせられなければ失敗」

 という意識に通じるもので、その背景には少なからずクラブミュージックからの影響がある模様。そうした姿勢がはっきり表れているのがアルバムの最後を飾るタイトルトラック「Poly Life Multi Soul」です。

アルバムを通して“ポリ”だったり“マルチ”だったりする側面を強調していた演奏が、最後の4ツ打ちパートに向かって同期・収束する。この曲はBPM120で、DJにハウスミュージックに繋いでもらうという明確な意図をもって作られているとのことです。

「通して聴いてここまで来て、4ツ打ちが入ってきた瞬間に「あ、これってダンスミュージックのアルバムだったんだ」と気付いてもらいたかった」

「DJにおけるしごきタイム(複雑なリズムで簡単には踊れない展開:このアルバムでは最初から最後の曲の途中までの部分)を経た上でのカタルシス

「最後、4ツ打ちに集約されて駆け抜けていく感じが、DJユースじゃないですけど、そこから次の曲がかかって夜が始まっていくような感じ」「ここから各々、いろいろな夜で次の曲に橋渡しされていくのかな、それの一部になれるのかな」

 といったイメージをもって作られた本曲は、「このアルバムがダンスミュージック集なんだというプレゼン」であり、アルバム全体のコンセプトを明快に示すものでもあります。

本作では、このタイトルトラックに限らず、たとえば

「「レテの子」や「Poly Life Multi Soul」がソリューション(解決)の曲だとしたら「Waters」は問いかけの曲」

というふうに、複雑なコンセプトを可能な限り呑み込みやすいように整理した巧みなプレゼンテーションがなされています。作編曲や演奏はもちろんアルバム全体の流れまとまりも非常に良いですし、それを聴かせるためのサウンドプロダクションに関しても

「都市的というか、レンジがワイドすぎず、ワールド・ミュージックっぽい響きにならないこと」「レンジを広げないで、R&Bやヒップホップが好きな子でも聴けるアフロビートにしたいんだという話をエンジニアにした」

というように、接しやすさということを考え抜いた上での着地点が選ばれている。聴き込んでも聴き流しても楽しめるし、細かいことを考えずに聴き浸っているうちに複雑な構造への理解度が自然に深まる優れた“教育効果”もある。あらゆる面において心憎いまでによくできた、ポップミュージックとして歴史的名盤クラスの大傑作だと思います。

 

個人的には、以上のような「計算しつくした」「図式化してプレゼンテーションするのが良くも悪くも非常にうまい」感じが微かながら確実に気になるようなところはあります。音楽構造が必然的に抱える深く豊かなカオスをしっかり捉えスポイルせずに提示することはできているけれども、そのカオスを生のカオスのまま放り出すことが良くも悪くもできていなく、「身構えている」「ほんの少しだけ火を通しすぎに感じられる」感じが出てしまっていて、そうした気配が微妙に気になるからか無防備にハマるのを避けてしまう、というか。こういう「図式化してプレゼンテーションするのが良くも悪くも非常にうまい」感じはインタビューで自分たちの音楽を饒舌に図式化し説明してしまえる様子などにもよく表れていて、彼らの“プレイヤーであるのと同時に研究者/批評家的な視点も濃く持ち合わせる”在り方を示すものだと思うのですが(そう考えると「主役になるのはサポートメンバーの人達」というような姿勢は“プレイヤー”成分を補い増やすためのある意味必要に迫られてのものなのかも)、逆に言えば本作はこのような在り方をしている人たちにしか作れないタイプの作品ですし、そういう在り方から滲み出る小賢しさが良い意味での隠し味として機能するギリギリのラインでうまくまとめられている内容だとも思います。自分は前作『Obscure Ride』を数十回聴き通し生でも2回観たうえで上記のような感じになじめず離れてしまったのですが、本作においてはそれが鼻につく部分は殆どありません。こうした面においても最良のバランスを突き詰めた大傑作なのではないかと思います。今までピンと来なかった方もぜひ聴いてみることをお勧めします。

 

 

ちなみに、本作のリズム・コード面における志向性は、R+R=NOW(ロバート・グラスパーをはじめとする現代ジャズシーンのスタープレイヤーが集結したスーパーバンド)に絡めた対談

前編

http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/18371 

後編

http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/18376 

 で語られている

「いわゆる現代ジャズの話をしていると、いまだに〈ヨレたリズム〉がどうこうって言われるけど、それはとっくにトピックではなくなっている」

「リズムの次は何かとなったときにフォーカスしたのがウワモノ。ズレたりヨレたり複雑だったりはしないけど、滅茶苦茶グルーヴしているリズムセクションがあって、その上で何をやるか、そこにどんな新鮮なハーモニーを乗せるか、それをいかに難しくは聴かせないかということが、今のジャズで試みられていることだと思う」

J・ディラ的なリズムやネオソウル的なハーモニーはもはや基礎教養になっていて、そこを通らないと次のセオリーには行けない」

「みんなそれを通過した上でその後に自分の音楽を探さなければならないというモードになっている」

 といったトピックに見事に合致するもので、そうした点においても実にタイムリーで“戦略的”(どのくらい意図的なものであるかはともかく)な作品なのではないかと思います。非常に興味深いアルバムです。

 

 

〈参考資料〉

 

公式HP掲載インタビュー

http://kakubarhythm.com/special/polylifemultisoul/#/interview 

ナタリー掲載インタビュー

https://natalie.mu/music/pp/cero05 

japantimes掲載インタビュー

https://www.japantimes.co.jp/culture/2018/05/10/music/cero-chooses-complicated-kind-pop-poly-life-mutli-soul/#.WzrM0oRcWaM 

OTOTOY掲載インタビュー

https://ototoy.jp/feature/20180516 

b*p掲載インタビュー

https://www.bepal.net/bp/47139 

 

ミュージック・マガジン』2018年6月号 掲載インタビュー

 

 

 

 

DAUGHTERS:You Won't Get What You Want

 

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 近年のSWANS(長尺ミニマル志向を強めたアンサンブル)とNINE INCH NAILSを合体させた感じの音遣い/雰囲気をCHAOS UKのような機動力を誇るハードコアバンドがじっくり演奏しているような音楽性。フレーズ/コード的に美味しい部分は高音のトレモロノイズ(ギターっぽい音色だけど何で演奏しているか音源だけではわかりくい)が担当していて、THE POP GROUPEP-4ブラックメタル寄りの薄く肉感の乏しいサウンドにしつつ足腰の強さを高めたような質感もある。8年ぶりの新作という本作より前の作品ではグラインドコア~マスコア的な速くめまぐるしいスタイルだったとのことですが(自分は未聴)、そういうスタイルの機敏なタッチ(猫足立ちで重心を深くとるような、打音を長くとらないけど芯を打ち抜く鳴り)を維持しつつミドル~スローの長尺構成をもたせていく緩急表現および時間感覚は完璧に堂に入ったものに思えます。

 


こちらのインタビュー

http://sin23ou.heavy.jp/?p=11869

で挙げられている「Alexis Marshallの人生を変えた5枚」は

AGNOSTIC FRONT『Liberty And Justice For...』

Scott Walker『Drift』

Lenard Cohen『Song From A Room』

PJ Harvey『Rid Me Of』

DEATH『Leprosy』

で、DEATHに関しては本作に直接的に通じるものがあるとはあまり思えないものの、スコット・ウォーカーのようなカントリー~アメリカンゴシックの仄暗い(時に陰湿で邪悪な)薫りが色濃く受け継がれているアルバムになっています。自分が聴き始めたのは12月中旬でその時のモードもそこまで合わなかったためベスト次点としましたが、聴き込みの度合や気分によってはこの上なく深く染みる一枚になるのではないかと思います。昏い官能に浸れる大傑作です。

 


音楽構造の核を担うのは低域(ベース・ドラムスの絡みなど)よりも高域(ギター?やエフェクトが複雑に渦巻く音像)の方なので、後者に意識的にフォーカスできているか否か、そしてそこがうまく鳴る再生機器を使って聴いているかどうかによって、没入のしやすさ、ひいては評価の高低が分かれる傾向はありそうです。ハードコアやメタルに括られる作品ではそのあたりは無視されることが多いですし、そちら方面の音楽ファンは少し気を付けておいた方がいいかもしれません。

 


 

 

DORIAN CONCEPT:The Nature of Immitation

 

 

 

 

 

 

 

ENDRECHERI:HYBRID FUNK

 

 

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堂本剛KinKi Kids)のソロプロジェクト改名後第1作となるフルアルバム。全ての作詞作曲を堂本自身が担当するファンク~ブラックロック大編成アンサンブルなのですが、国内最高レベルのプレイヤーを完璧に統率するグルーヴ表現、そしてフロントマンである堂本の技術存在感ともに優れたボーカルが本当に素晴らしい。本稿で扱う36枚の中では最も演奏が凄いアルバムですし、「日本人はリズム感がない」「アイドルが作る音楽はつまらない」といった実情を反映しない偏見に対する最高の反例となる一枚だと思います。2019年1月時点で各種サブスクリプションSpotifyApple Musicのような月額ストリーミング聴き放題)サービスで配信されていないためいまいち注目を集められていないのが勿体なさすぎる、今からでも広く聴かれるべき傑作です。

 

ジャニーズ系では珍しく公式サイトで試聴できるようになっています(4曲、各1分)

http://tsuyoshi.in/discography/hybrid-funk

自分が買ったのは最も曲数の多いCD単独盤(共通11+ボーナス3)で、ここではそれについて書いていきます。

 

本作の音楽性を一言でいうならば「P-FUNKPARLIAMENTFUNKADELIC両方)からZAPPやプリンスなどを経てディアンジェロあたりに連なるファンクの歴史を作編曲と演奏の両面で融合総括する一枚」で、『HYBRID FUNK』というタイトルを最高の形で反映する内容になっています。たとえば「YOUR MOTHERSHIP」は曲名こそP-FUNKそのものですが(PARLIAMENTの歴史的名盤『Mothership Connection』を参照しているはず)リズム構成はZAPPなどに近く、そしてどこか欧州的な暗さを感じさせる音進行(日本の歌謡曲由来のものか)が加わっているからか、ポストパンクにおけるホワイトファンク(THE POP GROUPEP-4)に通じる味が出ています。そうした音進行が最も映えているのがタイトルトラックである2曲目「HYBRID FUNK」で、MASSIVE ATTACK『Mezzanine』期とディアンジェロ『Voodoo』を足して割らないような作編曲と演奏が素晴らしすぎる。「去な 宇宙」では暗くチャーミングな雰囲気がさらにドープに表現されており、FUNKADELIC『Cosmic Slop』とBUCK-TICK『SEXY STREAM LINER』を融合させたような趣もありますし、「MusiClimber」ではディアンジェロブラックロック曲を70年代英国ハードロックに寄せたような勢いあるアンサンブルが楽しめます。そうした変化球気味な曲がある一方で例えば「SANKAFUNK」ではホーン/コーラスはもちろんキーボードの音色(バーニー・ウォーレルそのもの)まで徹底的にP-FUNKに寄せていて、その上でPにはない独自の味を出せています。これは「HYBRID ALIEN」(山下達郎リズムギターが素晴らしい)や「おめでTU」についても言える話で、ファンクの歴史における特徴的なスタイルを参照しつつ作編曲と演奏の両面において唯一無二の味を示すことができているのです。「Crystal Light」の腰だめにニジリ寄る遅い疾走感などはファンクグルーヴの真髄を理解していなければ絶対に生み出せない最高級品ですし、そうした強力なアンサンブル表現を全曲で繊細に描き分けることができているのには舌を巻きます。これほどの知見と身体能力を備えた作品は歴史的にみても稀でしょう。それでいて単なる懐古趣味に陥らないのも本作の見事なところで、例えば「セパレイトしたブレイン」のニュージャックスウィング風味はブルーノ・マーズやブランドン・コールマンのような90年代リバイバル感をうまく意識し並走しているものですし(猿真似ではなく同じルーツがあるからこそたまたまそうなってしまえるシンクロニシティ的なもの)、先述の「HYBRID FUNK」「去な 宇宙」などはいわゆるブラックミュージック出身のミュージシャンにはなかなか作れない、日本の音楽シーン出身者ならではの味覚が活きたものだと思います。以上のような楽曲を並べたアルバムの構成も優れていて、P-FUNKインスパイア系を中盤に固めつつゆるやかなグラデーションを描く流れは各曲の気の長い時間感覚をとても良い形で反映しています。繰り返し聴き浸れる傑作です。

 

その上で特筆すべきなのが堂本剛のボーカルです。本作における彼のボーカルはファンク的なシャウタースタイルを意識しつつどこかニューウェーブ的ともいえる頽廃美を前面に出したものになっていて、個人的にはヴィジュアル系を連想させられる場面も多いです。そういう歌い回しを強靭な発声でこなしつつどこかポップで人当たりのよい印象を生んでしまう歌唱表現は磨き抜かれたバランス感覚のもとに成り立っているだろうもので、様々な意味においてこの人にしか生み出せない優れた珍味なのではないかと思います。関西弁で言うところの“いちびり”感覚(この人は奈良出身でインタビューでは「奈良ってPファンクみたいやな」という発言もあり)、先述のような内省的な深みを醸し出す歌い回し、そしてファンクから学んだと思しき“ユーモラスな戦闘的姿勢”。こうした複雑なニュアンスを統合した上で、大ステージに立つ経験を無数に積んだ人でなければ身に付けられない強力な華とともに表現してしまう。陰と飄々とした気安さを高度に両立する本作の雰囲気、シリアスだけどポップな印象は、彼がいなければ表現できなかったものと言えるでしょう。DEAD ENDをラージアンサンブルのファンクにしたような感じもある作品ですし、ヴィジュアル系やゴシックロックのファンにとってのブラックミュージック入門としても非常に良いアルバムなのではないかと思います。

 

以上のように本作は本当に素晴らしい作品なのですが、自分ももしかしたらこのタイミングでは聴かなかったかもしれない一枚でもあります。冒頭で述べたようにサブスク配信されていなかったというのが主な理由で、ちゃんと聴くためにはCDを買わなければならないというのが(数年前までは当然の話だったとはいえ)ネックになったわけですが、個人的にはそれ以上に「ライヴの予習のために聴く必要が生じた」というのが実に大きかった。サマーソニック2018にENDRECHERIがラインナップされなければスルーし続けてしまった可能性も高いです。

サマーソニック(以下サマソニ)は毎年8月に海浜幕張エリア(幕張メッセマリンスタジアム・周辺ビーチ)で開催される都市型音楽フェスで、いわゆる洋楽のビッグアクトをヘッドライナー級に据え国内の人気アクトを並べて集客力を高める一方でブレイク前の実力派アーティストを多数呼ぶブッキングセンスには定評があります。そのサマソニが毎年設定し続けているのだろう枠に「往年のスター」的なものがあり、50分ほどの持ち時間の中で国民的ヒット曲を連発するアツいステージが楽しめるようになっています。自分はそこで2015年に郷ひろみを観ることができたのですが、これがもう本っっっ当に素晴らしかったのです。「ライヴを初めて観るお客さんも多いでしょうから、短い時間ですが、全ての郷ひろみを見せられるようガンバります」「今回は(自分の)10・20・30・40・50代全てのヒット曲を用意しました」というMCとともに繰り出されたのが

「GOLDFINGER 99`」(1999.7.23発売:郷ひろみ43歳)

「デンジャラー☆」(2012.4.25発売:郷ひろみ56歳)

「男の子 女の子」(1972.8.1発売:郷ひろみ16歳)

「お嫁サンバ」(1981.5.1発売:郷ひろみ25歳)

「How many いい顔」(1980.7.21:郷ひろみ24歳)

男願 Groove!」(2009.5.27:郷ひろみ53歳)

「2億4千万の瞳」(1984.2.25:郷ひろみ28歳)

という国民的ヒット曲しかないセットリストで、それを超強力なバンドによる現代的な機動力を誇るロックアレンジと郷ひろみ本人のおそろしく若々しく強靭な個性的パフォーマンス(ここまで「一音聴けばこの人とわかる」声も稀でしょう)で彩るステージは最高というほかないものでした。誰もが知っているヒット曲というのはこれほどまでに強いのかということを心底思い知らされる機会になりましたし(「2億4千万の瞳」はニコニコ動画で「おっくせんまん」のネタ元として知られるように若い世代にも独特の形で受け継がれています)、なにより演者の吹っ切れた勢いとスターならではの圧倒的なオーラが素晴らしすぎた。観衆もそういったステージングに自然に煽られ裏拍で野太い「Oi! Oi!」を入れまくったりPPPH(パンパンパンヒューの略でアイドル現場で脈々と受け継がれている定番ノリ)を楽しげに絡めたりしていましたし、自分のような「演者側が要求してくる手拍子や手振りは余程好きでない限り同調しない」タイプの人間にも素直に「一緒にやりたい!」と思わせる嫌味のない親しみやすさがたまらなく良かったのです。この年はディアンジェロを目当てに行ったのですが、少なくとも満足度に関していえば勝るとも劣らないものがありました。2017年にはこの「往年のスター」枠でTRFが出演し、自分はスルーして別ステージを観た後で「しぬほど盛り上がった」と話を聞いて「ちっくしょう行けば良かった」と悔いましたし、やっぱり「スター」って凄いんだな、売れてその後も生き残れる人たちってやっぱりそれだけの理由や実力があるんだなと年々実感を深めてきた次第です。2018年のENDRECHERI(2017年にラインナップされていたものの突発性難聴のためキャンセル、その上で翌年に再ブッキング)はその「往年のスター」枠ではなかったと思いますが、以上のような個人的経験が「ポップスのスターだから/アイドル的存在だから音楽マニア層からしたらつまらないだろう」というふうなくだらない偏見を打ち破ってくれたというのは間違いなくあります。そしてそういう機会を作り続けているサマソニの功績も評価されなければならないでしょう。自分が本作『HYBRID FUNK』を聴いたのはそういう流れからサマソニで観ることを予め決めていたからであり、『ミュージック・マガジン』2018年6月号のENDRECHERI特集がさらに背中を押してくれたからでもあります。本当に「間に合って良かった」と思いました。

 

そうした流れを経て観た2018年サマソニのENDRECHERIも本当に素晴らしかったです。ファンの熱心さを鑑みてか12時台のマウンテンステージ(2万人キャパ、最前待機を危惧してかももクロも同様の早い時間に設定されたことあり)で開催された50分ほどのライヴは「ディアンジェロMASSIVE ATTACKP-Funkで接合させるような音楽性」を「dCprG菊地成孔による電化マイルス/ポリリズム志向のラージアンサンブル)と同等以上にうまい超絶バンド+個性技術ともに完璧な超一流のフロントマン」で発展させ続けるという趣のおそろしく充実したものになっていました。このバンドの素晴らしいところといったらまあ全部なわけですが、まず何よりも演奏表現力が凄すぎる。テンポが自在に(しかも常にピッタリと!)変化し続ける集団演奏で、単体で極上のグルーヴを示してみせられる達人だけが集まって完璧な一体感を生み続けるという感じ。ベースをはじめとした全パートのリズム処理能力が驚異的で(特にキーボードとトロンボーンは楽器の特性的にもこんなにも旨くカッティングできるのは信じられないというレベル)、それが全体で一つの生き物のような“アンサンブルとしての奥深い表現力”を生むことができてしまう。世界的にみても最高水準のバンドだと思います。そしてその上で堂本剛の演奏表現力が本当に素晴らしい。ボーカルはもちろんギター(最後のセッションでの極上のタメを効かせるリズムカッティング独奏など)やベースも実にうまく、ジェームス・ブラウン言うところの「ザ・ワン(自由に演奏していいが小節頭のビート=1拍目は必ず正確に押さえる)」感覚も完璧なのが一発で伝わってきます。こうした技術はもちろんステージ上の堂々とした佇まいやコンダクターぶりも実に見事で、技術しかないアーティストでは絶対に身に付けられない圧倒的な華/存在感(バンドの顔として最も大切なもの)を最高の形で示し続けてくれます。超一流のバンドをさらに飛翔させるために不可欠な個性や頼りがい(何をやっても収拾をつけてくれる親分がいるから後ろで好き勝手にやれるという安心感)を加えてくれているわけです。これほどの手練を集めて美しくまとめあげ、一人でも聴かせられる演奏表現力と優れた個性および存在感をもって唯一無二の味を生み出してしまう。音楽史上における偉大なフロントマン=取りまとめ役(技術は微妙な場合が多い)に強力なミュージシャンシップが加わった感じ。

(こうしたことについては大槻ケンヂに絡めてこの記事

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2017/07/02/004839

の16の項でも書きました)

バンドとしての理想的な関係性を示す世界的にみても最高水準のライヴでしたし、優れたアクトの多すぎたこの年のサマソニでも最も良いステージの一つだったと思います。

このサマソニの最後では彼らが敬愛するジョージ・クリントンP-Funkの素晴らしいライヴも観ることができ、ENDRECHERIとは異なる「ファンク」本流の猥雑で可愛らしい持ち味をたっぷり示してくれました。

(それについてはこちらのツイートおよびその続きをご参照ください) 

両バンドの持ち味を比較することで非常に多くのことが見えてきましたし、そういう意味でもとても良いブッキングがなされていたフェスだったのだと思います。

 

以上のようにENDRECHERIは音源もライヴも素晴らしい最高のプロジェクト/バンドなわけですが、だからこそ今の活動の仕方について考えさせられてしまうところも少なからずあります。まずライヴ。サマソニの極上のステージを体験した上で「アンコールで40分セッションする」(『ミュージック・マガジン』2018年6月号インタビューでの発言)とか「ワンマンではだいたい3時間くらいやる」という話を聞くと「なにそれ観たい!」「堂本剛ファンの方々は普段からこんなに美味しいの食ってるのか。ズルすぎるな!」など思わされるのですが(こういう言い方はアレですが、こんなライヴを恒常的に体験しているジャニオタの人たちはそこらへんの気取った音楽マニアよりも遥かに現場での対応力や音楽リテラシーが高いだろうと思います)、ジャニーズ系の常というかやはり人気がありすぎるからか、ライヴのチケットはほとんど一般発売には流れず、ファンクラブに入っていてもそう簡単には取れないようです。それに比べれば音源は普通に買えるだけマシですが、音楽ファンの大多数がダウンロード購入やサブスク配信に慣れ、CDの再生機器を持っている人のほうが稀になりつつある現状では、CDを買わないとまともに聴くことができないというのは接するハードルの高さを(以前よりも遥かに高く)引き上げているのではないかと思うのです。三浦大知の大傑作『球体』が音楽マニア層を中心に大絶賛されたのは発売日からサブスクでフル公開されたからというのが非常に大きいですし、ENDRECHERIの本作や他名義の堂本剛関連作(他に3枚ほど買いましたがいずれも素晴らしい内容でした)も配信解禁されれば間違いなく高い評価を受けるはず。しかし、国民的人気を誇るデュオの一人で強力なファンダムを抱えており、先述のような「規模の大きいインナーサークル」的な状態で商業的にも問題なくまわしていけてしまっている以上、活動/配信をオープンにすることにメリットがあるのかどうかというのもまた難しいところではあるのです。こういう世界的に観ても稀な実力をもつ超一流のバンドがいわゆる「音楽マニア」からここまでノーマークであり続けてしまえた背景には以上のような状況があるように思います。そうしたことについてはまた様々な側面から考えなければならないでしょうが、本作をはじめとした素晴らしい音源だけでも広く聴かれるようになってほしいものです。

 

なお、「アイドルは音楽的につまらない」という偏見(ここ数年のアイドル音楽の驚異的な充実によりだいぶ薄れてきてはいます)とそれがいかに実情を反映していないかということについてはこちらの記事でも触れています。

 

2015年の年間ベストアルバム(ゆるめるモ!、3776、ももクロMaison book girl

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/12/31/175655

ももいろクローバーZの2枚の新譜を読み解く(約2万字)

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2016/03/04/225021

 

自分が堂本剛のミュージシャンシップの素晴らしさを初めて知ったのはももクロの4thアルバム『白金の夜明け』の最後を飾る名曲「桃色空」(ピンクゾラ:作詞作曲も堂本剛)で、このコラボレーションがなければENDRECHERIを聴くのはさらに遅れ、もしかしたらライヴを観る機会も失われていたかもしれない。そう思うと、巡り合わせの有り難さというものを改めて実感します。

 

個人的にはこうした音楽的豊饒を何年かかけて経験してきたからこそENDRECHERIの作品を躊躇いなく買うことができたというのは少なからずありますね。アイドルとかアーティストというのは活動形態やイメージを指すものに過ぎず、それと音楽作品としての強度や面白さはあまり関係がない(アイドルソングのテンプレとかアーティスティックな装いといったものはあるので全く無関係だとは言えませんが)。そうした複雑な状況を考える格好の題材となる一方で、世界的/歴史的にも最高水準のファンク系大編成アンサンブル作品として理屈抜きに楽しめる一枚でもある。全ての音楽ファンに聴いてほしい傑作です。

 

 

 

星野源:POP VIRUS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HOWLING SYCAMORE:Howling Sycamore

 

 

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Davide Tiso(ギター・ベース:ex. EPHEL DUATH)、Hannes Grossman(ドラムス:ALKALOID, BLOTTED SCIENCE、ex. OBSCURA, NECROPHAGIST)、Jason McMaster(ボーカル:ex. WATCHTOWER)からなるバンドの1stフルアルバム。初期WATCHTOWERをアヴァンギャルドブラックメタル化したようなスタイルで、作編曲・演奏の両面においてありそうでない独自の領域を開拓。現時点では全く注目を集めていないのが勿体なさすぎる大傑作です。

 

 ブラックメタルについてご存知ない方はこちらの記事もあわせてご参照ください:

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/03/27/050345

 

EPHEL DUATHはイタリアのブラックメタル寄りバンドで、知名度は低いものの、2005年に発表した4thアルバム『Pain Necessary to Know』(THE DILLINGER ESCAPE PLANをダウナーなブラックメタルに溶かし込んだような唯一無二の味わいを持つ)などにより一部で極めて高く評価されています。このバンドは実質的にDavideのソロプロジェクトだったようで、エリック・ドルフィーのようなフリー寄りジャズから近現代クラシック音楽に通じる高度な音遣いを独特のリズム構成とともに展開する音楽性には素晴らしい個性がありました。2009年発表の6thアルバム『Through My Dog`s Eyes』ではその最高の成果が聴けます。

同バンドは2011年からKaryn Crisis(Davideの妻となる)をボーカルに据えるのですが、発声自体は悪くないものの生硬く表現の幅に欠ける歪み/がなりスタイルが個人的には馴染めず、バッキングは非常に良いけれどもアンサンブル全体としてはちょっと…と感じた自分はそれ以降興味を失ってしまいました。Karyn込みでの最初のフルアルバム『Hemmed by Light, Shaped by Darkness』を2013年末に発表した翌年にEPHEL DUATHは「Davideの個人的事情」により解散。(離婚ではない模様?)それから目立った話が聞こえてこない状況が続いていたのですが、先月たまたまEPHEL DUATHのことを思い出してMetal Archivesで検索してみたところ、2016年の4月にこのHOWLING SYCAMOREを結成し、今年の1月に最初の公式音源となる本作を発表していたということを知るに至ったのでした。

 

自分がHOWLING SYCAMOREに興味を惹かれたのはなによりもまず「あのDavide Tisoのバンド」だったからですが、そこにこの他2名のメンバーが加わっていることにも新鮮な衝撃を受けました。ドラムス担当のHannes GrossmanはNECROPHAGISTが2004年に発表した2ndアルバム『Epitaph』(クラシカルな旋律を前面に押し出す超絶テクニカルデスメタルの名盤として後続に大きな影響を与えた傑作)などで叩いている達人で、同じ「プログレッシヴデスメタル」のカテゴリを代表する名バンドOBSCURAやBLOTTED SCIENCEでも凄まじい名演を多数残しています。また、自身が全ての作詞作曲を担当するソロプロジェクトHANNES GROSSMAN(演奏はドラムス以外委託)でも個性的で強力なテクニカルデスメタル作品を発表しており、作編曲能力についても優れたものがあります。そしてJason McMasterは超絶テクニカルスラッシュメタルの歴史的名バンドWATCHTOWERの1stアルバムで歌っていた“ハイトーン”ボーカリスト。一聴して「スピードメタル(伝統的なメタルの一つの本流NWOBHMが高速化したスタイルでハードコアパンク由来のスラッシュメタルとは音遣いの傾向などが異なる)声だ」と思わせる典型的なクセと個性的な味わいを持っています。この3人の名前を見たとき自分はこのバンドの音楽性について「BLOTTED SCIENCE(WATCHTOWERのギタリストRon Jarzombekが主催する超絶テクニカルインストデスメタルバンドでHannesも参加している)にブラックメタル色を加えた」的なものを想像したのですが、そういう場面もなくはないにせよ、実際の音ではだいぶスピードメタル寄りのストレートなスタイルになっています。それでいて構成要素は全然オーソドックスでない。非常に面白い内容です。

 

本作においては、EPHEL DUATHやHannes関連作で多用される複雑なリズムチェンジは殆どなく、ストレートな拍構成のもとでアヴァンギャルドブラックメタル的な音遣いがうまく整理された形で展開されています。EPHEL DUATHよりIHSAHNやVED BUENS ENDE~VIRUSに近いフレーズ/コード進行をスピードメタル的なそれ(WATCHTOWERやTOXIKに通じる感じ)と巧みに融合させたような音遣いは全編抽象的ながら非常にキャッチー。聴くほどにハマります。(「NEVERMOREとIHSAHNを足してスピードメタル~スラッシュメタル化した」ような趣もあり、個人的にはその2バンドよりもこちらの方が好きです。)そして演奏も実に素晴らしい。Hannesのドラムスがメタル的に硬く整ったビート処理(“跳ねない”扁平なノリ)を保ちつつ膨大な打音の全てで微細なニュアンスを描き分ける(間違いなくこのジャンルの最高級品である)一方で、Davideのギターはビル・エヴァンス(ピアノ)的な「ビートを迂回して弾く」リズム処理が巧みで、ドラムスが描く均一な座標軸の上で艶やかにヨレる動きを加えていきます。そしてその2名に負けず劣らず素晴らしいのがJasonのボーカル。スピードメタルらしいヒステリックで素っ頓狂な歌いまわしは真面目な佇まいと滑稽味を自然に両立しており、ブラックメタル由来の暗く蠱惑的な雰囲気を絶望一直線に導かないバランス感覚に大きく貢献しています。

 

このような作編曲と演奏が組み合わることにより生まれる味わいはブラックメタル・スピードメタル両方の歴史において(少なくともこのレベルでは)ありそうで全くなかったもので、「80年代末から現在に至る地下メタルの金脈で培われた深く豊かな音楽性を、80年代中頃以前における正統派メタルの“シリアスかつコミカル”な在り方のもとでうまくまとめた」ような趣があります。優れた歌モノとしてコンパクトにまとめられた楽曲は全曲がうまく異なる形に描き分けられており、その上でアルバム全体の流れまとまりも素晴らしい。入手してから1ヶ月間で40回ほど聴き通しましたが全く飽きませんでした。他では聴けない魅力に満ちた大傑作だと思います。

 

こちらの記事

http://progressiveundergroundmetal.hatenablog.com/

でいろいろ書いたように、「メタル」シーンで語られる音楽の中には、ハードコアパンク寄りの躍動感を持つ(体を突き動かす)ものから、アンビエントに流れていく瞑想向きの(フィジカルには殆ど作用しないがメンタルに効く)ものまで、ありとあらゆるスタイルのものが存在します。そうした広がりがメタル外に少しずつ知られるようになるにつれて「メタルは様式美に縛られた進歩のない音楽だ」というイメージ(実はメタル外だけでなくメタル内にも存在する先入観)は80~90年代の頃と比べるとだいぶ薄まってきてはいるのですが、いまだに色濃く残っている面もあるように思います。本作が興味深いのはそうしたイメージを利用しつつそこから逸脱できていることで、EPHEL DUATHなどでメタル的な定型を放棄し開拓した結果得られたもの(非常に面白く豊かだが聴き手からすると難解で敷居の高い印象を生む)を正統派ヘヴィメタル~スピードメタル的な“歌モノ”スタイル(ある種の様式美)のもとで吞み込みやすくまとめるという難事を成し遂げてしまっています。こういう在り方が非常に面白く、なにより単純に楽しく心地よく没入できる。今からでも広く注目されてほしい大傑作です。

 

 

 

〈参考資料〉

Davide Tisoインタビュー

http://www.heavymusichq.com/howling-sycamore-interview/ 

http://www.metaltitans.com/howling-sycamore-exclusive/ 

Jason McMasterインタビュー

https://www.axs.com/interview-jason-mcmaster-talks-debut-howling-sycamore-album-new-ignito-127000 

 

 

 

IDLES:Joy as an Act of Resistance.

 

 

 

 

 

IMPERIAL TRIUMPHANT:Vile Luxury

 

 

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GORGUTS系混沌デスメタルを60年代ジャズ(モード~フリー)で悪魔改造しジャズ方面の凄腕が演奏したような音楽性。日本では現時点で殆ど全く注目されていませんが、海外のメタル系メディアでは数ヶ所で年間ベスト入りもしている大傑作です。

 

IMPERIAL TRIUMPHANTの本作の比較対象として真っ先に挙がるのはGORGUTS

http://progressiveundergroundmetal.hatenablog.com/entry/2017/05/04/131420

の『Colored Sands』や名盤『Obscura』、そしてMITOCHONDRIONやULCERATE、PORTALといった近現代音楽(特に無調のもの)寄りの混沌ブルータルデスメタル。そうしたものに実際に影響を受けつつさらに先に向かおうとする気概と成果が示されているアルバムです。

バンドの影響源としては

メタル

https://metaltrenches.com/reviews/interview-kenny-grohowski-of-imperial-triumphant-1490

ジャズ

https://www.decibelmagazine.com/2018/10/08/imperial-triumphant-black-metal-jazz/

それぞれについてメンバー本人が詳しく語ってくれています。バンドが選ぶジャズ5選は

Miles Davis『Nefertiti』(1967)

John Coltrane『Interstellar Space』(1974)

Duke Ellington『Money Jungle』(1963)

Thelonious Monk『Monk`s Dream』(1963)

Ben Monder『Hydra』(2013)

で、非フュージョンのジャズ史におけるコード(和音)遣いの美しさが、モード(和音でなく音階から楽曲の進行を組み立てる手法:予めコード進行を定めたやり方よりも自由で複雑な和音生成が可能)普及以降(MilesおよびBen)、モード普及以前(EllingtonおよびMonk)、それらの境界/フリー寄り(Coltrane)という全域(とされる領域)にわたって参照されている模様。それに加え、GORGUTSを通してペンデレツキやショスターコヴィチといった無調寄り近現代音楽のエッセンスも吸収したり、ポスト調性理論を習得するなど、アカデミックな楽理を広範囲に渡って学び活用しているようです。

 

本作はそうした研究の成果が突き抜けた形で結実したアルバムと言えるでしょう。初期は19世紀クラシック音楽的な要素も前面に出た比較的オーソドックスなシンフォニックブラックメタルで、リズム構成もそのジャンルにありがちな突貫ブラストビートが多用されいわゆるウォーブラック的な展開も多かったのですが、2015年のメンバーチェンジで全員がジャズフィールドでも活躍するプレイヤーとなってからは曲調の幅や構成の妙も飛躍的に増し、本作では金管オーケストラ(トロンボーン2・トランペット2・チューバ1)を含む編成が激しい場面でも静かな場面でも巧みに活かされています。複雑な不協和音を終止用いながらもそのつながりは滑らかで非常にわかりやすい展開美が示されているのも特筆すべきところ。こういう洗練された進行感はやはり楽理を身に付けたミュージシャンならではのもので、先掲の混沌デスメタルバンドの名作にはない切れ味が生まれていると思います。個人的にはその進行感がやや滑らかすぎて手応えが足りないと思えるところはありますが(許容範囲内ではある)、こうしたアヴァンギャルド寄りメタルやジャズに馴染みのない人にとっては、たとえばMiles Davis『Bitches Brew』のように大名盤扱いされているけれどもそれなりの慣れがないと全然ピンとこないものよりも、不協和音の美しさを快適に味わう入門編として適しているのではないかと思います。

 

メンバーの経歴について補足すると、オーケストレーションも担当する創設者Ilya(ギター)以外の2人はむしろジャズ方面で有名なプレイヤーで、ベースのSteve Blancoは優れたピアニストとしての知名度のほうが高く、先掲インタビューで地下メタル愛を熱心に語っているドラムスのKenny Grohowskiは2018年現在John ZornのバンドやBRAND Xなどでも活動しています。また、メンバーがジャズアルバム5選に挙げたギタリストBen MonderはDan Weissの今年発表のアヴァンギャルドメタル寄りジャズ大傑作『Starebaby』にも全面参加しており、彼らが活動するニューヨークあたりのジャズシーンではメタルとの積極的な混交が(両シーンの純粋主義者からは見えないかたちで)繰り返し試みられているのではないかという気もします。そういう興味もかきたててくれる優れたアルバム。ジャズファンや近現代クラシック音楽を好む方もぜひ聴いてみることをお勧めします。

 

 

 

 

Janelle Monáe:Dirty Computer

 

 

 

 

 

JUDAS PRIEST:Firepower

 

 

 

 

 

 

KING CRIMSON:Meltdown Live in Mexico 2017

 

 

 

 

 

 

筋肉少女帯:ザ・シサ

 

 

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今年の10月末に筋肉少女帯サブスクリプション配信が一斉解禁され、2006年末に活動再開した後の作品をなんとなくスルーし続けてきた(それ以前は全て聴いていた)自分はこれを機にまとめて総ざらいしたのですが、それまで思っていたよりも遥かに守備範囲が広くしかも面白いアウトプットをすることができるバンドなのだということにやっと気付かされました。例えば、このバンドは一般的には様式美寄りハードロック/ヘヴィメタルHR/HM)主体の音楽性で知られているのですが、昨年発表された『Future!』収録の「告白」ではコード進行・フレーズ作り・リズムアレンジといった作編曲面でも演奏~出音の面でも完璧にポジティブパンク(ゴシックロック)をやっていて、しかもBAUHAUSやCHRISTIAN DEATHといったそちら方面の元祖にはない超絶技巧が違和感なく活かされています。同アルバム収録の「エニグマ」では70年代イタリアンプログレッシヴロック(というか『サスペリア』を担当したGOBLINなどによるホラー映画音楽)にPINK FLOYDのような英国プログレを融合し脱力させたような曲調が一発録りされているなど、様々な音楽性を自在に融合させ独自の形に変質させてしまうことができる。考えてみればこのバンドは各人の得意分野もバラバラで、リードギターの橘高はHR/HMリズムギターの本城はニューウェーブ~ポストパンクというふうに全くの別タイプ、ベースの内田もプログレ~アングラ志向、そしてボーカルの大槻は70年代ロック一般(プログレ~ハードロック)やハードコアパンクその他を自然体で楽しみ両立できる人。作編曲や演奏の懐が深くなるのも当然なわけです。1999年の活動凍結前はこうした多様な方向性をうまく統合できずアルバムとしてはとっ散らかった印象を与えるほうが多かったように思いますが、活動再開後は作品を重ねるほどに自由な曲想とアルバムとしてのまとまりがうまく両立できるようになっている印象があります。本作『ザ・シサ』(シサ=視差とのこと)はその一つの到達点と言える傑作だと思います。

 

本作の音楽性を一言でまとめるなら、このバンドが初めてポップ路線に明確に舵を切った『エリーゼのために』(1992)以降の曲調と初期の神秘的な雰囲気を自然に融合し、今の彼らならではの落ち着きと超絶技巧をもって味わい深く表現したという感じでしょうか。大槻は初期の筋少について「じゃがたらみたいなことをやろうとしたらハードロックになった」と言っていますが、本作収録の「I、頭屋」などはそのじゃがたらとハードロックを極めて自然に両立するものですし、大槻の語りボーカルが抜群の冴えをみせる「マリリン・モンロー・リターンズ」は初期の大名曲「いくじなし」を妙な包容力とともにアップデートするような素晴らしい出来になっています。他にも「衝撃のアウトサイダーアート」が「機械」を、「ゾンビリバー」が「再殺部隊」を連想させるなど、過去の名曲と似た印象を抱かせる場面も少なからずあるのですが、そのいずれも単なる焼き直しでなく今の彼らの技術および持ち味でなければ生み出せない表現力に満ちています。そうした充実の楽曲をまとめる全体の構成も非常に良く、序曲的インスト「セレブレーション」の長尺版に大槻の素晴らしい語りがのる「セレブレーションの視差」で一度区切りをつけた後、KING CRIMSON「Elephant Talk」(というかフィリップ・グラスのミニマル曲の方が近い?)に極上のメロウさを加えたような名曲「パララックスの視差」で締める、という流れは文句なしに見事です。筋少のポップ路線に抵抗のない人であればいくらでも繰り返し聴ける傑作だと思われます。

 

その「筋少のポップ路線」についてですが、『エリーゼのために』以降に(特に本城曲で)顕著になった明るめの曲調は、初期筋少のミステリアスな雰囲気や欧州HR/HMの泣きの音進行を好む人からは抵抗を示されがちで、そちら寄りの嗜好をもつ人は本作にも入りづらさを感じる場面が少なからずあるかもしれません。ただ、その明るめの曲調は大槻ケンヂという稀代のボーカリストのある種の側面、特に甘ったれた感じを最も活かすものであり、本作はオーケン関連作のうちそれがとりわけうまくいった一枚なのではないかと思います。先述の「セレブレーションの視差」「パララックスの視差」はその好例であり、それまでのアルバムの流れがあるからこそこの2曲の味がより活きるようになっている。そういう構成の妙をぜひ味わってみてほしいです。

 

 

 

 

Klan Aileen:Milk

 

 

 

 

 

Mitski:Be The Cowboy

 

 

 

 

 

 

THE 1975:A Brief Inquiry Into Online Relationships

 

 

 

 

 

 

小袋成彬:分離派の夏

 

 

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宇多田ヒカルの「ともだち」(2016年の復帰作『Fantôme』収録)に参加し注目されたシンガー/プロデューサー/レーベルオーナー(Tokyo Recordings)のソロデビュー作。先行リリースされた「Lonely One」(宇多田ヒカルがボーカル参加)の緻密で変化に富んだトラックメイキングと本人の卓越したボーカルが評判を呼び、作品全体を宇多田ヒカルがプロデュースしていることでも大きな注目を浴びたのですが、アルバム本体が発表された後はかなりの毀誉褒貶にさらされることになりました。その理由としては、在籍していた先鋭的R&BユニットN.O.R.K.からの流れもあってかフランク・オーシャン以降のアンビエント/オルタナティヴR&Bの日本における旗手として意識していた人々が本作の音楽性(そういう路線をストレートに突き詰めてはいない)を期待外れなものと捉えたこと、そしておそらくはそれ以上に、アルバムの1曲目と6曲目に置かれた語りトラックの内容に抵抗感を示す人が多かったということが挙げられるのではないかと思います。

 

「彼は『伊豆の踊り子』のなかで『歪んだ孤児根性』という有名な言葉をいれてるけど、一番印象的なのは、最後に彼は東京に戻る船に乗る。で、踊り子たちと別れて、で彼は泣くでしょ。ま、そういうことを通して、なんかこう、人と人とのつながりの中で、ストレートに、素直に、人と付き合っていけないとか、常に川端康成自身は、自分が孤児であるっていう。で、川端康成自身も(そういった孤児根性が彼にとって)必要なものとして書かれている。ね。じゃ、一番重要なことは、芸術っていうものは、関わらなくてもいいものなんですよ。なくてもいいものなの。別になくても生きていける。だからほとんどの人は生涯に一つも作品なんか残さないわけでしょ。でもじゃあなんで作品が残すか、じゃ作品を残す人々を、芸術家たちっていうのはなんでそれを残すかっていうと、やっぱその作品そのものが、やっぱ必然、すなわち、まあ小袋くんもそうかも…そうだろうけれども、ちょっとあの…それを生み出さなければ前に進めないっていうね、作品という形に置き換えることによって、ひとつこう、ケリをつけていくっていうところがある。だからそれは、まあ、話は戻るけれども、まあ、三島由紀夫川端康成も、ベートーヴェンラヴェルR.シュトラウス宮崎駿も、みんなしてきたこと。どうしてもそれを作品化しなければならなかったという必然性、まあ…それが芸術であって。だって僕はねやっぱり、まあ僕にだって悩みはあるし、いろいろな思いはあるけれども、それをなんかこう切り取って、作品化していかなければ、先には進めないっていうか(以降フェイドアウト)」

(アルバム1曲目「042616@London」八木宏之による語り書き起こし)

参考:小袋成彬×八木宏之対談

http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/19114

 

「2017年10月11日。朝の8時。えー、スペインでは、日が昇り始めてきました。今、カミノデサンティアゴの道を歩いています。フランスのサン=ジャン=ピエ=ド=ポルからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラという街まで、800km弱を徒歩で歩きとおすという、30日ちょっとかけて歩く旅です。(※「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」をゆく旅だと思われる。)小袋くんに、えー、会社を辞めたときの話をしてほしいと言われて、その話はこんな話だったんだけど。えー、会社のカード式の社員証?あれで日々、会社のゲートをくぐりながら、ある時、その同じカードで自動販売機のところにカードをピッとこうかざして、コーヒーを買ったときに、あーこれはなんか、モノを消費している主体であるはずの自分が、実は消費されていってるんじゃないかと。社会という構造の中で、えー自分が、その中に取り込まれてね、どんどん消し尽くされていってしまうと。そういうような気がして、それであーこれはまずいなと思って。今、じゃホントに何をしなきゃいけないのかって考えた時に、やはり何かものを作らなきゃいけないなと思った。という話を、会社辞めるときに小袋くんにして、その、自分が消費されていってるっていう、社会にね、消費されていってるっていう感覚がすごく、小袋くんに響いたらしくて、その話をしています。えー、今は旅の6日目で、ロスアルコスという町に向かって歩いています。さっき看板があって、残り5.7kmぐらいかな。あー(溜息)。世界は、広い。っスねー。こうして歩いて、ただ道を歩いて、……、何もない道だけど、いま自分の道を歩いているという気がします。」

(アルバム6曲目「101117@El Camino de Santiago」酒井一途による語り書き起こし)

 

これがそのまま(1曲目は清冽なアンビエントトラックにのせて)語られるのに対し、多くの人がそこに「意識が高い」的な印象を抱き、それを許容できるかできないかがアルバム全体の賛否に直結してしまったのではないかと思うのです。自分も初回はかなり強い抵抗感を抱きました。しかし、繰り返し聴いていくうちに不思議とOKになっていったのです。この語りをしている二人やこのアルバムを作っている小袋成彬(おぶくろなりあき)には、そういうことを言ったり実行に移したりしている自分が他者にどういう印象を与えるかという客観的意識やそうしたことを誇示する下心のようなものがほとんど全くなく、いわゆる厨二とか意識高い系ではない、「自分はこうしなければ生きられない」ということに真っ直ぐ向き合ったからこその純度の高さがある。そしてだからこそ聴き手に対しても莢雑物なく素直に浸透する爽快感がある。ということが徐々に実感できていったわけです。個人的には。そしてそういった印象が的外れではないということは、様々な対談やインタビュー記事でもよく示されているように思います。

 

小袋成彬と本作については、以下の2つの記事

柳樂光隆によるインタビュー

https://realsound.jp/2018/04/post-185639.html

宇多田ヒカル『初恋』特設ページ掲載座談会(宇多田ヒカル小袋成彬・酒井一途)

http://www.utadahikaru.jp/zadankai/

で非常にわかりやすくしかも面白く示されているように思います。

 

柳樂光隆(JTNC=Jazz The New Chapterで現行ジャズの音楽的興味深さを広く深く網羅していく優れた評論家で小袋とも仲が良い)とのインタビューは他の各媒体のもの

mikiki    

http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/17642

i-D Vice

https://i-d.vice.com/jp/article/bjpde8/his-life-and-soundscape-nariaki-obukuro

billboard JAPAN

http://www.billboard-japan.com/special/detail/2283

とは段違いに素直に話をする語り口および具体的な音楽話が面白い記事です。

自分は本作のボーカルやトラックのリズム処理はいわゆるネオソウル(ヒップホップ的なヨレるリズム処理を取り込んだ生演奏寄りソウルミュージック)よりも日本の歌謡曲~フォークに近い(全ての音符で分割ビートを精密に捉えていくというよりはそこからに離れいい加減に伸び縮みするタイプのもの)と思うのですが、それについても

「いろいろやっていくうちに、洋楽を焼き増していくのが無理だってわかったんですよ。3年前くらいから、いろんな手法を試したんだけど、母音がはっきりしていて、音節がない、一つの発した言葉で一文字しか表せない、日本語の独特なものって、玉置浩二さんみたいな歌い方じゃないと表現できないんですよ。僕は自分がやっていることはフォークソングの延長だなって思っていて。南こうせつさんのようにいきなり語りだしてから歌うとか、頭をすっごい空けてから後ろに詰めるとか、そういう感覚が日本語のグルーヴとして染みついているから、それを念頭に置きながら歌っていたんですよ」

(柳樂光隆インタビューのリアルサウンド記事から引用)

というふうに意識してそうやっていることが示されていますし、先述の「Lonely One」では宇多田ヒカルの歌い方(独特のアクセント付けとあわせ上記のような日本語歌詞を歌謡曲とネオソウルの融合体的に精密に分割ビートに乗るフレージングで演奏してしまえる)とよい対比をなしています。

また、RADIOHEADロバート・グラスパーなどアメリカの現行ジャズミュージシャンにも大きな影響を与えそこからネオソウル~オルタナティヴR&B方面にも様々なものを伝えている)のような音響表現、そしてラヴェルのようなフランス近現代音楽の和声感覚が入り込んでいることも仄めかされていますし、本作を聴き込んだ上で読み返すと非常に納得感のある記事になっています。

 

そして宇多田ヒカルおよび酒井一途(本作6曲目の語りを担当した劇作家/小説家)との対談記事ですが、これは宇多田の新譜『初恋』(今年発表)にあたっての大ボリューム対談ながら半分くらいは小袋と本作『分離派の夏』をメインテーマとしています。今年の音楽関係記事の中で最も面白いものの一つなのでぜひ全編読んでいただきたいですが、ここでは本作に関係する部分だけ(合いの手的なコメントは文脈がおかしくならない範囲で外して)引用させていただくことにします。

 

http://www.utadahikaru.jp/zadankai/s4.html

宇多田「谷原さん(谷原章介)も沖田さん(沖田英宣D)も、小袋くんのアルバムの温度の低い感じがいいって、二人とも共通して言ってた。何かに酔いしれてたり、他人の目に甘えている感じが一切なくて、解放できない自分へのもどかしさも含めて、どこかロジカルに醒めた目で自分を見ている。それさえ蔑む自分がいる。そういうものが表れているのがすごくいいんだと思う。」

宇多田「私もすごく自分を俯瞰するところあるけど、そういう自分に対しての蔑みはないから。」

酒井「おぶは、自分をめちゃくちゃ突き放すもんね。」

酒井「尋常じゃないよ。だからこそ私小説的なものを、まったくいやらしさなく、エゴが露呈することなく書けてるんだと思う。それこそ物語、だよね。」

宇多田「小袋くんの内部には、「小袋くん」と、「小袋くんを常に意識している小袋くん」の二人がいて、お互いを見ているように感じる。私が違うのは、内部に私しかいなくて、それが全部。外の世界と行き来しやすい。自分と対峙する自分がいないから、無意識になりやすい。自意識の話をしたけど、小袋くんにはすごく自意識がある気がする。それは他者との関係性の中ではなく、自分との関係性の中での自意識がね。私、皆無なの。」

小袋「俺はそうよ。同じ部屋の中で二人がフェンシングやってるみたいに。」

小袋「私的・自意識があって、ぶち殺さなきゃいけないんだ、そいつを。あるいは殺されなきゃいけない。闘牛場ともいえるな。周りがどう思っても関係ないの。だから公的・自意識はないわけ。でも自分の武器だと思ってる。あまりそういうミュージシャンいないし。」

小袋「人によっては、それをエゴイスティックで気持ち悪いという人も、たぶんいっぱいいる。まあ、別に関係ないんだけど。」

宇多田「世間のリアクションを見てて、小袋くんに批判的な人とか、苦手という人は、すごく大きな誤解を持ってる気がする。そういう人は「他者にこう思われたいという感情がない状態、他者をまったくもって意識しないでいること」を信じられないでいるんじゃないかな。人の目を気にしちゃったり、競争意識の中にいたり、自分がこう見られたいという気持ちのある人が、「まさかこいつ、本当にそういう意識がないわけないじゃん、絶対カッコつけてるんだ、絶対なにか繕ってこうなってるんだろ、嘘のスタンスだろ」って思って、苦手だと感じてる人が多い気がする。」

酒井「それって嫉妬でもあるんじゃないかな。」

宇多田「そうそうそう。だから極端に好きっていう人と、苦手だっていう人と、分かれてる気がする。」

小袋「そう。どっちでもいいんだけどね、僕は。」

宇多田「それがいいな、って思って。」

酒井「清々しいよね。生き方、清々しいよね。」

宇多田「(笑)風通しいいよね。」

小袋「嫌いな人は本当嫌いだろうからね。」

宇多田「媚びてない、ってことだからね。そこが魅力的だなと思う。」

 

http://www.utadahikaru.jp/zadankai/s5.html

小袋「フェンシングしてる自分がいないときが一番心地いいかもね。」

酒井「わかる。その状態をいつも目指してる。」

小袋「どこにも自分を咎める自分がいない時。」

宇多田「自意識が消えちゃう瞬間ね。私、それが音楽作りのときに感じる、一番の快感。自分が消える。出てくるんだけど、同時に消える。」

小袋「僕は常々いるから。」

酒井「作ってる時も?」

宇多田「作ってる時、解放されないの?」

小袋「できればいなくなってほしいと思って没頭するけど、やっぱりいる。常にそいつと闘いながら作る。そいつがいない時にできた作品がいいとは限らないし。僕にとってね。だって、そいつがいることが本当の俺だから。そいつを押し込めたところで作っても、俺じゃないかもと思う。だから、ありのままって本当にできないんだよね。」

小袋「読んだ作家で誰かいる?同じような人。」

酒井「誰かな…ヘッセは統一に向かう。」

小袋「ヘッセは統一に向かう。確かにそうだ。俺は統一に向かわない気がするし、だからヘッセが好きなんだ。」

宇多田「違うから好きなんだ?」

小袋「憧れも含めてね。」

 

http://www.utadahikaru.jp/zadankai/s6.html

宇多田「根底では、私も他者の存在なんかどうでもいいって、本当は思ってるの。それこそ子供の頃から、大事なものは他者に求めてはいけないと思ってたから。大人はみんな、違うこと言ったりするでしょ。だから、真実や救済を他者に求めてはいけない、って気づいてた。けど子供だったから、まだ大人に頼らないといけないじゃない。ある程度は他者と共存して、生存していく必要があって。それでわからないなりに、AIみたいに他者の行動パターンとか、思考パターンのデータを集めて、予測したり危険を察知して生きてきた。だからある意味で、私は他者のことをすごく考える。事象としてね。自分の身の安全のために。小袋くんは、わかんないから考えない。他者を考えないで自分を保ち、生存する。私は、他者を考える。考えることで生存する。逆の対応をしているだけで、根底の感覚、哲学は同じなんだろうな。だから自分の好きなものだけを考えて選ぶ人といるのは、私タイプからすると楽なの。おたがいに私タイプだと、相手が欲しがりそうなものを考えあうから、空論と空論がぶつかりあって意味がない。」

小袋「プロデュースの過程で、最初はめちゃくちゃぶつかった。「こういう歌詞の方が、もっと人に響く可能性がある」って言われて。つまり、他者が目の前にいるという想定での、プロデューシングをされて。僕には全く意味がわからなくて。なんでそこに他者が介在するのか。僕からしたら、他者を観察することによって得た情報で、他者に共感できると思っていることが、不思議で仕方ないんだよね。人が本当にどう思っているかなんて、確かめられないから。」

宇多田「レストランを開くのに、人がどんな味だと思おうが関係ないんだというのなら、お店を開かなければいいじゃない。自分のためにだけ、料理して食べてればいいんじゃないの、ってことになる。でも自分が美味しいと思うものを、みんなに提供したいという思いもあるはずでしょ?そうでないなら、みんなに提供するというのはなんでなの?って。矛盾を感じちゃったわけ。他者のニーズに応えろ、というんじゃないよ。それは芸術じゃない下品なものだから。でも、無視はしない、っていうのが、私の精いっぱいのアーティストとしての大事なこと。そこに他者がいて、無視はしないけど、迎合もしない。本当にちょっとしたなにか、薄氷のような、あるかないかよくわからないくらいの意識の違いなんだと思う。意識するのと、無視しないのと、ぎりぎりのあいだくらい。小袋くんは、最初無視してるっぽい感じがあって。」

小袋「それは気付かされたことだね。」

宇多田「でも変わったよね。」

小袋「変わったと思う。」

 

個人的には、これは全てその通りなのだと思います。自分は10月5日の大阪単独公演(心斎橋Music Club JANUS)に立ち会うことができたのですが、ちょうど1時間程度の短さながら非常に充実したステージを観ていくうちに、本作を初めて聴いたときに抱きその時までまだ少しは残っていた穿った視点のようなものが氷解していく印象を抱きました。この公演は一言でいってしまえば超絶技巧シンガーによるカラオケ独演会だったのですが、MCや盛り上げのための身振り手振りといった聴衆をもてなすための動作というものが一切なく、ひたすら自分自身の納得できる音楽表現をやりきる姿勢が潔く、“交流はないが交感はある”ライヴの最高の形を示してくれたように思います。スタジオテイクをさらに上回る完璧な発声にいわゆるブラックミュージック的に精密なビート解釈が加わったボーカルは超一級で、スタジオ音源とは異なるフェイクフレーズを連発しその全てを音楽的な必然性をもって成立させていくのですが、そこにひけらかし感は一切ありません。観客を感動させ泣かせるために技巧を駆使するというような下心を全く匂わせない、あくまで自分が納得できる音楽表現を自身のために探求するという趣のパフォーマンスは、本作全体の起点となった4曲目「Daydream in Guam」について1曲目の語りで説明されるところのフロイト「喪の仕事」をそのまま示すものでしたし、宇多田ヒカルらとの対談で語られた「私的・自意識」の葛藤状態を見事に反映するものでもあったと思います。最高に性能の良い車を乗りこなす楽しみを満喫するような快感に浸りつつ、それに淫することは決してなく、ライヴでこその(他者の視点も意識した)表現を真摯に追及し続ける。何よりもまず自分のために歌う姿勢が雑味のない表現力につながり、その高純度/高品質のパフォーマンスが結果的に聴衆に見事に訴求するさまは、先述の対談記事で語られている

「俺が喜べば、みんなも喜ぶやんって(笑)そういう発想になっちゃうんだよね。だから、本質は何かというと、「あなたは私」ということでしかない。俺にとってはずっと。わからないというか、「大切な友人は私」だから。」

という在り方を、良くも悪くもではなく、非常に良いかたちで示すものであったと思います。聴衆に盛り上がるよう要求する仕草は一切なく、フロアが拍手するタイミングも掴めず微妙な雰囲気に包まれていても気にしない。そういう没交流状態ながら、ライヴが進んでいくにつれて確実に場が暖まっていくのです。馴れ合いを許さない過剰に潔癖な姿勢、もしくはいわゆるコミュ障的な性向を反映し、全編を通して演者・観客の双方が孤独な状態に置かれ続ける状態を保ちつつ、それだからこそ得られる類の一体感、べたつかない親密さを生んでしまう。先掲の対談で語られているような性格に圧倒的な技量が伴っていて初めて成立するタイプの、本当に素晴らしいライヴでした。自分も前半は「上手いけどつまらん」と感じ斜に構えてもいたものの、ギター&鍵盤の入った後半では小袋の発声も尻上がりに良くなりどんどん納得させられていきました。これを体験したことによって本作への接し方や勘所もうまく見つけられるようになったと思います。

 

本作が前評判の高さに比べ微妙な反応をされることが多かった理由についてもう一つ考えると、アルバム全体の構成の仕方というか時間の流れ方にうまくノレなかった人が多かったというのもあるのではないかと思います。実は自分もこれを書くにあたって語り2つの書き起こしをして初めて実感したのですが、その2曲の居心地、ビートミュージック的なものとは少々勝手が異なるアンビエントな時間の流れがアルバム全体の流れ方をよく反映していて、それを体でつかめるか否かで没入できる度合が変わってくるのです。従って、語り2曲を飛ばして聴く人(本作に抵抗をもつ人の多くがそうしてそう)はより勘所を見つけづらくなってしまい、微妙に思ったままになるのだろうというか。こうした時間感覚は「Lonely One」アウトロのSigur Rós的な展開やBon Iver風味のある「夏の夢」などにもよく反映されているのではないかと思います。アンビエントR&Bの一種というよりは、そちら方面から出発した上でポストロック方面やいわゆるポストクラシカルの語彙も駆使した日本語フォークの新しいかたちと見るほうがしっくりくる。ここまで書いてきて、これは年間ベスト次点でなくベスト20枚に入れてもよかったかな、という気になったりもしています。人間性の複雑さ面白さがよく反映された非常に興味深い音楽で、シーンの文脈に位置づけられてどうこう語られるのには良くも悪くもあまり向いていないですが、繰り返し聴き込み長く付き合っていく価値の高い作品なのではないかと思います。

 

それから『分離派の夏』というタイトルについてですが、インタビューによって「単に語呂でつけた」とか「ある種の意味を持たせてる」とか言うことが変わっていたりします。基本的には素直だけど「私的・自意識」的な葛藤は垣間見え、その度合によって取材での懐の開き方が変わったりする。自分はこのタイトルを最初に見たとき「こじらせた文学青年的な印象が強く個人的には超厳しい」と思ったのですが、各記事で示されている人柄やライヴでの様子を観ていくうちに一転して好感を(ある程度は距離を置きつつ)抱けるようになりました。何かしらの抵抗感を持っている方も折に触れて聴き返してみることをお勧めします。とても味わい深いアルバムです。

 

 ご本人から「上手くまとめて下さった」というコメントをいただけたのでここに付記しておきます:

 

 

 

 

PORTAL:Ion

 

 

 

 

 

A PERFECT CIRCLE:Eat The Elephant

 

 

 

 

 

 

RITES OF THY DEGRINGOLADE:The Blade Philosophical

 

 

 

 

 

 

RIVERS OF NIHIL:Where Owls Know My Name

 

 

 

 

 

SADIST:Spellbound

 

 

 

 

 

崎山蒼志:いつかみた国

 

 

いつかみた国 by 崎山蒼志 on Spotify

 

2018年5月9日放送のAbemaTV「日村がゆく」高校生フォークGPで多くの音楽ファンに衝撃を与えた高校生シンガーソングライター(番組収録当時は中学3年生・15歳)の1stフルアルバム。300曲を越えるという膨大なレパートリーから厳選された7曲から構成される一枚で、英国フォークロックに初期エモ~ポストロックや近年の多展開型J-POPを融合させたような作編曲、単体でみても驚異的に味わい深い歌詞、そして唯一無二の演奏表現力の全てが見事な上、アルバムとしての流れまとまりも大変良い。若さに技術や音楽的豊かさが間に合わなければ生み出せない類の傑作です。

 

ここで初めて知った方はぜひ「日村がゆく」での「五月雨」演奏動画からご覧になってください:

 

www.youtube.com

 

この番組動画ではスカートの澤部渡さんをはじめ審査員全員が絶句する様子が観れますがそれも当然で、卓越した演奏技術をひけらかし感ゼロで使いこなす節度ある表現力、若々しさと渋さを独特の配合で両立する個性的な声質(一音聴けばこの人とわかる最高の珍味でしょう)、印象的なリードメロディと緻密で興味深い作り込みを両立する作編曲、そして「人生何周目なんだよ」というくらいの深みと初々しい熱さを兼ね備えた歌詞など、全ての面において一流といえるパフォーマンスになっています。一見して緊張しているとわかるのにトチったりしくじったりするどころか腰の据わった勢いを生んでしまうのも本当に見事で、これは4歳からギターを弾き小6には作曲を始め2015年頃から人前での演奏経験(弾き語りソロ・バンド)を積んできたという経験の豊かさによるところが大きいのでしょうか。「早熟の天才」というよりは「早熟のベテラン」というべき佇まいは「若いから凄いのではない。凄い人物が、偶然若かっただけだ」という評価をよく示すものだと思います。この番組動画をきっかけに彼は様々なミュージシャンに絶賛され、サマーソニック大阪をはじめとする各種音楽フェスにもひっぱりだこ、2019年2月の1stツアーは全会場即完売(自分はオフィシャル先行と本作CD先行にも抽選エントリーした上でチケットを取れませんでした)というふうに大きな人気を獲得することになりますが、これは(まあハイプ気味に注目されている面もあるでしょうが)実力からすれば当然の展開で、見つかるべくして見つかった優れたミュージシャンが正当な評価を得ていく過程なのだと言えます。

 

そうした流れのなかで発表された本作『いつかみた国』では、「五月雨」とは異なる静かで力強い雰囲気のもと、より豊かで個性的な音楽性が示されています。

彼の略歴や音楽的影響源についてはBuzzFeed Japanのインタビュー

https://ex.yahoo.co.jp/buzzfeedjapan/heisei31/7.html

に詳しく、それによれば

〔母から影響を受けた音楽〕

 the GazettE(ギターを弾くきっかけになった)やNIGHTMAREのようなタイプのヴィジュアル系マリリン・マンソンNINE INCH NAILSYMOなど

〔父から影響を受けた音楽〕

 LINKIN PARKマイケル・ジャクソン、プリンス、スガシカオSEKAI NO OWARI(いわゆる邦ロックに興味を抱くきっかけとなった)

〔自分で聴き始めた音楽〕

KANA-BOON、きのこ帝国、NUMBER GIRLなど向井秀徳関連

とのことです。

本人のツイッターによれば

 THUNDERCAT、折坂悠太、Yves Tumor、長谷川白紙

など最新の注目作も積極的に入手し聴いているようなので、上記記事で挙げられた名前だけで音楽性を語りきることはできないのでしょうが、「五月雨」などはハードコアパンク寄りV系スガシカオ~シティポップ的コード感をNUMBER GIRLのようなポストロック的音進行で接続したような趣もありますし、幼い頃から親しんだ音楽の要素を消化融合し独自の見事なものに昇華してしまっているというのは確かにあるように思われます。そして、そういった音遣い(メロディやコードの使い方)感覚は本作収録曲でも配合比率を様々に変えつつ効果的に駆使されています。スタジオ録音の良い音で聴いて特に実感させられるのは初期エモ~ポストロック的な音進行の多さ。これは向井秀徳関連だけでなくASIAN KUNG-FU GENERATIONBUMP OF CHICKENなど90年代後半以降の邦ロックにおける一つの定番になっているものですが、崎山蒼志(さきやまそうし)の音楽はそうしたものの定型的なパターンに縛られる様子が全くなく、参照しながらも自分の求める形に自在に改変し使いこなしてしまえている感があります。「時計でもない」などにはSLINTの歴史的名盤『Spiderland』あたりを彷彿とさせる爽やかにくぐもった雰囲気がありますが、真似して同じようなものを作ったというよりも別方面からたまたま近いところに到達したような趣で、音楽的興味深さも表現力の深さも勝るとも劣らないものがあると思います。固有の魅力に溢れた非常に興味深いアルバムです。

 

本作はその大部分が本人のボーカルとギターだけで演奏されていますが、多重録音なしのギター弾き語りという伝統的でシンプルなスタイルながら過去のそうしたものとは一線を画す要素がいくつも含まれています。まず一聴して実感させられるのが“歪み”へのこだわり。リズムギターの音色は手数の多さもあってメタルとハードコアパンクの中間という感じもしますし、初めてDTMに挑戦したという「龍の子」(RADIOHEAD『KID A』あたりとKING KRULEを混ぜて穏やかにした上でYves Tumorの静かな箇所のサウンドに寄せたような曲調)中間部のトラップ的サウンドもその点通じるものがあるように思います。こうした要素は少なからず先述のヴィジュアル系やインダストリアルメタル方面から来ているものでしょうし、向井秀徳の弾き語り活動「アコースティック&エレクトリック」などは直接的な参照対象になっているかもしれません。そして、そうした荒々しい質感が上品に落ち着いた佇まいと当たり前のように両立されているのがこの人の得難く面白いところで、現状の“卓越した技術を備えつつ荒削りな部分を残している”感じの演奏もそういう印象に自然につながっています。うわずり・がなり気味なようでいて基本的には柔らかい発声はそうした独特のバランス感覚をとてもよく反映しているものなのではないかと思います。

そしてもう一つ興味深いのが楽曲の構成。優れた技術を持っているのに弾きすぎることが全くないギターアレンジは歌メロを軸に据える弾き語りスタイルが必然的に要求したものでもあるのでしょうが、それ以上にこの人は「反復」の美味しさ面白さを分かっている感があり、それが曲構成の大事な土台になっているように思われます。たとえば先述の「龍の子」の歌詞は

眠れない夜に 龍の子がのぼってゆく

寂しさを連れて

の2行だけで、これが淡々と流れるトラックの合間に4回繰り返されます。同じフレーズを微妙に異なる力加減で反復し様々なニュアンスを重ね合わせていくスタイルはブルースからテクノやヒップホップに至るミニマル音楽の真髄で、その表現力や没入効果を体で理解した上で有効活用しているわけです。そうした感覚・美学は弾き語り曲でも確かに活かされていて、しっかりした引っ掛かりを伴う印象的なフレーズが近年のJ-POPならではの展開の多い形式(ももクロ以降の複雑なアイドルポップスやアニソンが定着させただろう曲構成)とともに非常に効果的に配置されています。滑らかに流れていくのに一つ一つの場面がしっかり印象に残り、展開が多いのにキャッチーで覚えやすい。こうした作編曲の巧みさはリフミュージックとしても現代的なポップスとしても一級品で、マニア層にもそうでない人たちにも強く訴求しうるものだと思います。弾ける技術があるはずなのに全くギターソロを入れない構成や一昔前のフォークなどとは一線を画すリズム処理能力の高さもそうした作編曲スタイルと不可分に繋がっていそう。様々な意味において今の時代でなければ生まれない優れたポップミュージックなのだと思います。

 

そして忘れてはならないのが歌詞の素晴らしさ。これはもうそのものを読めば一目瞭然ですし、本作収録曲「形のない乗り物で」の全文を引用させていただくことにします。

 

山際 決まった形のない乗り物で

すべっていく 頼りなく

宇宙が見えるでしょ

それでも信じられなかったりするでしょう

 

ほんの少しだけさびしいな

霧が濃くなって忘れてしまう

大事なこと 大事な思い出

大事な人

 

短い道を通ってさよなら 短い道を通ってさよなら

短い道を通ってさよなら 短い道を通ってさよなら

さよなら

 

山際 決まった形のない乗り物で

すべっていく 頼りなく

体が空っぽ 帰るために乗る電車で

ほどけた今日が 煙の様に泳いでいた

 

短い道を通ってさよなら 短い道を通ってさよなら

短い道を通ってさよなら 短い道を通ってさよなら

さよなら

 

本能で辿って複雑な線を 本能で辿って複雑な線を

 

新品の意識が朦朧としていく

藍色の絵具が乾いていく 夜になる

 

独特の舌足らずな発声もあって歌声を聴いているだけだとピンとこないのですが、歌詞カードなどで読むとそれ単体で優れた作品として成立している詩の美しさに驚かされます。この曲などは阿部共実『月曜日の友達』や諸星大二郎の胎内回帰ものにも通じる雰囲気(一応補足しておくとこの2つの雰囲気は互いに全く異なります)と言葉の“音”遣いが凄すぎる。年齢関係なく驚異的な作詞能力と言えます。

歌詞についてはCINRAのインタビュー

https://www.cinra.net/interview/201809-sakiyamasoushi?page=2

が詳しく、そこで語られている「基本的に淋しいんです。人がいないから淋しいんじゃなくて、なんか淋しいし、ずっと哀しいんです。たまに、日常生活でも、ニュースを見てでも、ちょっと心が折れることがあると、それが出ちゃうというか」という話が一つの核心をついています。単に「感受性が豊か」なんて言葉では済まされない、様々な気持ちに向き合い磨き上げた技術でそれを汲み取ったからこそ構築できる一級品だと思います。

そういう歌詞にストレートに物哀しい音進行をあてるのではなく、むしろ巧まざるユーモア感覚あふれる楽しげな曲調でまとめてしまうというのもこの人の本当に得難いところ。FukaseSEKAI NO OWARI)と向井秀徳を混ぜたら何か別の味わい深いものができてしまったという趣の声質も、上記のような歌詞と楽曲が組み合わさって生まれる複雑なニュアンスによく合いさらなる深みを生むものとして機能しているのだと思います。リリカルだけどペシミスティックにはならず、深みはあるけれども重くならない。尖った質感(怒りや苛立ちもあるだろう)と穏やかさ(深い落ち着き)を柔らかく両立する佇まいは、初期エモの名バンド達に別の在り方で並び立つものですし、個人的には「たま」(日本のビートルズと言われた沖縄出身の偉大なバンド)に通じるものも感じます。勢いや意志はあるけれども良い意味で定まっていない音色表現は聴き手の感情を無理に方向付けない優れた曖昧さ(そして素敵な謎)を生み、嫌味のない爽やかさ、素朴だけど地味ではない印象とあわせ、親しみやすさと頼りがいを感じさせてくれる。 本作『いつかみた国』は、こうした“在り方”レベルのキャッチーさが卓越した作詞・作曲・演奏能力とともにうまく表現された、あらゆる面において充実した傑作なのだと思います。

 

それにしてもこの節度ある表現力は本当に素晴らしい。音楽において最も大事で難しい“力加減”のコントロール~表現が既に高度にできていますし、それは今後もさらに磨き上げられていくのでしょう。本作の音楽性にしても、どういう形でもアウトプットできるのがたまたまこういうアルバムになったというだけで(BUCK-TICKのように)、これからも様々な形で味わい深い作品を連発してくれるのだろうと思います。若さに技術や美意識が間に合い、しかも音楽的豊かさまで備わったミュージシャン。行く先が本当に楽しみです。

 

なお、「五月雨」の変遷を8つの動画とともにまとめたこのブログ https://rowanatkinson.hatenablog.com/entry/2018/11/04/034752

が示すように、緻密に構築されたアレンジはライヴを通してさらに変化し続けているようです。そういうところも含めぜひ生で観て吟味させていただきたいですね。次回以降のツアーは頑張ってチケットを確保したいと思います。

 

 

 

それからこれは蛇足ですが、崎山さんご本人がこれを読んでくださったならば、ここで書いてあるようなことは一切意識せず好きなようにやってください。 何よりもまずその時々の自分が満足できるものを作った上で、気が向く範囲内でほどほどにわかりやすく整理し、他の人が聴いてもわかりやすいような形に仕上げる。それだけでその時々の崎山蒼志にしか作れない素晴らしいものを生み出し続けられるはずです。これからもずっと楽しみに聴かせていただきます。

 

 

 

SATAN:Cruel Magic

 

 

 

 

 

SLEEP:The Sciences

 

 

 

 

 

SOLEIL:My Name Is Soleil

 

 

 

 

 

 

SWARRRM:こわれはじめる

 

 

 

 

 

Toby Driver:They Are The Sheild

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Travis Scott:Astroworld

 

 

 

 

 

TRIBULATION:Down Below

 

 

open.spotify.com

 

近年の北欧地下メタルシーンを代表するスウェーデン出身バンドの4thアルバム。初期スウェディッシュデスメタル/ブラックメタル(両者が未分化だった頃)のエッセンスを下地に様々な音楽要素を融合凝縮した一枚で、HR/HM(ハードロック/ヘヴィメタル)と呼ばれるジャンルが80~90年代を通して培ってきた滋味がそこで取りこぼされてきた別ジャンルの成分と巧みに混ぜられコンパクトな歌ものスタイルにまとめ上げられています。DARK TRANQUILLITYやKATATONIAとTHE CUREの間をゆくような音遣い/雰囲気表現は北欧ゴシックロックの一つの到達点で、内省的でガッツのあるしなやかな佇まいはどこか日本のヴィジュアル系に通じるところもある。こうしたスタイルがメタル系メディアでも高く評価されたことも含め、ジャンル全体の歴史的名盤扱いされるようになってもおかしくない傑作です。

 

TRIBULATIONの略歴についてはHMV掲載の日本語インタビュー

https://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1802051005/

が非常によくまとまっており、

スタイルを大きく変え続けてきた活動がメタルシーンでどのように受容されてきたかについてはRECORD BOY(アンダーグラウンドなメタル/パンクのディストロとしては日本を代表する店の一つで独特の卓越したレビューに定評がある)のTRIBULATION紹介ページ

1st「The Horror」(2009)

http://recordboy.shop-pro.jp/?pid=138630282

2nd「The Formulas of Death」(2013)

http://recordboy.shop-pro.jp/?pid=103833926

EP「The Death & Rebirth」(2015)

http://recordboy.shop-pro.jp/?pid=90876340

3rd「The Children of The Night」(2015)

http://recordboy.shop-pro.jp/?pid=90877066

が優れた資料になっています。

 

まず、2009年発表の1stアルバムでは、ENTOMBEDやMORBID ANGELのような初期デスメタルバンドから大きな影響を受けた速く激しいスタイルがマニア層からも高い評価を受けました。そうした人々はただ激しく重いだけの無難に整った作品は認めず、リフ(反復されるフレーズ:エクストリームメタルにおいては楽曲の主軸を担うサビ/ミニマル要素として最も重視される)の個性や音楽的必然性、そしてアンサンブルのうまさや勢いを厳しく吟味する傾向があります。それに関連して先掲レビューで用いられている「デスラッシュ」という言葉について補足すると、2000年頃から一般的なメタルファンの間で用いられるようになった意味での「デスラッシュ」は「メロディックデスメタルの音進行をスラッシュメタル的な高速テンポ&回転速度(フレーズが長くなく繰り返される量が多くなる)に落とし込みブラストビート(※バスドラム・スネアドラム・シンバルを同時に16分音符以上の細かい刻みで連打する手法でデスメタルグラインドコア以降で主流となったスタイル:それ以前に誕生したスラッシュメタルのカテゴリでは使われないことが多く体感的な疾走感はツービートなどに比べむしろ落ちるためコアファンからは拒否反応が生じることもある)も積極的に混ぜるもの」を指すのに対し、BOYのようなコア層(メロデスを好まない:本稿AT THE GATESの項参照)のいう「デスラッシュ」は「初期デスメタル的な個性的な音進行をスラッシュメタル的な高速テンポ&回転速度に落とし込みブラストビートは本当に効果的な場面でのみ最低限用いる」ようなものを指します。TRIBULATIONの1stは後者として「2000年代スウェディッシュ・デスラッシュの最高峰」(BOYレビューから引用)というように高く評価され、アンダーグラウンドシーンにおける一つの期待の星となりました。

 

しかしバンドはそこから大きく音楽性を変えていきます。2013年発表の2ndアルバムは大雑把にいえば「中期OPETHをENTOMBEDやUNLEASHEDのような初期スウェデスに寄せた上でブラックメタル的に長いスパンで流れる時間感覚に対応させた」という感じのスタイルになり、前作までの音楽性を好んでいたファンの賛否は大きく分かれることになります。しかしその上で音遣いや楽曲構成のセンスは素晴らしく、先掲BOYレビューが素直にノリきれないことを表明しつつ絶賛しているように、アルバムの総合的な完成度や独自性は大きく増しているのではないかと思われます。北欧ハードコアパンク~初期スウェデス的な機動力を駆使しつつ静かでゆったりしたパートと自然に接続してしまうタイプの演奏表現力は「プログレッシヴデスメタル」として同じ枠に括られる別バンドの殆どが持たないものですし(よく比較されるOPETHはハードコア的要素をほぼ含まない)、そうしたキレのある質感を維持しながら76分に及ぶ長尺を浸らせきってしまうダイナミクスコントロールは独特で代替不可能な居心地を生んでいます。バンド自身としては次作を「初めてのリアルなアルバムだ」というように本作はあまり高く評価していないようですが、過渡期の一枚として片付けるには惜しい、そうした過渡期でなければ作れないタイプの傑作になっていると思います。

 

2015年発表の3rdアルバムは、以上のような2ndを「探求のアルバム」とし、そこでの成果を通して初めて「本物のバンドになった」と自認する傑作で、一つ一つのフレーズのキャッチーさや楽曲全体の構成力が格段に向上しています。

発表当時のインタビュー

https://newnoisemagazine.com/interview-tribulation-reach-cold-blackness-70s/

で言及されているように、バンドはDISSECTIONブラックメタルのカテゴリで特に有名だが、90年代前半スウェーデンにおける「初期デスメタル」「初期ブラックメタル」のちょうど中間をいくスタイルで両シーンの人々から高く評価されている)や1999年以降のIRON MAIDEN(「ブレイズ・ベイリー期の後」すなわちブルース・ディッキンソン復帰以降)、THE BEATLES、ホラー映画のサウンドトラック(GOBLIN、ファビオ・フリッツィ、POPOL VUHなど)から影響を受けており、そうした要素をしっかり咀嚼した上で独自の形で活用することができています。例えば3曲目「In The Dreams Of The Dead」では、静と動の変化タイミングやリズム形態などはIRON MAIDEN的な様式美構成を明確に下敷きにする一方で音遣いはイタリアホラー映画音楽に北欧ゴシック風味を加えたものが主軸になっているというふうに。こうした配合の妙とそれをキャッチーな歌モノメタル形式にまとめるプレゼンテーションの上手さは一級品となり、前作までで試され積み上げられてきた持ち分が一気に花開くことになりました。なお、本作録音時にはボーナストラックとしてTHE CURE「One Hundred Years」(1982年発表の名盤4th『Pornography』1曲目)のカバーが収録されていますが、これはTRIBULATIONメンバーの友人が書いた2ndのレビューで比較対象に挙がっていたのを見て初めて聴いたことろ「これはイイぞ!」「俺達がやりたいことと完全に合致している」と感じ取り組むことになった模様。つまりそれまではTHE CUREのようなメタル外のゴシックロックは殆ど聴いたことがなく、薫り高いゴシック要素はここまで挙げてきたような初期デスメタル(ENTOMBEDやDISSECTIONのような北欧初期デス/ブラックは成り立ちの頃から濃厚に独自のゴシック成分を持っているし、MORBID ANGELも中心メンバーがDEAD CAN DANCEやTHE GATHERINGを好きなバンドの筆頭に挙げている)やホラー映画音楽から間接的に吸収してきたのだろうと思われます。そうした立ち位置の彼らがカバーする「One Hundred Years」は原曲を知らない人には「TRIBULATIONのオリジナル曲だ」と言ってもわからないくらいドハマりしたものになっていますし、THE CUREやSISTERS OF MERCYのような英国ゴシックロックバンドとAT THE GATESのようなプレ・メロディックデスメタルを繋いでみせる音楽的批評としても優れた仕上がりなのではないかと思います。

(ちなみに、上記英語インタビューでは比較対象として挙がりやすいOPETHENSLAVED、SATYRICONなどからの影響は否定されています。3rdの4曲目「Winds」などがOPETHに似てるのはたまたまで、MORBID ANGEL的要素(OPETHも大きな影響を受けている)と3拍子系のリズム構成が組み合わさった長尺曲はどうしても似てしまうというのが大きいのでしょう。)

 

そして、2018年に発表された4thアルバム『Down Below』は、2ndから3rdに至る洗練傾向をまた別の形で推し進めたものになりました。3rdではそれまでの作品に比べ構成が整理されたとはいえ器楽パートで長い展開を描く場面が多かったのに対し、本作ではそうした間奏的場面は(一般的なポップミュージックの基準からすれば十分長いけれども)大きく削減され、ボーカルはメロディを一切歌わないガナリ声を貫いているものの楽曲のサビ的な部分が全曲で明確に用意されているというふうに。前作の構成をIRON MAIDENになぞらえるとすれば本作のそれはMERCYFUL FATEを経由して80年代JUDAS PRIEST(『Defenders of The Faith』あたり)やKISSに至るという感じで、ツインリードギターによる美しいメロディを終始乱舞させつつコンパクトでわかりやすい歌モノにまとめ上げることができています。このメロディの質はある種メロディックデスメタルにも通じるものなのですが、それを肉付けするコードの感覚がここまで述べてきたような複雑な音楽要素を反映しているものだからなのか、自分のようなメロデス苦手派でも「物足りない」「つまらない」と感じる瞬間が全くありません。このバンドが長く培ってきた独自のゴシック感覚はDARK TRANQUILLITYやKATATONIAに匹敵する薫り高さを勝ち得ていますし、滑らかに流れていくのに「泣いて済ます」感じには全くならず得体の知れない異物感を残していく聴き味は北欧エクストリームメタルに限らず他のどんな音楽にもない複雑な酔い口を与えてくれます。実は自分はこの酔い口を現時点では100%肯定することができず、30回以上聴き通した(10回時点でハイレゾ音源を購入し聴き始めた)上で年間ベスト20枚に入れようか迷い結局外してしまったのですが、それは本作の勘所(特に接する際の気分の持ち方)をうまく見つけられていないからで、これからさらに長く付き合っていくことでどんどん味が増し個人的評価も高くなっていくのではないかと思います。自分がうまく没入しきれない理由としては本作から加入したメンバーによるドラムスのロックンロール的な大味さがリズムアンサンブルの面から好みでないというのも大きいのですが、この大味さは先述のような異物感を生む原動力として大きく貢献しているように思いますし、本作にしかない独特のノリ、いうなれば「哀しみを笑い飛ばす(笑い飛ば“そうと”する)タフで柔軟な姿勢」「内省的でガッツもあるしなやかな佇まい」を生むための不可欠なパーツなのだという気もします。地下シーンの音楽的成果や雰囲気を濃厚に残しつつ非常に聴きやすい楽曲に落とし込み、スタジアムロック的な豪快さをもって提示してしまう。こうした在り方は音楽性の傾向も含め日本のヴィジュアル系にも通じるものですが(作品ごとにアウトプットの仕方を変えるのはいわゆるV系とはやや異なるがBUCK-TICKにも通じるものがある)、

本作の日本盤プレスリリース

https://wardrecords.com/products/detail4374.html

で述べられている

「同郷の後輩、トリビュレーションについてWatainは、「とても素晴らしいバンドだし、とても良い奴らなんだよ。だけど、その、何と言うか、とても女性っぽいところがあるんだ」と奥歯に物がはさまったような言いっぷりをしていた。「女性っぽいところがある」とはどういうことなのだろう?(トリビュレーションのメンバーは全員男性である。念のため。)よくよく聞いてみると、ギタリストがステージで、胸の谷間メイクをしているというのである!それはいくらなんでもありえないだろうと、ステージをよく確認してみると、驚いたことに彼は胸の真ん中に黒い影を描いていて、まるで胸の谷間があるかのように見せているではないか。デス・メタル・バンドがメイクをすることは、決して珍しいことではない。(ルーツのHellhammerのことを考えれば、むしろ正統的なことだ。)しかし、それが胸となると、また話は別。あまりに斬新すぎはしないか」

という話をみると、そういう中性的な表現(「中性的というのは“男性性も女性性も薄い”ということではなく“男性的な要素も女性的な要素もともに強く併せ持つ”ことなのではないか」という話を聞いて大きな感銘を受けたことがあります)をやるという点でもTRIBULATIONはV系やそれらと比較されることも多いマリリン・マンソンに通じるところが少なからずある気がします。音楽面でもジェンダー観などの面でも保守的な傾向が強いメタルシーンではこのような表現スタイルは忌避されることも多いのですが、本作は有名メタル系メディアの年間ベストリストに入れられるなど(『Decibel Magazine』2位、その他各所で50位以内にランク)、そうした傾向をはねのけて高く評価されるだけの力を示しています。バンド自身の未来はもちろんシーン全体に及ぼす影響という点でもこの先が楽しみになる傑作です。

 

 

本作に絡めてここで触れておきたいことの一つに、メタルシーン内外の没交流傾向というものがあります。これは個人的な愚痴のようなものなのですが、メタルファンのよく言う「メタルは蔑視されている」というのは基本的には誤りだと思うのです。「メタルは無視されている」なら現状の説明として適切な場合もあるけれども、レディ・ガガ(MVをBATHORYの元メンバーが監督しG.I.S.M.ロゴ付きのジャケットを着るなど)をはじめ様々なポップスターがメタル愛を語ったり、メタル的な演奏技法/音響構築がある種の定番として他ジャンルに普及している(J-POPの間奏ギターなんかは完全メタルスタイルのことが多いし、日本ではメタル扱いされない90年代ラウドロックやインダストリアルメタルのサウンドはヒップホップなどでも援用され、GHOSTEMANEのようなラッパーはPOSSESSEDやVENOM、DEATHやDEICIDEなどのTシャツを着てライヴをやっている)現状では、その「無視されている」も正しいとは言い切れない。そうした言説がメタルシーン内の一つの常識みたいなものとしていまだに残り続けている原因としては「メタルファンはメタル以外のことに興味がない」ことが大きいように思います。メタルは一般的なポップミュージックに比べうるさいし歌詞のテーマもそうした音に見合った過激なものになりがちだから多くの人に良い顔をされないのは仕方ない、というのはあくまで一要素であり、本質的な問題として重大なのは「メタル外と交流しようとする意欲がない(だからシーン外でどれだけ評価されているかも知らない)」「受け入れてもらうために変わろうとするつもりがない」ということの方なのではないか。この「変わる」というのは「売れるために志を捨てる/損なう」ことではなく、そうした内面はむしろ変えず、それを維持しつつ受け入れてもらえやすい形に整えて示す“プレゼンテーションの努力”をするということです。ポップミュージックの優れたアーティストが表現性を損なわず大きな人気を得られるのはそうしたプレゼンテーションの技術/思考(コンパクトで奥の深い楽曲を書く力など)を徹底的に磨き抜いているからですし、80年代の偉大なメタルバンドがチャートを席巻できたのも、メタル的な音楽性にスポットライトが当たった時代だったからというのも勿論ありますが、上記のようなプレゼンテーションの腕前に秀でていたからというのも大きかったように思うのです。

 

SLIPKNOTやBABYMETALの成功(それぞれ2000年代・2010年代)も同様で、非常にコアなメタル知識&嗜好を持ったミュージシャンがメタル外の音楽要素も取り込みグループの矜持が許す範囲でわかりやすく整えて提示できたからこそメタルに馴染みのない音楽ファンからも熱狂的な支持を得ることができたのだと思います。例えばSLIPKNOTの2nd『IOWA』(2001年発表)はMAYHEMやDEICIDEといった初期ブラックメタル/デスメタル/グラインドコアなどの要素をヒップホップやハードコアパンクのグルーヴと巧みに融合した非常に濃厚な一枚でしたが(エクストリームメタルシーンの常識からみても)、そうした音楽要素に伴う独特のキャッチーさや前作とツアーで培ってきた人気、そして『ロッキングオン』のような非メタルメディアの取材も受ける越境的な(音楽メディアの棲み分けを無効化する)プレゼンテーション姿勢により日本でもオリコン4位・数十万枚の売り上げを記録しました。また、BABYMETALは、日本でのメタル系メディアを長年寡占してきた有力誌『BURRN!』で低く評価され続けてきたジャンル(先述のラウドロックやインダストリアルメタルに加え聖飢魔Ⅱのような「音楽性はメタルだけど業界的にはメタルでないとされた」国産バンド、そしてヴィジュアル系など)の音楽性も取り込んで新しく魅力的なメタルスタイルを構築する活動により、国内はもちろん海外でも数万人単位の会場を埋める人気を獲得しています。こうした音楽性の批評的な側面は両バンドともにファンからもあまり注目されていないように見えますが、そういうことを抜きにして理屈抜きに良いと直感させる力があるからこそメタルの枠を越えて大きな人気を得ることができたのだとも言えます。SLIPKNOTのような激しい音楽性でもバンドの地力やその表現の仕方によっては全米1位を獲ることができるのだから、問われるのは一般ウケする音楽性かどうかよりもプレゼンテーションの巧拙の方なのではないかと思われます。

 

そしてここで問題なのが、古くからのメタルファンはこうした脱ジャンル的なバンドを好まず積極的にダメ出しするということです。SLIPKNOTもBABYMETALも今でこそメタルシーン内からも高い評価を得ていますが、そうした評価が売り上げや動員数などとともに確立されるまでの数年間はシーン内では否定的な声の方が目立ちました。その理由としては、BABYMETALの場合は「バンドでなく打ち込みだから(※初期)」「メンバーが自分で曲を書いていないから」(「女性ボーカルだから」もゼロではないだろうけれども、歌唱力の高さも関係してか、その理由で拒否する人は90年代までに比べれば遥かに少ないです)というのもありますが、最も大きいのは「メタルには合わない(とされる)ジャンル外の要素が含まれているから」なのではないかと思います。メタルシーンの保守的な気質というのは少なくとも90年代までは本当に色濃く残っており、例えば、いわゆるブラックミュージックが好きな方は想像もできないでしょうが、「ファンキー」「横ノリ」といったリズム~グルーヴ要素が強力なダメ出しポイントとして機能した時代が長くありました。ヒップホップに関しては「歌メロがない」という理由で特に大きな抵抗感を持たれ、ジャンル全体が嫌われていた時期も長かった。(今でもそうなのかもしれませんが。)「女性ボーカルはダメ」という意見も2000年代に入るまでは色濃くあり、メロディックデスメタルバンドARCH ENEMYが2001年に発表した『Wages of Sin』で女性ボーカリストAngela Gossowを加入させた時は「女にパワフルなデスヴォイスが出せるのか」という声が圧倒的大勢を占めたものです。(発声さえ良ければ性別関係なく優れたデスヴォイスが出せるのは当然で、Angelaも2014年に脱退しマネージャー職になるまではパワー面では全く問題ないパフォーマンスをし続けてくれました。音色表現に関しては一本調子で自分は好きではありませんでしたが、これは個人の音楽スタイルによるものであり性別はもちろん何も関係ありません。)「Groove Metal」「Rap Metal」「Female Metal」というサブジャンル名の背景にはこうした保守的な姿勢がありますし、そのようなサブジャンル名で語られることの多いKORNLIMP BIZKITなどが世界最大のメタル関連データベースサイトMetal Archivesに登録されていないのもその名残りと言えます。このMetal Archives登録可否はなかなか由々しき問題で、先掲のSLIPKNOTやBABYMETALはもちろんPERIPHERYやZEAL & ARDORのような未来のメタルを担うべき脱ジャンル的バンドも登録されていません。メタルファンの間で是非が分かれるものはそれが落ち着くまで登録されないというのはある意味仕方のないことですが、こういうふうにメタル外の要素を過剰に忌避するのは個人的にはとても好ましくないことに思えます。

 

というのは、Metal Archivesに登録されメタル史を語るにあたって外せないという評価が確立されているバンドであっても、その音楽性を正当に分析吟味するにはメタル外のジャンルの知識が必要不可欠なことが多いからです。いわゆるプログレッシヴロックなどはもともと70年代ハードロックとの境目が曖昧なバンドも多くIRON MAIDENのようなこのジャンルの筆頭バンドが影響を公言していることもあって外せない教養として認知されていますが、80年代のニューウェーヴ~ポストパンク~ゴシックロックや当時のブラックミュージック(プリンスやマイケル・ジャクソンのような超メジャーなもの)などは、同時代に大きな存在感を示したジャンルなのにメタルを語る際ほとんど参照されることがありません。その時代のメタルミュージシャンの多くがそうしたものを取り入れない音楽をやっていたから参照する必要性が多くないというのも確かにありますが(今に至る保守性はこの時代から長く続いているものだということ)、別ジャンルの要素を吸収し隠し味とした上で素晴らしい作品を生んできた人達も少なからずいるのです。Metal Godの異名をとりこのジャンルでは最大の存在感を示すバンドJUDAS PRIEST

この記事

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2017/07/02/004839

の15の項で述べたように音楽的には全く保守的ではなく、同時代の流行を節操なく取り入れつつ旧来からのファンも(時間をかけて)納得させるという離れ業をやり続けてきました。例えば問題作とされた『Point of Entry』(1981)ではニューウェーブや当時のR&B要素が生硬く援用されていますし、今では歴史的名盤とされる『British Steel』(1980)や『Screaming for Vengeance』(1982)でも、前者ではハードコアパンクやレゲエ、後者ではTHE POLICEあたりに通じる音進行など、“伝統的なメタル”だけ聴いていたら得られない豊かな音楽要素が活用されています。それに対し、ほとんどのメタル系メディアはそうした要素に言及せず、旧来のメタル観のみで評価できるポイントのみを持ち上げ評価を完了します。正統派ヘヴィメタル史上屈指の名盤とされる『Defenders of The Faith』(1984)も特に後半はポストパンクやテクノに通じる要素が違和感なく導入され当時のこのジャンルでは珍しい実験をメインストリームのど真ん中でやってのけているのに、前半曲のメロディの美しさばかりが注目されるというふうに(確かにジャンル最高級のツインリードギターが聴ける大傑作なので仕方のない面はありますが)。このような状況が続いてきたのは、やはり、そうしたメディアに携わる人々がメタル外の音楽をあまり聴かず、読者にもメタル外の音楽の魅力を仄めかすことが非常に少なかったというのが大きいのではないかと思います。引きこもりが悪循環で増幅されてきたというか、悪い意味での純血主義が保たれてきたからだというか。ここ数年はそうした状態を打破しようとする動きがメディアの側からも出てきていますし(『BURRN!』が取りこぼしてきたメタル近傍ジャンルのメタル内再評価を進めている同シンコーミュージック刊の『ヘドバン』と同誌が推し続けているBABYMETALはその急先鋒と言えるでしょう)、聖飢魔Ⅱディスクユニオンにおいてさえメタル棚に分類されていなかった10数年前と比べれば確実に状況は良くなってきていますが、個人的にはまだまだ十分ではないと思っています。あらゆるエクストリームメタルの重要な参照点となりメタル外にも大きな影響を及ぼしたCELTIC FROST

http://progressiveundergroundmetal.hatenablog.com/entry/2017/05/04/120901

などは80年代ゴシックロックなどと併せて吟味しなければ一定以上の理解を深めることはできないでしょうし、

初期の数作以降は電子音楽や現代音楽方面を主に探求しているためメタル内では初期しか語られない、メタル外では知名度が低いので初期以外の作品は優れた内容のわりに知られる機会自体ない、というULVER

http://progressiveundergroundmetal.hatenablog.com/entry/2017/05/05/205455

のようなバンドも、メタルファンがメタル外音楽の知識を増やせばジャンル間の情報交換が行われやすくなり評価される機会が大きく増すはずです。そうした状況、すなわち「ジャンル外との没交流状態の打破」が起これば、メタルの魅力をジャンル外の魅力的な音楽と絡めて紹介することも容易になり、「メタルが蔑視(無視)されている」という印象もなくなっていくはずなのです。本稿がメタルとそれ以外の傑作を並べている理由もそこにあります。良い相互作用が生まれてほしいものです。

 

以上のようなことを踏まえた上で大きな希望になると思われるのがDEAFHEAVENやこのTRIBULATIONのようなバンドです。演奏スタイルや一部のフレーズ/コード進行に濃厚なブラックメタル色を残した上でエモ/シューゲイザー/ポストロック的な要素を自然に導入しまくるDEAFHEAVENの音楽性はPitchforkのような大手メディア(メタルも無視はしないがインディーロック的文脈から吟味できるものしか高く評価しない)でも賞賛され、アルバムは毎回各所の年間ベストリスト上位に食い込んでいますし、その一方でメタル系メディアでも同様に高い評価を得ています。そしてTRIBULATIONの本作に関しては先述の通り。マニアも納得させるバンドが他ジャンルの要素も積極的に取り込んだメジャー志向の傑作を生み出し、それに親しんだ音楽ファン(メタル/非メタル両方)が自然に越境的な嗜好を身に付けていく。本作は(まだアンダーグラウンドな薫りが強いけれども:だからこそ?)そうしたブレイクスルーを導きうる傑作だと思います。多くの人に聴かれてほしいアルバムです。

 

 

 

 

 

ツチヤニボンド:Mellows

 

 

 

 

 

 

 

YOB:Our Raw Heart

 

 

 

 

 

Yves Tumor:Safe in the Hands of Love