2015年・年間ベストアルバム

【2015年・年間ベストアルバム】

 
 
・2015年に発表されたアルバムの個人的ベスト20です。
 
・評価基準はこちらです。
個人的に特に「肌に合う」「繰り返し興味深く聴き込める」ものを優先して選んでいます。
 
・これはあくまで自分の考えなのですが、ひとさまに見せるべく公開するベスト記事では、あまり多くの作品を挙げるべきではないと思っています。自分がそういう記事を読む場合、30枚も50枚も(具体的な記述なしで)「順不同」で並べられてもどれに注目すればいいのか迷いますし、たとえ順位付けされていたとしても、そんなに多くの枚数に手を出すのも面倒ですから、せいぜい上位5〜10枚くらいにしか目が留まりません。
(この場合でいえば「11〜30位はそんなに面白くないんだな」と思ってしまうことさえあり得ます。)
たとえば一年に500枚くらい聴き通した上で「出色の作品30枚でその年を総括する」のならそれでもいいのですが、「自分はこんなに聴いている」という主張をしたいのならともかく、「どうしても聴いてほしい傑作をお知らせする」お薦め目的で書くならば、思い切って絞り込んだ少数精鋭を提示するほうが、読む側に伝わり印象に残りやすくなると思うのです。
以下の20枚は、そういう意図のもとで選ばれた傑作です。選ぶ方によっては「ベスト1」になる可能性も高いものばかりですし、機会があればぜひ聴いてみられることをお勧めいたします。もちろんここに入っていない傑作も多数存在します。他の方のベスト記事とあわせて参考にして頂けると幸いです。
 
・ランキングは暫定です。3週間ほどかけて細かく練りましたが、今後の聴き込み次第で入れ替わる可能性も高いです。
 
 
 
年間Best20
 
 
 
第20位:Maison book girl 『bath room』
 

 

bath room

bath room

 

 

 
「現代音楽とアイドルポップスの融合」を掲げるアイドルグループの初めての全国流通盤。音楽的に非常に優れたアルバムで、ポストロック〜マスロックやプログレメタルなどが好きな方はぜひ聴くべき傑作です。
 
作編曲から音作りまで大部分の作業を担当するプロデューサー・サクライケンタ('83年生まれ)は、各所のインタビューで「小学生の頃は姉の影響で渋谷系をよく聴いていた」「当時からハロプロのアイドルポップスは好きだった」「MTRで曲作りを始める一方でドラムスやギターの演奏もしていた」「17歳頃のとき現代音楽にハマり、特にスティーヴ・ライヒに大きな影響を受けた」と語っています。確かにライヒ的な音進行は多用されており、『18人の音楽家のための音楽』などで聴けるフレーズの絡め方やコード感をはっきり連想させる場面もあります。その一方で、Maison book girlの音楽では、そこに渋谷系や(ある種の)アイドルポップスに通じる音進行の“引っ掛かり感覚”が混ぜ合わされており、いわゆる現代音楽と一般的なアイドルポップスの両方に似つつもそのどちらにもならない味を確立しているのです。『bath room』の収録曲は全てがこうした音遣い感覚を(共通する“ダシ”として)持っていて、表情の異なる曲の数々が見事な統一感をもってまとまっています。アルバムの流れも非常によく、快適に聴き返し続けているうちに、先述のような音遣い感覚に慣れていない人もそれに対応する“回路”を開発され、どんどんハマっていく…というような優れた機能性が生まれているのです。一枚モノとして大変完成度の高い傑作です。
 
このアルバムの特に見事な点として、「変拍子の使い方が上手い」というものがあります。7拍子や5拍子が使われていること自体が賞賛される傾向もあるようですが、そういう変拍子を使うこと自体は簡単で、誰にでもできます。Maison book girlの音楽はその使い方が上手く、巧みな引っ掛かりを生むことができているのです。
例えば1〜2曲目の「bath room」は、パット・メセニー「First Circle」(こちらは11拍子)を連想させる7拍子の手拍子から始まるのですが、その上に加えられる様々なフレーズ・キメは手拍子のアクセントを絶妙に外しつつ絡むもので、多彩で巧みな引っ掛かりを生んでいきます。また、5曲目「snow irony」中間部の5拍子パートでは、10拍で1ループする主旋律を2拍遅れで輪唱するという(『Discipline』期のKING CRIMSONや90年代以降のマスロックに通じる)アレンジが施され、しかもそれが少しも小難しくなく仕上げられています。
このような巧みな変拍子構成の枠内で作られるフレーズ(音程の動き)も実に見事で、コードに対する効果的な“切れ込み”により、リズム面の捻りと併せ多様なアクセント付けをし、キャッチーな引っ掛かりを生んでいくのです。しかもそれら全てが非常に聴きやすい。歌モノポップスとして素晴らしい仕上がりと言えます。
ちょっと意地の悪いことを言うなら、こういう「聴きやすく美味しい変拍子」を提示することで、聴き手の「難しいものを乗りこなせる自分カコイイ」欲を絶妙にくすぐる効果も生まれているのだと思います。そういう点でも巧みな仕掛けがありますね。しかし、そんなこと関係なしに楽しめる優れた音楽です。
 
そしてその上で、このアルバムで最も素晴らしいのは、全編を貫く特別な雰囲気とそれを扱うバランス感覚でしょう。爽やかな翳りを湛える曲の音進行が“ありそうでない”独自の個性を持っていることに加え、ボーカルの声質(の活かし方)が本当に見事。“醒めてはいるが冷めてはいない”感じの抑えた情熱があり、暑苦しくなく聴き手に訴える力があるのです。こうした感じによく使われる「エモい」という言葉は、メタル畑での「泣き落とし」的なニュアンスを含む使われ方に先に馴染んだ自分にとっては少々抵抗のある表現なのですが、このアルバムの雰囲気や気分は(例えば初期ポストロックなどに通じる)良い意味での「エモい」感じに満ちていて、その言葉に素直に賛同しつつ、静かに潤う熱さに感じ入ることができます。こうした点でも素晴らしいバランス感覚と美意識に満ちた作品だと思います。
 
以上のように、Maison book girl『bath room』は、巧みで聴きやすい作編曲と、ボーカルをはじめとした抑えめで情熱的な雰囲気とが、32分という程よい尺のなかで見事な流れまとまりをもって提示される作品なのだと言えます。一枚を繰り返し聴き通すことでどんどんハマる。本当に素晴らしい「アルバム」です。
 
ところで、自分がこのアルバムを初めて聴いたとき「“定型化された時期以降のシンフォニックなポストロック+ファンタジー系のアニソン”という感じの音進行は個人的に苦手なはずなのに不思議と抵抗を感じないのはなぜだろう」と思ったのですが、インタビューでそちら方面の名前が殆ど挙がらないのをみると、そうしたものの影響は特になく、「ルーツ(ライヒなどの現代音楽)が同じなのでたまたま似てしまった」ということなのかもしれません。ある種のシーン(例えば90年代後半以降のお洒落なロックなど)によくある音遣い感覚を備えているのに、そちら方面の没個性な音楽とは一線を画す、優れたオリジナリティ(他では聴けない味わい)を勝ち得ている。こうした点でも稀な音楽なのではないかと思います。
パット・メセニーDON CABALLERO、GORDIAN KNOTやANIMALS AS LEADERSなどのファンも感服するだろう傑作。お薦めの一枚です。
 
 
 
第19位:SADIST 『Hyaena』
 

 

ハイエナ

ハイエナ

 

 

 
イタリアを代表するプログレッシヴ・デスメタルバンドの5年振りの新譜。このバンドの持ち味があらゆる点において理想的に活かされた大傑作で、個人的には彼らの最高傑作だと思っています。
 
SADIST('90年結成)は「デスメタルに本格的にキーボード/シンセサイザーを導入した最初のバンドの一つ」と言われますが、作編曲や演奏のスタイルは一般的な「デスメタル」「シンフォニックメタル」と大きく異なっており、他では聴けない独創的な作品を生み続けてきました。初期の傑作とされる『Tribe』('96年発表)では、70年代プログレッシヴ・ロックEL&PやYES、GOBLIN etc.)やRUSH、80年代後期のスラッシュメタルデスメタルなどの要素をベースに、“歌モノ”を重視するイタリア音楽の流儀、そして地中海(欧州〜中近東の中継地点)ならではの雑多な民族音楽の要素が巧みに組み合わされ、奇妙でキャッチーな音楽性が生まれています。地中海音楽と20世紀初頭のクラシック音楽バルトークストラヴィンスキーなど)をエクストリームメタルの枠内で闇鍋状に混ぜたようなスタイルはある種の“仮想の民族音楽”とも言えるもので、このバンドの音楽的方向性の主軸になっています。数年の活動休止を経てからの再結成('07)以降の作品ではそれがさらに突き詰められ、他に類のない個性が確立されていきました。
 
この『Hyaena』は前作『Season in Silence』('10年)から5年振りに発表された作品で、2〜3年の時間をかけて徹底的に作り込まれたというだけあって、アルバムの全編が完璧なバランスのもと美しくまとめ上げられています。どの曲も「他では聴けない」独特の強力なフレーズばかりで構成されており、複合拍子を連発する複雑なリズムアレンジ
(例えば4曲目「The Devil Riding The Evil Steed」における〈18+11拍子→8拍子→5拍子→6拍子→4拍子→7+8拍子→…〉など)
も、非常に滑らかで無理のない繋がりを持っています。全ての曲が独自のロジックで鍛え上げられた“美しい畸形”で、慣れて俯瞰できるようになると「これがベストの形なんだ」とわかり、繰り返し聴くほどに深い納得感が得られるのです。
また、そうした作編曲をかたちにする演奏も実に強力です。ジャズとハードコアを絶妙に混ぜた“跳ねる”アタック感を硬めのメタルサウンドのもとで表現したようなアンサンブルは(独特のヨレ方をするリードギターは慣れないと気になるかもしれませんが)ジャンルを問わず一流といえるものですし、卓越した発声技術を活かして奇妙な字余りフレーズを歌うボーカルも、(どことなくお茶目さを感じさせる)野獣のようなヤクザ声で音楽全体の優れた“顔”になっています。こうした演奏が“ファンタジックで土着的な”シンフォニックアレンジのもとで繰り出される音楽性は他では聴けないもので、ハマれば一生モノになるだけの味があります。負担なく何度でも聴き返せるアルバムの構成も、そうした味を快適に呑み込ませやすくすることに大きく貢献していると思われます。
 
デスメタル」と聞くと「わけのわからない重低音が轟き続けるうるさいだけの雑音」と思う方もいるかもしれませんが、SADISTの音楽は(主にボーカルの歪んだ声質から)便宜的に「デスメタル」とされているだけのもので(そもそもデスメタル自体が「うるさいだけの雑音」ではなく「非常に高度なアレンジからなる中低音シンフォニー」と言えるものなのですが)、音のイメージとしてはむしろ「硬めの音色を使った民族音楽寄りフュージョン+ビートミュージック」というのに近く、ジャズやプログレッシヴ・ロックのファンも楽しめるのではないかと思います。他にない独自の路線を開拓し続けている点でも大変興味深い音楽ですし、機会があればぜひ聴いてみることをお勧めします。
 
 
 
 
第18位:ももいろクローバーZ 『青春賦』
 

 

「青春賦」【通常盤】(CD Only)
 

 

 
ももクロの魅力としてよく言われる「全力」というキーワードがあります。「全力」で歌い踊る姿がなにより感動を呼ぶ、それがももクロの魅力なのだ、という話です。
これは確かに間違いではないのですが、個人的にはややピントがズレていると感じます。「全力」でやるパフォーマンスの“力強さ”よりも、むしろ、「全力であることを暑苦しく感じさせない」パフォーマンスの“質”こそが魅力の肝なのではないかと思うのです。
 
ももクロの重要な個性として「呑気だけど能天気ではない」というのがあると思います。力みすぎない飄々とした軽やかさがあるけれども、何も考えずヘラヘラしているわけではない。彼女たちなりに悩み、深刻に考えることもあった上で、それにとらわれ過ぎずにまっすぐ突き進んでいく。「屈託があるけど屈折してない」とでも言いましょうか。肩肘張らないのにエネルギーに満ちている、押し付けがましくないアツさがあって、出し惜しみせずに「全力」で行くところでもそれが暑苦しく感じられないのです。接する側に「何か重たい」というような心理的負担を一切かけず、さりげなく活力を与えて心を震わせてしまう。こういう絶妙の“力加減”があるからこそどんな相手の懐にもスッと入っていけるのでしょうし、テンションの高い人からも低い人からも丁度いい立ち位置にあって、その両者を取り込めてしまうのだと思うのです。ももクロがここまで広く強い支持を得ることができたのは、パフォーマンスの凄さはもちろんのこと、こうした人柄によるところが大きいのではないかと思います。
 
そして、こうした人柄は、動いているところを見なくても、録音されている声だけを聴いても伝わってくるものです。むやみやたらにスコーンと抜けたりしない(発声技術的な話でいうなら「頭頂部をひらいて高域のヌケをよくする」ようなことをあまりしていない)程よく“くぐもった”声質は、お行儀よく快活なJ-POP的発声とか、「私上手いでしょ?」というような自意識を力強く押し付けてくるR&B系ディーヴァの歌い上げなどとは異なる、どこか歌謡曲的な湿り気や“控え目”な落ち着きを感じさせます。そうした力加減が基本的なテンションとして維持されているから、どんなに力強く歌うところでも不躾で暑苦しい印象が生まれない。抑え気味な陰翳とまっすぐで衒いのない活力が自然に両立されているのです。
ももクロの楽曲について「別の上手い人が歌えばもっと良くなるのに」ということを言う人はわりと多いですが、フレージングの滑らかさというような「整った技術」に関して言えばその通りでも、上記のような人柄とか力加減について言えば、代わりになるものはありません。そして、音楽においては(少なくとも、完璧に整ったバッキング・トラックの上にのるリードボーカルに関して言うなら)そうした「味」の部分がなにより重要なのです。このメンバーの声質やパフォーマンス(そしてその源となる人柄)がなければ、ももクロの楽曲がこれほど“伝わる力”に満ちたものになることはなかったと思います。
 
このように、ももクロが成功したのはメンバーのキャラクタ・音楽的個性によるところが大きかったのではないかと思うのですが、運営側の音楽的ディレクションもそれと同じくらい大きな貢献をしているのではないかと思われます。幅広い音楽要素をつぎ込みめまぐるしく展開させる作編曲スタイルは「ジェットコースター的な」刺激と滋味の豊かさを両立するもので、小難しいことに興味がないライト層にも、細かく聴き込んで分析するのが好きなマニア層にも、ともに強く訴求する構造を勝ち得ています。
(この点RUSHあたりに通じるポジションにいるのではないかと思います。)
様々なジャンルを節操なく網羅する持ち曲も、そうして増やしていくうちに「何でもありなグループ」「どんなジャンルを追加しても方向性がブレない」という印象が生まれ、何をやっても(時間をかければ)受け入れられるようになっていく。こういう流れを作ることができたのも(この先の活動における自由度を確保できていることも含め)成功の大きな要因なのではないかと思います。
 
2015年に入ってから発表された3枚のシングル『夢の浮世に咲いてみな』(KISSとの共演盤)・『青春賦』・『『Z』の誓い』は、上記のような「何でもあり」な流れをよく表すものです。そしてその中でも『青春賦』(4曲入りCD版)は大変素晴らしい仕上がりで、1枚モノとしての構成の良さもあわせ、名盤と言っていい出来なのではないかと思います。
まず表題曲が良いです。発表直後に10回続けて聴き通した感想
にも書きましたが、「卒業式で歌われる合唱曲を、大学のアカペラサークルでよく用いられる“ジャズ〜ゴスペル的なコードワーク”(Donald Fagen〜TAKE 6あたりに通じるスタイル)でアレンジした感じ」の編曲を担当しているのが、まさにそのSTEELY DANDonald Fagenスタイルを得意とする国内屈指のアレンジャー冨田恵一で、キリンジの名曲「Drifter」に絶妙な“つまずき”を加えたような音進行により、「卒業」(ちょうどメンバーはそのあたりの年齢です)に伴う「爽やかな決意表明とそこに伴う困難」を表現しているのです。それに取り組み先述のような「屈託があるけど屈折してない」雰囲気を醸し出すパフォーマンスも見事で、このグループにしか表現できない素晴らしい味を生んでいると思います。
他の曲も良いものばかりです。グループの代表曲である「走れ!」の現編成ver.では、爽やかな原曲に程よい渋みと切実さが加わっていて、この歌詞を良い意味で“身の丈に合った”ものとして歌いこなせている感がありますし、残りの2曲も、ちょうど高校の卒業を控えた最年少メンバーをメインに据えつつ卒業済みの他のメンバーと対比させるなど、巧みな仕掛けで優れた表現力を生んでいる場面が多いです。アルバムとしての流れまとまりもとても良く、心震わされながら何度も聴き返してしまえる快適な居心地が備わっています。このグループのカタログにおいて出色の作品というだけでなく、日本のポピュラーミュージックシーン一般でみても傑作と言える内容なのではないかと思います。
機会があれば(「食わず嫌い」の流し聴きをせずに)ぜひ耳を傾けてみてほしい一枚です。
 
 
第17位:ARCTURUS『Arcturian』
 

 

Arcturian

Arcturian

 

 

 
ARCTURUSは「シンフォニック・ブラックメタル」の始祖の一つとされるバンドですが、型にハマった多くのそれとは一線を画す音楽性を持っています。
ノルウェー特有の“薄くこびりつく”引っ掛かり感覚(こちらの記事http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/03/27/050345参照)を音遣いの芯に置き、シンフォニック・ロックの壮麗なメロディ感覚と(アメリカのブルースにも通じる)鈍く引っ掛かる進行感を統合する。華やかに変化するリードメロディと(彩り豊かではあるけれども)意外と色の種類が変化しないモノトーンなコード感が両立されていて、展開がはっきりしている歌モノなのに“同じような雰囲気に浸り続ける”酩酊感を与えてくれるのです。きびきび流れる構成なのにアンビエントな聴き味がある音楽性は意外と稀なもので、歌モノポップスのファンにも電子音楽や70年代ジャーマンロックなどのファンにもアピールする懐の深さがあります。
また、エクストリームメタルが敬遠される大きな理由となっている「がなり声」「低域を強調した轟音」のような要素もほぼなく、(メタル的なエッジを確保しながらも)J-POPのファンにも抵抗なく受け入れられうる“うるさ過ぎない”音像が主になっています。北欧特有の底冷えする空気感と独特の親しみやすさを両立する音楽性は(マニアックながらも)とても聴きやすいもので、ブラックメタル特有の味わいや“気の長い”時間感覚を抵抗なく身につけられる素材としても好ましく、そうしたものの入門編として最適なバンドなのではないかと思います。
 
一度の解散・再結成を経て10年振りに発表された新譜『Arcturian』は、一言「完璧なアルバム」です。2nd『La Masquerade Infernale』の暗黒舞踏アヴァンギャルド・オペラ的な雰囲気が、4th『Sideshow Symphonies』で完成された先述のような“薄くこびりつく”音遣い感覚で強化された上で、3rd『The Sham Mirror』の洗練された“歌モノ”スタイルでまとめ上げられている、という感じの仕上がり。濃密な作り込みをさらりと聴かせる作編曲の語り口は殆ど理想的で、よく動く歌メロに注目しながら展開を追うだけで、独特の深い味わいにどんどん酔わされていきます。ノルウェー・シーンを代表する名人揃いの演奏も素晴らしく、それを快適に聴かせるサウンドプロダクション(若いプロデューサーによりダブステップ以降の電子音楽の要素が絶妙に組み込まれている)も極上です。アルバムの構成も実によく出来ていて、聴きやすく聴き込みがいのある内容に負担なく接し続けることができます。上記のような音遣い云々に興味がなくても、優れた歌ものロックアルバムとして楽しめる作品。気軽に手を出してみてほしい傑作です。
 
ブラックメタルやエクストリームメタル一般を好む方向けに言いますと、この『Arcturian』は、ARCTURUSのどの作品が好きなファンも納得できる出来だと思いますし、この手の音楽性では前人未到の境地に到達している作品なのではないかと思います。単にこのバンドの最高傑作(個人的な意見です)というだけでなく、HR/HMの歴史が生み出した一つの達成と言える傑作です。広く聴かれてほしいアルバムです。
 
 
 
 
 

 

ジパング

ジパング

 

 

 
「ジャジーなヒップホップ〜テックハウス調のトラックに意味不明な言葉を連発するラップがのる」というふうに紹介されることが多いポップ・ユニットの、5枚目のミニアルバム(過去作もミニアルバムのみ)です。主役を張るボーカルの個性も緻密なバックトラックの出来も素晴らしく、複雑な作り込みを何も考えず楽しめるように提供してしまう構成力はポップ・ミュージックとして理想的。全ての面において優れた傑作です。
 
アルバムを聴いてまず驚かされるのが1曲目の「シャクシャイン」でしょう。北海道の地名を連呼する高速アカペララップ(バッキングはパーカッションのみ)から始まるのですが、ストレートに16分音符を埋め続けるだけの譜割が次第に巧みなアクセント移動を交えるかたちに変化し、微妙にくぐもった和音を魅力的に聴かせる多重録音ラップパートを経て、それまでの展開からは予測がつかないタイプの和音を鳴らす高機動力のバックトラックが入ってきます。こうした多段階の曲調変化はどれも死角から切り込んで来るような巧みな“カマし”になっていて、極めて快適に身体に訴える優れたリズムアンサンブルとあわせ、とても楽しい驚きを与え続けてくれるのです。
このアルバムの収録曲はそれぞれ全てがこういう“カマし”を最低4つは備えていて、しかもその全てが異なるリズム・テンポ展開から成っています。そこに絡むバックトラックのリフなど(副旋律)の絡みも個性的で素晴らしく、「これがあれば一曲作れるよ」というような優れたアイデアが各曲に幾つも仕込まれているのです。また、そうしたアイデアの数々が惜しみなく滑らかに並べ繋ぎ合わされていくことにより、膨大な情報量を何も考えず聴き流せる快適な流れが生まれています。理屈抜きに“体で”楽しむことができ、腰を据えて聴き込めば興味深い構造を果てしなく味わい続けることができる。ノリ良く奥行きも凄い仕上がりは見事の一言です。
 
この音楽の“顔”となるのはやはり「主演・歌唱」コムアイのボーカルでしょう。少し鼻にかかった気だるい声質は一見“体温が低そう”にみえるものなのですが、だからと言ってテンションが低いわけでもなく、一音一音をしっかり踏みしめながら鈍く滑らかなトメハネを効かせる歌い回しは、独特のコシと勢いの良さを感じさせてくれます。ファニーな歌詞を連発していても「ただふざけているだけ」な印象が不思議となく、しれっと落ち着いていながらも戦闘的というような、腰の据わったしなやかさがあるのです。こうした“媚びない可愛らしさ”のあるキャラクタを“滑らかにこびりつく”フレージングとともに示してしまえる歌唱表現力は大変得難いもので、ラップなどにおける微妙な・絶妙な音程感も併せ、音楽全体に素晴らしい個性を加えていると思います。
また、音楽面の土台となるバックトラック(歌詞とあわせケンモチヒデフミが全て担当)も非常に強力です。先述のような緻密な構造を持っているだけでなく、それを具体的な出音に仕上げるにあたってのリズム処理能力・作り込み(コンマ秒のレベルで響きの干渉を調節することにより打ち込みで微細なグルーヴ変化を表現することなど)が非常に優れていて、丁寧に踏みしめながら繋がっていく“ベタ足の疾走感”を表情豊かに描き分けることができています。こうしたトラックに、微妙にヨレながら高機動にフロウするVoがのることにより、絶妙に“急かす”イキり感と安定感が両立されるのです。これはコードやフレーズなどの音遣い感覚についても言えます。「猪八戒」「ラー」「小野妹子」などといった曲で“中華風”“和風”の雰囲気を醸し出しながらも、そうした感じの曲調によくある定型的な進行をとることはなく、大枠としてはしっかり独自の捻りのあるものに仕上げてしまう。こうした“分かりやすさ”と“日和らなさ”のバランスが絶妙で、単純にノリたい人にもじっくり聴き込みたい人にもアピールする、非常に間口の広い作品を生む原動力になっているのではないかと思います。
 
こうしたことと関連して考えさせられるのが、「ポップミュージックの一線で音楽的挑戦をし尽くす」ということです。
ミュージック・マガジン2015年12月号のインタビューで、ケンモチヒデフミ氏は以下のように語っています。
僕らの音楽がポップだ、というのは一つの強みだと思うんです。世の中にはこんなにいい音楽があふれているのに、ポップじゃないという理由だけで多くの人たちに届いていないことが多いような気がします。だったらポップにやらないのはもったいないじゃないか、と。そこは意識してます。で、結果的にいい音楽が作れて、それが世に広まったら万々歳です。」
「僕は若い頃から音楽が好きで、好きすぎて周りが見えなくなっちゃうこともあった。誰も聴いてくれないようなマニアックなものをひとりで作っていた時期もあります。だけどもう濃い音楽はほどほどにしておいて(笑)、今はポップスを追求していきたい。その背中を押してくれたのがコムアイとDir.F(註:読みはディレクター・エフ:マネージャーや雑務全ての担当)なんです。ぼくはふたりに救ってもらったとおもっています。」
これは“音楽的に日和った”ということではなく、アウトプットのスタイルを変えたということだと思われます。まず自分のやりたいことをした上で、それを受け入れてもらえやすいようなかたちに整える。客に媚びて(≒客を舐めて)薄く手抜きしたものを出すのではなく、徹底的にアイデアを出しそれを詰め込んだ上で、聴き手が咀嚼しやすいように解きほぐしたかたちで提示するわけです。そうした“語り口”さえうまくできていれば、どれだけ趣味に走ろうが聴きやすくすることはでき、表現意欲と評価されたい欲の両方を満たすことができるようになります。アメリカのヒットチャートなどではこうした「ポップミュージックの一線で音楽的挑戦をし尽くす」気風が良い形で機能していて、(ポップミュージックの枠内で、という縛りはありますが)「実力のあるものこそが売れる」健全なやり方がある程度成立しています。水曜日のカンパネラが目指しているのもそういう方向性であり、そしてその素晴らしい成果が本作『ジパング』なのです。実際、本作はミュージック・マガジンの2016年1月号で発表された「年間ベストアルバム 歌謡曲/Jポップ部門」で1位を獲得していますし、各所で発表されている個人の年間ベスト記事でも選出されることが少なくありません。単純に楽しめる“機能性の高い音楽”として凄いだけでなく、しつこい聴き込みに耐える構造と他では聴けない個性を持っている。本当に優れた作品です。いろんな意味で“使える”傑作ですし、聴いてみる価値は非常に高いと思います。
 
 
 
 
第15位:SIGH 『Graveward』
 

 

Graveward

Graveward

 

 

 
SIGHは、日本が生み出した最高の音楽珍味の一つであり、ジャンルを問わずに聴かれるべき優れたバンドです。よく「アヴァンギャルドブラックメタル」と言われますが、音楽の成り立ちからみれば「アヴァンギャルド」でも「(現在の一般的な意味でいう)ブラックメタル」でもありません。演歌〜歌謡曲特有の音遣い感覚に膨大な音楽要素を溶かし込み、独自のやり方で料理したようなスタイルは、日本特有の音遣い感覚が生み出した究極の珍味のひとつであり、NWOBHMから初期スラッシュに連なるカルトメタルの最高進化形とみるべきでしょう。
 
SIGHの音楽は、世界各地の食材や技法に精通した料理人が、あくまで醤油にこだわった味付けに徹しているようなものです。現代音楽やフリージャズ、70〜80年代のジャーマンロックやノイズミュージック、アジア〜ユーラシア大陸民族音楽など、非常に豊かな音楽的語彙が巧みに溶かし込まれているのですが、基本となる下味はあくまで80年代クサレメタル(VENOM、MERCYFUL FATE〜KING DIAMOND、CELTIC FROSTや初期スラッシュ各種)であり、“アヴァンギャルド”な仕掛けは、単なるギミックでもないにしろ、メインの要素ではありません。高度な音楽技法を駆使しながらも、音楽史上における未踏の領域を探索し新たなセオリーを見出そうとするのではなく、既存の語法を誰もやっていないやり方で深く掘り下げるのを主眼とする。80年代クサレメタルを味わいの面でも作曲・音響技法の面でも最高度に深化させているバンドであり、その点において(良くも悪くも)大きな変化はしない音楽性を貫いているのです。
 
そして、そうしたクサレメタル的な音遣い感覚には、日本の演歌〜歌謡曲における音遣い感覚に通じるものがあります。70年代の英国ロック〜80年代のNWOBHMからブルース成分が希釈されていく過程で生まれたクサレメタルの音遣い感覚は、ブルース成分を吸収・定着させる以前の日本のポピュラー音楽、つまり演歌〜歌謡曲における音遣い感覚とかなり似た進行感を持っており、両者の食い合わせは非常に良いと言えます。SIGHの音楽においてはこうした成分が理想的なバランスをもって融合されており、それが豊かな音楽技法で巧みに捻られながら提示されていくのです。
(先に挙げた「現代音楽やフリージャズ、70〜80年代のジャーマンロックやノイズミュージック、アジア〜ユーラシア大陸民族音楽など」もブルース成分が薄めなものばかりで、こうした音遣い感覚との相性は抜群です。)
下味となる音遣い感覚を図太く貫きつつ、多彩な仕掛けで微妙な変化をつけ続ける。同じ味わいに浸らせながらも単調にせず飽きさせない構成が素晴らしく、慣れるとどんどん惹き込まれていきます。格好良いキメを連発するシンフォニックメタルの物理的刺激を心地よく感じ聴き込んでいるうちに、そうした音遣いに反応する“回路”が形成され、味わいの質を理解してハマり、離れられなくなっていくのです。本当に巧みな成り立ちをしている音楽性であり、このジャンルが生み出したものとしては最高の珍味のひとつと言えるでしょう。聴いたことのない方はぜひ体験してみてほしいです。
 
今年発表された新譜『Graveward』は、前作の洗練された構成から一転し、めまぐるしく展開する場面を増やした作品で、「MERCYFUL FATE〜KING DIAMONDにMASTER'S HAMMERを注入し、優れた演奏力でまとめ上げた」ような趣があります。
SIGHの過去作品で言えば『Hail Horror Hail』『Imaginary Sonicscape』『Hangman's Hymn』のどの作品のファンにもアピールしうる要素があり、膨大な情報量をすっきりまとめて聴かせてしまう作編曲が見事です。22年間在籍したギタリストが諸事情により交代して初めて作られた作品でもあるのですが、ヘタウマで定評のあった前任者とは異なる味を加えつつ技術レベルを大きく引き上げる演奏は素晴らしく、全体のまとまりをみても何も違和感がありません。ジャンル特有の深みある胡散臭さ(仏頂面のユーモア感覚)に満ちているのも好ましく、このバンドならではの高度な音楽性と「SクラスのB級」感がとても良いかたちで示されています。SIGHの新たな代表作と言える、非常に充実した作品です。
 
なお、国内盤と輸入盤はマスタリングが異なっており、新加入のギタリストが膨大な時間をかけてやりきったバージョンが採用されている国内盤の方が、各パートの抜き差しなどの音楽的な表現や音質の陰翳ほか、あらゆる面において優れた仕上がりになっていると思います。これからチェックされる方は、是非こちらを聴いてみることをお勧めします。
 
本作関連の情報としては下の記事が詳しいです。併せてご参照ください。
 
リーダー川嶋未来による作品解説(HMVコラム)
 
インタビュー(奥村裕司ブログ)
 
 
 
第14位:SLEATER KINNEY 『No Cities to Love』
 

 

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アメリカのインディー・ロックシーンを代表する名バンドの、実に9年振りの新譜です。いわゆるライオット・ガール(riot grrrlアンダーグラウンドハードコアパンクシーンにおける女性解放運動)との関係の深さや、社会的・政治的な話題を積極的に扱う歌詞などが注目されがちで、音楽的には単に「パンク寄りのガレージロック」としか言われないことが多いのですが、作編曲も演奏も極めて優れたバンドで、ギターリフを主軸としたアレンジの上手さとバンドアンサンブルの素晴らしさだけ見ても超一流と言える実力があります。上手いハードコアパンクやエクストリームメタルが好きな方にこそお薦めしたい大傑作です。
 
このアルバムを初めて聴いた時に個人的に連想させられたのは、超絶テクニカルグランジバンドTHE BEYONDでした。KING CRIMSONと英国ゴシックロックを混ぜ合わせて高速ハードコアパンクに落とし込んだようなスタイルを持つこのバンドには、日本のDOOM(一時期THE BEYONDを客入れBGMに使っていたこともあるらしいです)や後期CORONERに通じる汗臭く神秘的な雰囲気があり、知名度は低いですが、一部からいまだに熱狂的に支持されています。
(参考:山崎智之さんのホームページhttp://yamazaki666.com/beyond.htmlなど)
SLEATER KINNEYのこの新譜では、そうしたバンドに通じる個性的な音進行にニューウェーブ〜ポストパンクや90年代USオルタナSONIC YOUTHなど)の要素が注入されたという感じの音遣い感覚が、非常にうまく使いこなされています。
(成り立ちとしては「たまたまそういう感じになった」というだけで、特に影響関係はなさそうです。)
そうした味わい自体はとても複雑で簡単に解きほぐせないものなのですが、それを表現する曲の構成は実に明快で、連発される印象的なフレーズを追っているだけで何も考えず楽しめてしまいます。前面に出るメインリフが極めて強力なものばかりな上に、それを肉付けする副旋律やドラムスのアレンジもどこまでも見事で、複層にわたる徹底的な作り込みをすっきり呑み込ませてしまうのです。
 
また、それを形にする演奏も素晴らしく、個性的で分厚い鳴りを一音一音丁寧に噛み合わせていくアンサンブルは、このバンド以外では聴けない極上の味を確立しています。
(5曲目「A New Wave」18秒あたりからの〈ベース(風ギター)+ドラムス+ボーカルだけになる所〉前後はその好例です。)
ツインギター+ドラムス、基本的にはベースレスという編成は「低域の鳴りが薄い」「ささくれ立った音色が悪目立ちしやすい」ものになりがちなのですが、SLEATER KINNEYの場合はその活かし方が非常に上手く、「隙間感覚と柔らかい包容力を併せ持ちながらも日和らない」というような、しなやかで逞しい絶妙の力加減が生まれています。「激しく主張しながらも視野狭窄に陥らない」ユーモラスな力強さがある佇まいも好ましく(YESやRUSHを連想させるメインボーカルの声質もそこに大きく貢献していると思われます)、「このバンドならどんな曲を演奏してもたまらなく良い味が出るだろう」と思わせる極上の演奏表現力があります。その上で曲が素晴らしいですし、アルバムの構成も非常に良く、何度でも快適に聴き返せます。微妙なつかみどころのなさが“素敵な謎”を残し続けるようなところも含め、完璧な作品と言っていいと思います。
 
個人的に特に印象に残るのは8曲目「Bury Our Friends」でしょうか。KING CRIMSON「Easy Money」を連想させるイントロからIN FLAMES(の『Reroute to Remain』あたり)を連想させるセクションにつながっていく音遣い感覚は、オーストリアプログレッシヴ・デスメタル(と言われつつ実は初期エモ〜激情ハードコアに近い)バンドDISHARMONIC ORCHESTRAの『Pleasuredome』を連想させるものがあります。他の曲のポストパンク寄りの音進行の方が“気恥ずかしく思わされずに”素直に浸れるものではあるのですが、アルバム終盤において非常に良い存在感を出していると思います。
 
本作は各媒体の年間ベスト記事でもかなり良い評価を得ていて、いわゆるインディー・ロックシーンではよく知られているアルバムなのですが、ハードコアパンクやメタルを主に聴く人からすると殆ど出会う機会がない作品で、個人的にはそれがとても勿体なく思えてしまいます。リフ主体のヘヴィ・ロックとしてだけみても超一流の傑作。広く聴かれるべきアルバムです。
 
 
 
 
第13位:THE END 『0』
 

 

0 (ゼロ)

0 (ゼロ)

 

 

 
日本を代表する名ボーカリスト遠藤ミチロウによる「最後のバンド」の1stアルバム。ミチロウさんが絶大な影響を受けたTHE DOORSのカバーのみで構成されています。
(ミチロウさん以外のメンバーは、ナポレオン山岸(ギター:ex. ザ・ファントムギフト)、西村雄介(ベース:ex. STALIN)、関根真理(ドラムス:渋さ知らズ))
これが信じられないくらい凄い内容で、他人の曲だけを演奏しているのに、この人達にしか出せない表現力が最高のかたちで発揮されています。ミチロウさんの出自であるパンク〜ハードコア方面のファンだけでなく、70年代ハードロックやドゥーム〜ストーナーロックを好む方にこそ聴いてほしい、驚異的な大傑作です。
 
このアルバムに収められたカバーでは、原曲の歌詞(英語)のごく一部を残しつつ、大部分でミチロウさんの独自解釈による日本語詞が採用されています。その日本語詞は(4曲目「Alabama Song」を除き)原詞と全く意味が異なるものばかりなのですが、ニュアンスの根本はしっかり捉えられていて、「完全に別物だが本質は通じている」ものを、この人にしかできないやり方でモノにしてしまえています。
そして、それを形にするボーカルが凄すぎます。たとえば最後の「The End」(映画『地獄の黙示録』でも有名な、THE DOORSを代表する名曲)の長い語りでは、最大のキメフレーズを除き完全に独自のものに作り替えられた内容を、他の人には絶対に出せない空気感(“冷たく甘い霧に汗が混じっている”ような感じ)とともに、優れた響きと驚異的なダイナミクスコントロールをもって表現してしまえています。この語りは、例えば大槻ケンヂの「GURU」(『アンダーグラウンドサーチライ』版)における一世一代の名演と比べても同等以上の、乾坤一擲の表現力に満ちたもので、遠藤ミチロウという不世出のボーカリストの超絶的な歌唱表現力(音程ではなく、音色や力加減のコントロール能力)が余すことなく示された名演です。こうした表現力は他の収録曲でも充分に発揮されていて、様々な雰囲気が表情豊かに描き分けられています。このボーカルが聴けるというだけでも稀有な傑作と言えます。
 
そしてこのアルバムが凄いのは、他のパートも驚異的に素晴らしいということです。一聴した時点では「DOORSのカバーなのにオルガンが入っていないとは何事か」と思わされるのですが、聴いていくうちに、シンプルながらツボを心得たフレーズ構成、そして何より信じられないくらい凄い音響表現力に惹き込まれていきます。
このアルバムにおいては、初期DOORSの“夜の底で町の灯りに神経を焼かれる”ような醒めた感覚と、BLACK SABBATHの1stにおける“深い霧の中で朦朧とする”ような不健康な鎮静感とが、完璧な良い所取りで表現されています。60年代末〜70年代初頭の限られた名盤にしかないあの空気感、多くのドゥーム〜ストーナーロックバンドが再現しようとして成し得なかったサウンドが、このTHE END『0』においては殆ど理想的なかたちで実現されているのです。(こんな音、私は他で聴いたことがありません。)しかもそこに遠藤ミチロウの超絶的なボーカルがのる。つくづく信じられない傑作です。
 
THE DOORSの名曲群は、アンダーグラウンドシーンのミュージシャン(灰野敬二大槻ケンヂなども絶大な影響を受けています)にとって気安く手のつけられない、ある種の“聖域”と言っていいものなのですが、全曲そのDOORSのカバーで通したこのアルバムは、オリジナルの薫りを想起させながらも独自の強力な表現力を発揮し、原曲に勝るとも劣らない格を示しているもので、難しい試みに完全に成功していると言っていいのではないかと思います。
原曲のニュアンスや雰囲気を掴むことで、音進行や歌詞などを(敬意を表し概形をなぞりつつ)“自分のもの”に変えてしまいながらも、本質を損なわず、原曲にもない唯一無二の表現力を生んでしまう。この驚異的な作品を聴いていると、音楽における「カバー」という行為は、単なる「真似」ではなく「換骨奪胎」(元の作品の趣意に沿いながら新たなものを加え表現すること)であるべきなんだ、と強く思わされます。“リスペクト”だけでなく、“乗り越えてやる”という気迫に満ちている。本当に凄い作品です。
 
なお、以上のような描写をみて「インパクト重視の作品で繰り返し聴くと慣れてつまらなくなっていくのでは」と思う方もおられるかもしれませんが、そんな心配は全く不要です。淡々と流れていく演奏は豊かな滋味に満ちていて、落ち着いて吟味できるようになればなるほど深く染み入ってきます。一枚通して浮きすぎず沈みすぎず流れていくバランス感覚は、THE DOORSの原曲自体が持つ性質とも言えますが、それ以上にミチロウさんの“シリアスかつユーモラスな”声があってこそのものなのでしょう。原曲の絶望一直線な感じが薄まり、柔らかい逞しさ、そう簡単には諦めてやらないぞというふてぶてしさが加わっています。そうした雰囲気に浸ることにより、一枚を通して心地よく“フラットに揺れる”ことができる。本当に得難い個性のある声・歌ですし、このアルバム全体が、ミチロウさんのそうした味わいが見事に活かされた作品だと言えます。いろんな方に聴いてみてほしい大傑作です。
 
 
 
第12位:ONEOHTRIX POINT NEVER 『Garden of Delete』
 

 

Garden of Delete

Garden of Delete

 

 

 
ブライアン・イーノの正当後継者」「エイフェックス・ツインに匹敵する才能」などと言われ、現代の電子音楽シーンで特に注目されている人物、ダニエル・ロパティン。彼の変名であり最近はバンド的な形態に変化しつつもあるというユニットの、約2年振りのアルバムです。極めて高い評価を得た前作『R Plus Seven』におけるアンビエント要素の多い作風から一転し、「ハイパーグランジ/サイバーメタル」と本人が形容するような、攻撃的な曲調の多い作品になっています。
 
このアルバムについては本人のインタビューで非常に詳しく語られており、
音楽その他のバックグラウンドや製作にあたっての意図などはこのあたりの記事
を読んでいただくのが良いと思われます。ここでは、そうした記事では触れられていないこのアルバムの「聴き方のコツ」について簡単に書いておこうと思います。
 
このアルバムはとても注目されている一方で「いまいちピンとこない」という感想が非常に多い作品で、駄作扱いされることは少ないのですが、持ち上げる人も奥歯に物が挟まったような微妙な触れ方をしている場合が殆どです。この作品に収められた楽曲は、和声やリズム構成・音響構築などあらゆる面において独特の成り立ちをしており、他の音楽を聴くことによって得られた経験値や聴き方が通用しにくくなっています。「この作品そのものを繰り返し聴かないと勘所をつかむことができない」ため、何回か触れただけで結論を出そうとする人からは微妙な評価しか得られないことが多いわけです。その一方で、繰り返し聴いてうまく勘所をつかむことができれば、他の音楽にはない音進行や音響の感覚に惹き込まれ、独特の雰囲気を素直に楽しめるようになります。そういうこともあってか、良くも悪くも「聴き込んだ回数によって評価が分かれる」度合いの大きい作品になっているのだと思います。
 
私はこのアルバムを現時点で40回ほど聴き通していますが、わりとはっきりした手応えが得られたのはだいたい10回ほど聴いた頃、たまたま大きめの音量でスピーカーで再生したときのことでした。控えめの音量で聴いていた時は主旋律ばかりが印象に残り、それを肉付けするフレーズなどを聴き流していたため全体の構造をうまく把握できなかったのですが、大きめの音量で聴いた途端、そうしたフレーズの動きや音色がはっきり見えてきて、各パートの絡み方やアレンジ全体の成り立ちが体でつかめるようになっていったのです。このアルバムの音響はいわゆるインダストリアルメタルをツルツルに磨き上げたようなものになっていて、少し聴き流しただけだと「ささくれ立った質感を出すための効果音にすぎないだろう」と思ってしまいがちなノイズ的音色も沢山入っているのですが、実はそういう音色も一つ一つがはっきりした音程を持っていて、緻密なシンフォニーの構成音として不可欠に機能しています。これは音響面についても言えることで、一聴しただけだと「ノイジーな効果音」としか思えないような音色も、主旋律をはじめとする他のパートの音色と干渉することにより、優れた“響きの快感”を与えてくれるようになっているのです。このアルバムに収録されている曲は全てがそういう効果を狙った上で作られていて、そういう効果の勘所、“アンサンブルの結節点”とも言うべき“響きのツボ”は、大きめの音量で聴かないと見えづらくなっています。(一度掴んでしまえば小さめの音量でも反応できるようになります。)そうした聴き方をしたことがあるか否かで大きく評価が分かれてしまう作品でもあると思われます。
(なお、イヤホンやヘッドホンで聴く場合は、サウンド全体を俯瞰するというよりも一部の要素に注目する聴き方になってしまいがちなので、パート間の響きの干渉に注意が向きにくくなる傾向があると思われます。できれば「スピーカーで大音量で聴く」のが良いでしょう。)
 
このような「大きな音で聴かないと勘所がわからない」ことがさらなる説得力を持って伝わってきたのが、12月の頭に行われた来日公演でした。
(参考:直後のライヴレポ
日本を代表するPAマスターのひとりzAkさんの貢献もあってか音響は極上で(客入れBGMとして流されていたKode 9『Nothing』からして異常に美しい鳴りをしていて驚きました)、電子音楽ならではのクリアな解像度とヘヴィロック的な“生の”爆発的パワー感が完璧以上に両立され、新譜の曲の緻密な構造とサウンド構成が、実に“直感的にわかりやすい”かたちで示されていたのです。
この公式レポhttp://bit.ly/1TKyHDMにおける「音の粒が形になって目に見える」という表現が大袈裟にきこえないようなサウンドでした。)
このライヴの後に新譜を聴いてみると、細部の音色やフレーズの動きが非常によく掴めるようになっていて、「生演奏を体験するとその音楽に対応する“回路”が開発されスタジオ音源も格段に楽しめるようになる」効果を強く実感することができました。
(この点、昨年の個人的年間ベストアルバム第5位に選んだmats/morgan『shack tati』に通じるものを感じました。音楽的にも共通する部分が多いと思います。)
新譜の評価が比較的分かれる傾向があるのは、こうした体験をしている人とそうでない人との間での“手応えを感じている”度合いが異なるというのも大きいのではないかと思います。「ライヴに行け」というのはなかなか難しいですが、できればスピーカーで大音量で聴いてみてほしい作品です。
 
ところで、このアルバムが「なんとなくピンと来ない」ものとして扱われることが多いのは、アルバムの曲順によるところも大きいのではないかと思われます。冒頭に挙げたAMPのインタビューでは「ポップソングとして独立した曲を作りつつ、それらを並べて統一感をもつアルバムを作りたかった」という意味の発言があり、実際それは成功しているのですが、アルバムの曲順通りになんとなく聴いていてもすぐにはハッキリした手応えを得にくいと思うのです。そんな感じで実際うまく吞みこめないという方にお勧めしたいのが「来日公演のセットリストどおりに聴く」ことです。アルバムの曲番号でいうと〈9・4・6・11・8・2・10・12〉の順に聴くことで、比較的インパクトのある印象的な場面を手際よく続けて味わうことができ、アルバム全体の雰囲気や流れの勘所を直感的につかむことができるようになると思います。ぜひ試してみることをお勧めします。
 
個人的にこのアルバムが一番しっくりくるのは「風呂から上がって寝床につく時の、少し疲れながらも深くリラックスしている状態」です。そういう状態で聴いて完全に素直に聴き入れるという体験をしたら、そうでない状態のときもうまく楽しめる度合いが確実に増しました。
気分や体調によって聴こえ方が大きく変わる音楽というのはたくさんあって、そういうものをうまく吞み込むためには、様々な条件のもとで何度も試してみるのが大事だったりします。「肌に合わないし聴き込む必要を感じない」という人はこだわらず放っぽり出していい作品だと思いますが、「よくわからないけど何か引っ掛かる」という方は、様々なシチュエーションで折にふれ聴き返してみるのがいいのではないかと思います。そうする価値のある個性的な傑作です。
 
 
 
第11位:ツチヤニボンド『3』
 

 

3

3

 

 

 
高野山の自宅で自営業を営む音楽マニア土屋貴雅が率いる超絶ミクスチュアバンドの、実に4年ぶりとなる3rdフルアルバムです。他のメンバーもこちらの「無人島 俺の10枚」http://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1510131014/で語られているように重度の音楽マニア揃いで、優れた技術と幅広いバックグラウンドを活かし、複雑で豊かな音楽性に貢献しています。
 
先に「ミクスチュア」と書きましたが、ツチヤニボンドの音楽は、例えば90年代アメリカのロックシーンにおける「ミクスチャー・ロック(ファンク〜ヒップホップとヘヴィロックを組み合わせたもの)のような比較的安直なものとは訳が違います。古今東西の音楽のエッセンスを吸収し、原型を留めないレベルまで噛み砕いて闇鍋状に混ぜ合わせることで、「何からできているのかわからないが半端なく旨くて飲みやすい、いろんな素材が溶けかかった形で浮いているスープ」のようなものに仕上げてしまうのです。そうしたやり方から生まれる楽曲は、どこかで聴いたことのあるような要素を残しながらも全体の輪郭や下味は他のどこにもないかたちになっていて、同じバンドの曲なのにはっきり「これとこれは似ている」と言えるものがありません。「1バンド1ジャンル」という言葉がありますが、このバンドの場合は「1曲1ジャンル」という趣すらあります。ただ、だからと言って「方向性が散漫で落ち着いて浸れない」こともありません。様々な音楽要素を消化し混ぜ合わせるセンスには一貫したものがあり、どの曲においてもそれが共通する土台となっているため、ばらばらの曲調が無節操に並べられているように見えなくもないアルバムも、「いろんな料理が手を替え品を替え出てくるが“ダシ”はほぼ同じで根本的な味は似ている」というふうに、一定の感覚のもと快適に聴き入ることができるのです。本作『3』はこのバンドのそうした持ち味がさらに磨き上げられた傑作で、くるくる変わる曲調を疑問に思わずすっきり聴き通せるようになっています。約50分を全く長く感じさせない構成も見事で、気軽に聴き返していくうちに複雑な味わいがどんどん“体で理解”されていきます。単純に“歌モノ”としても素晴らしい、非常に優れたポップ・ミュージックです。
 
たとえば1曲目「ヘッドホンディスコ」では、4拍子8小節で1ループするファンク風メインリフにのせて、微妙にアクセントを外しながらよろめく歌メロが披露されます。その2層だけが絡む(フレーズ自体はやや複雑だが構造としてはシンプルな)場面がしばし続いたのち、展開部のインストパートではいわゆるポストパンクに通じる奇妙なコード感が加わり、GONGなどを連想させるタイプのサイケデリックなエフェクトが嫌味なく施されていきます。この曲は先述のメインリフ(息が長く休符も多用するため「休まずビートを取り続ける」ようにしないと正しくリズムを把握できない)を誤解して「あぶらだこのようだ」などと言われることもあるのですが、インタビュー記事では「パリ在住の日本人電子音楽ツジコノリコから強くインスパイアされて作った曲」と解説されていたりします。上っ面を聴いて「何々から影響を受けている」と判断するのが殆ど不可能な音楽であり、このバンドのそうした特性がとても良いかたちで発揮されている名曲と言えます。
他の曲も(スタイルは大きく異なるものの)そういう持ち味が楽しめるものばかりになっています。4曲目「Wait」は叙情的なラテン音楽STEELY DAN『Gaucho』収録曲を混ぜたような趣がありますし、6曲目「フラッシュバック」はミルトン・ナシメント「The Call」をブライアン・イーノ『鏡面界』やハロルド・バッド『夢のパビリオン』に浸したようなアンビエント・ポップスになっています。7曲目「スターシップ ガール」はジミ・ヘンドリクス『Electric Ladyland』のサイケデリックな大曲をブラジリアン・ポップスに落とし込んだような感じもしますし、8曲目「20世紀青少年」では、アメリカの60年代サイケや70年代初頭のブラジルあたりで聴けるいなたいロックサウンドが、細かいニュアンスと豪快なノリを両立した超絶技巧アンサンブルで個性的に再解釈されていきます。10曲目「悲しみでいっぱい」はこのバンドを指してよく言われる「はっぴいえんど・ミーツ・トロピカリズモ」という形容が珍しくよく合う曲調です。というふうに、各曲が全く異なるスタイルをとっているのですが、その下味となる感覚は一貫しているため、アルバム一枚を通して一定の音遣い感覚に退屈せず浸っていくことができるのです。ぜひ聴いてハマってみてほしい傑作です。
 
なお、こうした音楽性をかたちにする演奏も非常に強力です。卓越したリズム処理能力のもと緻密な“間”の表現をこなせるメンバーばかりが集まっており、バンド全体で“訛り”“揺らぎ”を巧みに描き分けることのできるアンサンブルは、ティポグラフィカディアンジェロといった優れた先達と比べても何ら見劣りしない味があります。しかも、ツチヤニボンドの場合は、ビートを正確に捉えることにより生まれる整った感じと、絶妙に“分厚くはみ出す”響きが生み出すドッシリした(軽く流れていってしまわない)質感があり、ジャズやブラックミュージックの(滑らかさが前面に出る)アンサンブルでは出せないガッチリした手応えを楽しませてくれます。これは、ロック特有の“汗をかく”グルーヴを最高の技術で仕上げたもので、個人的に時々強く感じる「滑らかでしかも絶妙に引っ掛かるリズム処理が聴きたい」「その上で“分厚く溢れる”手応えのある響きが欲しい」という生理的欲求を見事に満たしてくれるのです。こういうものは実は滅多にありません。例えば初期BLACK SABBATHはこういう場合ヨレ気味のリズム処理が気になってダメですし、LED ZEPPELINなども(全体の分厚い手応えは良いですが)もっと足元が定まっていてほしいと思えます。その点SPEED, GLUE & SHIKI『Eve』などは素晴らしいのですが、ドラムスの尖った鳴りがリラックスすることを許してくれないため、腹に来る極上の手応えに酔いしれながらも、“ちょうどいいところに収まる”ことができきらずに微妙な不満が残ってしまうのです。ツチヤニボンド『3』における演奏はこうした贅沢な欲求を全ての面において満たしてくれるもので、逞しくかつ柔らかい質感も、滑らかで奥行きのあるリズム表現も、落ち着きと刺激を絶妙のバランスで与え続けてくれます。
(先のインタビュー記事などでも言及されている「基本的には一発録音」「SHELLAC『Dude Incredible』やBECK『Morning Phase』を全体のサウンドイメージの参考にした」というやり方が良い効果を上げていると感じます。)
このような点からみても非常に得難い作品で、“体が求める”優れた聴き味をもつアルバムになっていると思います。
 
私がツチヤニボンドを初めて聴いたのは今年の10/4に青山・月観ル君想フで開催された「トーキョー×ミナス」というイベントでした。前情報一切なしで観たツチヤニボンドは先述のような音楽性と演奏表現力を(スタジオ音源と同等以上のクオリティで)発揮していて、今から思い返せば「貴重なものを観ることができて良かった」と感じるのですが、現場では正直ピンと来ない部分もかなりあった気がします。演奏表現力に関してはその場でも凄さがよくわかったのですが、「作編曲に関しては、素材は文句なしだがこう仕上げるのがベストかどうか首をかしげるものも幾つかある」などと直後の感想に書いているとおり、曲の構造をその場で把握し俯瞰できなかった場面も沢山ありました。このイベントではむしろ最初に出てきたキセルの素晴らしさが鮮明に感じられたのですが、それと並んで印象的だったのが、レオナルド・マルケス(ブラジル・ミナスからのゲスト)のサポートメンバーとして出演した土屋貴雅でした。マルケスのライヴは増村和彦(解散した「森は生きている」の旧メンバーで、ツチヤニボンド『3』とこの日のライヴにはパーカッション類で参加)のドラムスと土屋貴雅のベースを加えて行われたのですが、このベースが大変上手く奇妙なもので、ミナス音楽特有の浮遊感あるコード進行を変なかたちにねじ曲げるフレージング、そして重い響きを的確に打ち込むタイトなタッチにより、アンサンブルの低域を完璧に引き締める素晴らしい演奏をしていたと思います。ここで初めてこの人を観た私はてっきり本職のベーシストなんだろうと思っていたのですが、続くツチヤニボンドで殆どボーカルのみ(時々ギターも演奏)で通すのを見て、なんとなく妙な気分になる一方で、こういう技術やリズム感覚がボーカルのやり方にも反映されているのだな、と感じたのでした。
こうした一連のステージにおいて示されていた“なんか妙だけど奥行きがあって面白い”感じ、飄々とした佇まいで韜晦し続けるような様子は、スタジオ音源にもしっかり表れているように思います。ライヴをやること自体かなり少ないようなのですが、機会があればぜひ観ていただきたいですね。音源とライヴをあわせて体験することで一層興味深く楽しめるようになるバンド。オススメです。
 
 
 
第10位:TAME IMPALA 『Currents』
 

 

カレンツ

カレンツ

 

 

 
「オーストラリア出身の5人組サイケデリックロック・バンド」と紹介されることが多いですが、実質的にはリーダーであるケヴィン・パーカーの一人多重録音ユニットです。各所で高い評価を受けた『Lonerism』('12年発表)以来3年振りとなる3rdアルバムで、ケヴィンがマスタリング以外ほぼ全ての作業(作編曲・全パートの録音とプログラミング・録音やミキシングなど)をこなしています。それまでは前面に出ていなかったメインストリームのポップミュージック(80年代のポップスやR&Bなど)を愛する音楽嗜好がためらいなく押し出された作風で、きらびやかな楽しさと得体の知れない苦みが非常に口当たりの良いポップ・サウンドのもと自然に両立されています。聴き返すほどに独特の味わいに酔わされていく傑作です。
 
(これは本筋と直接関係ありませんが、一口に「サイケ」と言ってもその指し示すものは多岐に渡ります。主なものを挙げるだけでも
HAWKWIND
GONG
テキサスサイケ(13TH FLOOR ELEVATORS等この枠内でも多様)
アシッドフォーク(ほとんど“1人1ジャンル”)
中期BEATLES
BEACH BOYS
などがあり、一般的に「サイケ」と言われるものは、こうしたもののどれかに該当している(しかしルーツやスタイルは異なる)ものを(「何やら歪んでいて不健康」という音響の印象から)雑に一括りにしていることが殆どです。
TAME IMPALAの本作の場合は、このうち60年代後半のアメリカものに通じる要素が多く、それをシューゲイザーやヒップホップなどを通過した最近のプロダクション感覚で料理している、という感じです。)
 
ケヴィン・パーカーの音楽嗜好や本作の製作背景などは、この紹介&インタビュー記事
に詳しいです。SUPERTRAMPを主な影響源とし、中期THE BEATLES(『Revolver』あたり)やPINK FLOYDANIMAL COLLECTIVE、そしてMY BLOODY VALENTINEのような“いかにもサイケ”なものを好む一方で、ブリトニー・スピアーズカイリー・ミノーグのような「過剰にメロディアスな音楽」も愛するケヴィンは、「キノコを食ったときにTHE BEE GEESを聴いた」経験がきっかけになって本作の路線を決めたといいます。ボーカルの声質・歌い回しもあって時にTHE BEACH BOYSを強く連想させる音遣い感覚(これはANIMAL COLLECTIVEからの間接的な影響なのかもしれませんが)に、70年代後半以降のトロピカル・フュージョンの薫りが加えられ、その上で80年代のメジャーなポップスに通じる大仰なフレーズも頻繁に用いられる。という感じの作風は、そうした既存のものをわりかしはっきり想起させながらも、それら特有の印象的な要素をそのまま持ってきて生硬い“雑味”にてしまうことはなく、巧みな消化・再解釈により独自の優れた個性を生むことができています。60〜70年代の無骨なロックグルーヴにも最近の高機動なビートミュージックにも寄らない“緩やかに跳ね続ける”リズム構造も好ましく、少し醒めた気だるい感じとノリの良さが見事に両立されているのです。
 
こうした配合・バランス感覚、そして独特の歪んだ音響により生まれる“くぐもった多幸感”は、たとえば80年代ポップスの煌びやかな世界に素直に憧れつつ、そこに完全には馴染みきれないもどかしさがある…というような、複雑な気分を伺わせるものになっています。BEACH BOYS的なエヴァーグリーンな感じに憧れつつ(オリジナルにもあっただろう)厭世観を増して眺め、一歩引きつつ離れられない、素直にのめり込めない、アンビバレントな思い入れを強く発揮している…というような趣。こういう屈折した思い入れをそれとなくはっきり漂わせる雰囲気は、あからさまではないが切実な、独特の“念の強さ”を感じさせるものになっているのです。
 
このような複雑な味わいを聴きやすいポップスのフォーマットで親しみやすく呑み込ませてしまう本作は、「彼岸のパーティー・ミュージック」「三途の川のビーチミュージック」とでも言えそうなものになっています。たとえば1曲目、リードシングルとなった「Let It Happen」は、歌詞だけ見れば「自分の内面や周囲で静かに起こりつつあることに気付き、成り行きに身を任せよう」というくらいの当たり障りのない内容にとれるのですが、これに合わせて作られたMVでは「心臓発作で臨死体験をしているうちに、救助活動が間に合わず“向こう側”へ引き込まれていく」という物語が描かれています。楽しく聴き流すことができる一方で、よく目を凝らしてみると何やら仄暗くそら恐ろしい深淵がある。こうした「複雑な気分を気安く呑み込ませてしまえる」という意味でも、優れたポップミュージック・ソウルミュージックと言える作品なのではないかと思います。聴き込むほどに様々な表情が見えてくるアルバムです。
 
自分がこのバンドの名前を知ったのは、CYNICのポール・マスヴィダルがインタビューで
「『Kindly Bent to Free Us』('14年発表・3rd)の製作時に『Lonerism』をよく聴いていた。60年代のBEATLES系統のサイケデリック風味があり、それは自分の出自に近いものだと思う」
と言っていたのを見たときでした。
(参考:
そう言われてみると確かに、CYNICの近作で濃厚に表現されている「深い苦みを湛えつつささやかな僥倖を慈しむ」ようなゴスペル〜ソウルミュージック的な感覚は、TAME IMPALAの先述のような雰囲気表現に通じるものがあると感じます。
こうした点でも非常に興味深い作品ですし、いわゆるインディーロックなどを好む層に限らず広く聴かれてほしい傑作だと思います。
 
 
 
 
 
 
 
第9位:3776 『3776を聴かない理由があるとすれば』
 

 

3776を聴かない理由があるとすれば

3776を聴かない理由があるとすれば

 

 

 
3776(みななろ)は「富士山のご当地アイドル」。山師的な活動を続けてきて音楽プロデューサーに落ち着いた奇才・石田彰
(詳しくはこちらのインタビュー
参照)
が成り行きで生み出したこのユニット初のフルアルバムで、「標高3776mの富士山を3776秒(=62分56秒)で登る」というコンセプトが土台になっています。これが驚異的な作品で、ポストパンク〜現代音楽を連想させる複雑なコード感覚を親しみやすいアイドルポップスの型に落とし込んだ名曲の数々、そして何よりアルバム一枚を通しての強靭な構成力により、多くの(アイドルに興味のない)音楽ファンに衝撃を与えています。変で聴きやすいものを好む方はぜひチェックしてみるべき大傑作と言えます。
 
このアルバム、何も知らずに聴いた人からは「XTCPUBLIC IMAGE LIMITEDTHIS HEATなどを彷彿とさせる」と言われることが多いのですが、このアルバムが作られた頃、プロデューサー石田彰はそうしたものは殆ど聴いたことがなかったようです。
石田氏の音楽的影響源について最も詳しく語られているのは、本作の制作よりも前に雑誌『MARQUEE』 Vol.103(2014.6.30発行)に掲載されたインタビューでしょう。非常に重要な情報なので、少し長いですが、冒頭の該当部分をまとめて引用させていただくことにします。
 
 
〈とにかく石田さんの音楽遍歴を、まず知りたいです。〉
「音楽遍歴はそんなに面白い話じゃないです。高校までは、ヒット曲・アニメ主題歌(小学校)、西洋クラシック(中学校)、おニャン子クラブ(高校)みたいな感じで音楽を聴いてました。高校の後半で和洋ロック(当時バンドブーム)聴き始めて、自分も音楽をやりたくなった、っていう、ありがちなパターンです。大学に入って、ギター買って、軽音入ってバンド始めるんですが、美大だったこともあってか、周囲の友人が、いろんな音楽に対しコアなんですよね。ブルース好きで黒人ばりのすごいギター弾く人、プログレからジャズから何からかじって様々な楽器をこなす人、現代音楽に詳しくいろいろ教えてくれる人、スタジオミュージシャンの目線でニューミュージックを語る人、本当にドラッグやってるサイケデリックな人、テクノ好きで絶えず新しいCDを買って聴かせてくれる人…。この頃に音楽的に受けた影響ってのは計り知れないですね。でもバンドはそんなにたいしたことやってなかった。ギターも始めたばっかりで、ギタリストとしてのバンド参加は難しかったので、サイケバンドのボーカル&ギターやってました。詞も書いてましたね。三上寛とかジャックスとかあぶらだことか、そういう世界ですよ。そのうち、MTRというのを知って、宅録っていうか、アレンジに興味持ち始めて、そんな中、アイドル音楽が好きだということに気づいたりして、勝手に研究してました。20代なかばで一旦あきらめたというか、音楽どっぷりの生活からは抜け出ます。その後も、ちょこちょこ遊びでは音楽はやってましたが、TEAM MⅡ(註:富士宮市制70周年を記念し1年間限定で結成されたアイドルグループで、3776の原型となった)からです。改めて本格的に音楽をやり始めたのは」
〈石田さんの好きなアルバムもしくは曲を10作おしえてください。〉
「この答えが一番難しかったです。自分の音楽の聴き方が、広く浅く、って感じなんですよね。今回は「石田彰、過去を振り返る10曲」と、勝手に基準作って10曲選ぶことにします。リアルタイムで発表された音楽に限る、という縛りも勝手に付け加えて…。
01:高井麻巳子 / テンダー・レイン(from『私のままで…』)1988年
02:U2 / Where The Streets Have No Name(from『The Joshua Tree』)1987年
03:Pizzicato Five / サンキュー(from『女性上位時代』)1991年
04:ネタンダーズ / やらせてもらっています(from『子供は判ってくれない』)1998年
05:The Orb(from『U.F.Orb』)1992年
06:スチャダラパー / スチャダランゲージ - 質問 : あれは何だ?(from『タワーリングナンセンス』)1991年
07:くるり / あやか市の動物園(はっぴいえんどのカバー)(from『HAPPY END PARADE〜tribute to はっぴいえんど』)2002年
08:J.S. Bach(田部井辰雄) / シャコンヌ(from『シャコンヌ / 田部井辰雄ギターコンサート)2007年
10:Perfume / ポリリズム(from『GAME』)2008年
〈以下略・引用おわり〉
 
 
こうした発言を見ると、基本的には意外なまでにオーソドックスなポップミュージックを好んでおり、そこに“浅く広く”豊かな要素を無節操に投入していく、というのが音楽的な方向性になっているのではないかと思えてきます。
「意外なまでに」と書いたのは、少なくとも個人的には、一聴した時点では上のような要素を殆ど読み取ることができなかったからです。私がこのアルバムを始めて聴いた時の感想は「チャクラ(板倉文小川美潮による超絶テクニカルニューウェーブポップス)とFKA Twigsの間にあるような音楽」または「フランク・ザッパ「グレゴリー・ペッカリーの冒険」に通じるような現代音楽的コード感を聴きやすいポップスのフォーマットに巧みに落とし込んでいる」というようなものでした。「知的に屈折した音楽家があえてポップミュージックのフィールドで勝負している」という感じに思えてしまったのでした。
XTCやPIL、コーネリアスFANTASMA』などとよく比較されるのを見ると、同じように感じる音楽ファンも多いのではないかと思います。)
しかし実際は「まずアイドルポップスが先にあって、その上でいろんな要素を取り入れてやりたいことをやっている」ということのようです。ザッパ「グレゴリー・ペッカリー」を連想させるような要素があるのは実際に「現代音楽にハマっていた時期がありそういう要素を活用している」(つまり、ポストパンク的なコード感覚をXTCなどからでなくそのルーツである現代音楽から直接吸収していた)からであり、トータル3776秒の長さを曲間なしで滑らかに繋げきってしまうのも、その現代音楽やThe Orbのようなアンビエントテクノから得た“長いスパンで解決する”気の長い時間感覚の賜物なのでしょう。そうした(一般的なポップスからみれば特殊な)要素を、聴きやすく親しみやすいアイドルポップスのフォーマットのもとすっきりまとめてしまう、というような構成力とアレンジセンスは驚異的に見事なもので、ジャンルを問わず超一流といえる完成度があります。多くの音楽ファンを驚かせ高い評価を得ているのも当然と言える出来なのです。
 
こうした各曲の出来の良さに加え、本作では「3776」という数字を様々に活用した細かい仕掛けが実にうまく施されています。
まず、本作には単独で成り立つ12の楽曲に加え「Introduction」「Interval」(A〜Fの6つ)「Ending」の計8つの幕間的トラックがあるのですが、この幕間的トラックは全てBPM60に設定されていて、1秒にちょうど1ビート(4分音符)が刻まれるようになっています。そして、その幕間的トラックでは1ビートにつき「26、27、28、29、30…」「1445、1446、1447、1448…」「3773、3774、3775、3776!」というふうに、富士山の標高(メートル単位)がひとつひとつ読み上げられていきます。例えば、アルバムが始まってから1448秒あたりの時間が含まれる「Interval C」ではその時間に合わせて「1448」あたりの数字が読み上げられるようになっているわけです。数字が増していくに従って1秒で読みきるのがどんどん難しくなっていくため(「いち」と「せんよんひゃくよんじゅうはち」とでは後者の方が相当の早口を要求される)、読み上げる側も次第に余裕がなくなり口調が変わっていく。そういう感じが「山頂に近づくにつれて疲れや高揚からテンションが変わっていく」様子を見事に表していて、思いつきのコンセプトに留まらない優れた表現力を発揮しているのです。
また、12曲目「生徒の本業」では、〈3+3→3+7→3+7→3+6〉という“3776拍子”が一曲を通して展開され続けます。これはともすれば小難しいだけのつまらないものになってしまいかねない仕掛けなのですが、そこに乗せられる語り・歌メロの譜割(パターンは2組)が非常に巧みなこともあって、変則的な引っ掛かりと爽快な疾走感を両立した、とても聴き味の良いトラックに仕上がっています。こうした「最初にコンセプトありき」の音楽的アイデアを“頭でっかち”にならずに使いこなしてしまえるアレンジセンスが素晴らしく、複雑な構造を理屈抜きに楽しめる優れた音楽が生まれているのです。
他にも、2曲目「登らない理由があるとすれば」の3分52秒や4分22秒あたりからさりげなく連発される7拍子のオブリガード(基本となる4拍子に対するポリリズム)とか、8曲目「日本全国どこでも富士山」のシンプルながら非常に効果的なバッキングなど、聴き込むほどに面白さが増す緻密な作り込みが満載です。そうした仕掛けを「聴き込んでも聴き流しても楽しめる」語り口はポップスとして理想的と言えるもので、続けて3回聴き通してもモタレない不思議な聴き味の良さに大きく貢献していると思います。あらゆる面において驚異的な構造を持った作品です。
 
そして忘れてはならないのが、3776に残った唯一のメンバーであるアイドル「井出ちよの」の素晴らしいパフォーマンスでしょう。「普通のアイドルならこうする」という定石的パフォーマンスを微妙に意識しながらも概ね無視したような歌い回しは、人を食ったようなふてぶてしさがありながらも決して小賢しくならない奇妙な存在感を持っています。親しみ深い感じを発しながらも客に決して媚びることのない独特の雰囲気もあわせ、音楽全体に非常に個性的な深みを加えているのです。先に書いた「チャクラ(小川美潮)とFKA Twigsの間にあるような音楽」という印象も、この井出ちよののキャラクタから来た部分がかなりある気がします。あどけなさよりも老成した感じがあり、それでいて“頭が固い”様子がなく、飄々とした“天然”の嫌味ない図々しさにも満ちている。巧みに声色を使い分けて豊かな表情を描き出しながらも、あざとくわざとらしい印象が生まれない。というような、単に「芸達者」と言って片付けられない得難いキャラクタは、「将来確実に大人物になる」と思わせる“何か”があります。
先述のような高度で個性的な音楽に放り込まれてもそれと同等以上に渡り合う存在感が素晴らしく、この人材があってこそ(そしてそれをプロデューサー石田彰がここまで活かせたからこそ)こうしたアルバムができたのだ、ということなのかもしれません。音楽もボーカルも「一般的なアイドルを意識しながらそこから自然に逸脱してしまう」個性を持っているからこそこんな作品が生まれてしまった、と言うこともできそうです。
 
以上のように、『3776を聴かない理由があるとすれば』は、「プロデューサーがやりたい放題やる場としてのアイドルポップス」そして「それに負けない主役としてのアイドル」という(ここ数年でかなり多くなってきた)組み合わせが、そうしたスタイルを自分で求めながらも知らず知らずのうちにはみ出てしまう個性的な逸材たちによって達成されてしまった、突然変異的な大傑作なのだと言えるのです。各所で注目されているのも当然の内容なので、機会があればぜひ聴いてみることをお勧めします。
 
 
 
第8位:Kendrick Lamar『To Pimp A Butterfly』
 

 

トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

  • アーティスト: ケンドリック・ラマー,ジェイムズ・フォンテレロイ,ラプソディー,ジョージ・クリントン,ビラル,ロナルド・アイズレー,K.ダックワーズ,D.パーキンス,マシュー・サミュエルズ,T.マーティン,C.スミス
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2015/05/20
  • メディア: CD
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2015年グラミー賞の「最優秀ラップ楽曲」「最優秀ラップパフォーマンス」部門を受賞し、名実ともに現在のヒップホップシーンを代表するラッパー・Kendrick Lamarの3rdアルバムです。これは本当に驚異的な傑作で、歌詞云々を無視して作編曲と演奏〜アンサンブルだけをみても、あらゆるジャンルの代表的な名盤に勝るとも劣らない圧倒的な格があります。ヒップホップ(〜ブラックミュージック一般)に偏見や抵抗感のある人にこそ聴いてほしい作品です。
 
本作においては、たとえばFLYING LOTUSの『You're Dead!』(Kendrickも客演)で聴けるような、初期SOFT MACHINEや電化マイルス(Miles Davisのエレクトリック楽器導入期)〜初期WEATHER REPORTなどに通じる、60年代末から70年代初頭にかけてのジャズやプログレッシヴロックを意識した音進行が、独自のやり方で柔らかく解きほぐされ、引っ掛かりと滑らかな浸透性を両立した、非常に魅力的なものに仕上げられています。Lil LouisやMOODYMANNのような(上記のジャズからトロピカルなフュージョンに繋がっていくあたりの音遣い感覚を活かした)薫り高いハウスを連想させるパートもあり、ゆったりした流れを保ちながら檄を飛ばし続けるバランス感覚は驚異的です。79分の収録時間を全くダレさせない、程よい緊張感を保った居心地の良さがあり、戦闘的でスムースな雰囲気にどこまでも快適に浸ることができるのです。複雑でしかも効果的なリズムアイデアも素晴らしく、それをかたちにする演奏〜アンサンブルも、“訛り”“揺らぎ”を巧みにコントロールする見事なものばかり。そしてそれをのりこなすKendrickのラップは最高で、歌詞を一切聴き取れなくても楽しめるどこまでも“音楽的”なフレージングは音楽全体の顔として完璧です。
このアルバムは、アメリカの社会問題(昨年7・8月に起きた白人警官による黒人暴行事件ほか)に反応した濃密な歌詞世界も勿論すごいのですが、そんなものを一切聴き取れなくても楽しめる圧倒的な音楽的クオリティがあって、ヒップホップやファンク(特に、James Brownのワンコード・ファンクに連なるモノトーンの音進行)に抵抗のある人も、驚くほどすんなり惹き込まれてしまえる作品になっていると思います。ジャズやプログレッシヴロックのファンにもぜひ聴いてみてほしい、最高の「ブラックミュージック入門篇」と言える傑作です。
 
たとえば先に挙げたFLYING LOTUS『Until The Quiet Comes』のライナーノートでは、「最近はGENTLE GIANT、SOFT MACHINEの『Volume Two』、CANなどを聴いている。良いものなら何だって聴く。」という発言が紹介されています。そもそも「ロック(白人音楽)はブルースなどの黒人音楽のパクリだ」というよく言われる話と同じくらい黒人音楽も白人音楽からの影響を受けているのですが
Miles DavisやSly Stone、P-FUNK、PRINCEなどの時代からそういう傾向がありましたし、KRAFTWERKYMOに連なるジャーマンロック〜ニューウェーブテクノポップのラインが土台の一翼を担っているヒップホップなどは良い例です)、ここ数年、上記のような(ビートの効いたものに限らない)高度な白人音楽を掘り下げ自分達のものにしてしまう、という黒人音楽からの動きが、どんどん面白い結果を出すようになってきている感があります。Kendrick Lamarの3rdアルバムはその最大の好例と言える作品で、あらゆるジャンルのファンが(流行り云々関係なく)聴いてみるべき大傑作なのだと思います。
 
こうしたこともあってか、本作は各所の「年間ベストアルバム」記事で第1位を取ることが最も多い作品になりました。音楽的に極めてクオリティが高く、ブラックミュージックのコアなファンからも普段ロックなどしか聴かない人からも抵抗なく惚れ込めるものになっていることに加え、緻密に作り込まれた歌詞世界も非常に強力で、“文学的”“社会的”に優れた(≒わかりやすく高尚な)ものを一段高く見る層からも好まれる要素が多い。つまり、どのようなポジションからみても「安心して持ち上げられる」作品になっているわけで、2015年に最も注目されるアルバムになったのは当然の成り行きなのでしょう。しかしもちろん、先に述べたように“本当の意味で優れた”作品であり、個人的には、実力に見合った評価をされている大傑作なのだと思います。ハイプ的な扱いをされている場面も少なからずあるでしょうが、そんなことを気にせず聴いてみてほしいアルバムです。
 
なお、本作の国内盤には、膨大な歌詞(輸入盤には掲載されていない・ブックレット16ページ分)、そして「どのパートを誰が歌っているか」の詳しいクレジットが、丁寧な日本語訳(ブックレット20ページ分)とともに完全掲載されていて、作品を理解するための大きな助けになってくれます。これは大変な労作。買うならこちらの方が遥かにお得です。
 
 
 
第7位:ゆるめるモ! 『YOU ARE THE WORLD』
 

 

YOU ARE THE WORLD

YOU ARE THE WORLD

 

 

 
自称「脱力系ニューウェイヴ・アイドル」の2ndフルアルバム。作編曲、サウンドプロダクション、バックトラックやバンドの演奏、そしてボーカルの稀有な歌唱表現力など、全ての面において優れた作品です。アイドルやJ-POPのファンはもちろん、60年代末〜70年代前半の“本物”のサイケデリック音楽(名ディスクガイドの誉れ高い『レコード・コレクターズ 2002年7月号 サイケデリック・サウンズ特集』で扱われているようなもの)を好む方などにも聴いてほしい、不世出の大傑作。強くお薦めしたいアルバムです。
 
「“君がいない世界は世界じゃない”をコンセプトに、ニューウェイヴに加え、ドリルンベース、ハード・ミニマルテクノ、80年代ポップ、トロピカル・パンク、オルタナハードコア・パンク、エレクトロなど、なんでもありの17曲を収録」と喧伝される本作の音楽性については、プロデューサー田家大知のインタビュー
に非常に詳しいので、具体的な説明や種明かしに関してはそちらに譲ります。
ここでは、そうした楽曲の凄さよりも、ゆるめるモ!メンバーの音楽的な表現力の得難さについて、簡単に記しておきたいと思います。
 
ゆるめるモ!の音楽について考えるとき、個人的にまず思い浮かぶのは、アメリカ・イリノイ州出身の偉大なるアシッドフォークミュージシャン、ピーター・アイヴァース(Peter Ivers)です。
ブルースやフォークなどを独自のセンスで混ぜ合わせ、“自分では普通にやっているはずなのに何か変なものができてしまう”というようなナチュラルな畸形音楽を生み出していた彼の作品には、
「世間の“普通”に馴染めない苛立ちを常に漂わせつつ、そういう自分を特に悲観せず受け入れ、くよくよせず生きている」
「ヒリヒリした焦燥感と深い落ち着きが何の違和感もなく自然に両立されている」
というような、独特の得難い力加減があります。個人的には、ゆるめるモ!のメンバーの佇まいやボーカルにも、それに通じる(その上で微妙に異なる)深い味わいが感じられるのです。
 
これに関連して挙げたいのが、今年の3/28に新宿PIT INNで行われた「JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段」です。
これは、日本を代表するノイズバンド「非常階段」とそちら方面と深い交流を持つ超絶サックス奏者・坂田明らによる「JAZZ非常階段」に、ゆるめるモ!のメンバー(この時は4人)が加わって演奏する、というイベントで、始まるまでは、前年の4/22に同会場で行われた「JAZZ非常階段+JAZZBiS階段」(BiSメンバーのうち2名が参加)の素晴らしい成果に味をしめた二番煎じのような企画と思われていました。しかし、これが想像を遥かに上回る極上の内容で、JAZZBiS階段以上の優れた音楽的相性と、ゆるめるモ!メンバーの持つ優れた表現力が、実にわかりやすいかたちで示されていたのです。
 
JAZZBiS階段では、ベテラン揃いのJAZZ非常階段メンバー(非常階段の4人・坂田明大友良英)の「“効率の良いやり方”を知り尽くしているために微妙に型にはまってしまうこともなくはない」演奏を、BiSメンバー(ファーストサマーウイカヒラノノゾミ:それぞれ絶叫&ドラムス・ノイズ卓を演奏)の「定石を知らないからこそ出てくる新鮮な発想」、そして「過度な自己主張をしようとしない“節度ある”姿勢」が絶妙に刺激し、互いに探りあいながら微妙な緊張感を生んでいく雰囲気も含め、素晴らしい音楽的成果を生んでいました。
これに対しJAZZめるモ!階段では、そうした探りあい感が全くなく、様々な組み合わせで入れ替わり立ち替り行われていくセット全体が、ゆるめるモ!特有の脱力感に引き寄せられ、自然に溶かしほぐされ一体化していたのです。自分は後にも先にもこんなに気取りのないノイズを聴いたことはありません。“柔らかい爆音の法悦境”という趣さえありました。
「JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段」は、たとえば〈美川俊治(非常階段・インキャパシタンツ)+ようなぴ(ゆるめるモ!)〉の純粋ノイズセッション(帯域の分担と自然な構成力が抜群に見事でした)など、計14種類の組み合わせがどれも非常に充実した内容だったのですが、その中でも特に素晴らしかったのが、アンコールで行われた全員セッション「解体的交歓3」でした。阿部薫高柳昌行らによる日本のフリージャズの名演「解体的交感」に敬意を表したタイトルのもと行われたこのセッションは、一見すると行き当たりばったりのダラダラした展開に見えなくもないものだったのですが、そこにはノイズというもの一般にありがちな「狂気(の演出)」や「切迫感」というものが微塵もなく、肩肘張らない脱力感が全体を自然に支配しており、独特の力加減を保ちながら終始“緊張感を保ちつつ深く落ち着く”ものになっていたのです。自分から仕掛けようとしないモ!メンバーに対しJOJO広重さん(非常階段のリーダーにしてこの企画の主催者)が優しく煽りかける場面も多かったのですが(ギターの弦を触らせたり目の前で手をヒラヒラさせたり)、そうやって面倒を見ているようでいて、その実モ!メンバーのペースに取り込まれているという感じがありました。
 
JAZZBiS階段が「尖ったノイズに水気を加えて少し溶かした」ものだったとすれば、JAZZめるモ!階段は「完全に煮込まれ溶かされた」という感じがありました。既に積極的に共演を重ね、あらかじめ息を合わせた上でのこの企画だったというのもありましたが、それにしてもこの「解体的交歓」は、ゆるめるモ!の持ち味の凄さ、そして非常階段メンバーとの相性の良さをつくづく実感させられる素晴らしい演奏になっていたと思います。なにしろ、「どこにも向かおうとしていないのに、他の誰にも辿り着けないところに確実に突き進んでいる」というような圧倒的な説得力があるのです。最後の“なんとなくハケていく”ところでも無理矢理感が全くなく、これがあるべき終わり方なんだという納得が得られる。これも、先述のピーター・アイヴァースのような「ヒリヒリした焦燥感と深い落ち着きが何の違和感もなく自然に両立されている」感じを柔らかくしたような、ゆるめるモ!メンバーにしか出せない味わいがあったからこそ可能になった演奏なのだと思います。そういう得難い雰囲気・人間性が非常にわかりやすいかたちで示されていた、本当に素晴らしいライヴでした。
(補足すると、JOJO広重さんもご自身のブログhttp://www.kt.rim.or.jp/~jojo_h/ar/p_culmn/kokoronouta/jojo13.htmlピーター・アイヴァースに対する思い入れを表明しています。こうした点でも両者に通じるところはあったのではないかと思います。
なお、先の「ゆるめるモ!ピーター・アイヴァースには通じる感覚がある」という印象に関しては、
のように広重さんご自身に同意して頂けました。)
 
ゆるめるモ!メンバーのこのような味わいは、ライヴで動いている姿を観たりしなくても、歌声を聴くだけではっきり感じ取ることができます。ゆるめるモ!というと(はじめに挙げたインタビューなどでも示されているように)作編曲など音楽性の凄さ面白さばかりが語られがちですが、このメンバーのボーカルがなければこの味は絶対に出ないわけで、個人的にはむしろこちらの方が得難いのではないかと思えます。
そして、そういう観点を得た上でゆるめるモ!の音楽を聴くと、高度で豊かなポップス(“普通”の視点を持つ大人だからこそ作れるもの)を本物のサイケミュージシャンが乗りこなす、まことに稀有なバランスを持つ音楽だということが伝わってくるのです。楽曲の構造だけ見ると割とストレートに泣きを入れてくる場所も多いのですが、その楽曲もそこにのる歌詞も安易な“泣き落とし”に流れない素晴らしいバランス感覚を持っている上に、それに対し「思い入れを持ちつつ、なりふりかまわずにのめり込むのではなく、一歩引きながらもそっと寄り添う」感じで歌うボーカルに独特の“節度”があるためか、感情が昂り盛り上がる場面でも「暑苦しい」「いやらしい」と感じられることがありません。無理やりゆるくするのではなく、自然に脱力させてしまう。「それとなく感化する」影響力を持ちながら、気負いなく真摯に、静かに潤った声で歌う。他人の曲や歌詞を程よい思い入れを持って歌うことで初めて生まれる絶妙な距離感と、先述のような「緊張感を保ちつつ深く落ち着く」得難い味わいが、本当に素晴らしい深みを生み出しているのです。こんな音楽は他に殆どありません。ぜひ体験してみてほしい、心の底から推せる作品です。
 
ゆるめるモ!のような素晴らしい音楽を聴いていると、いわゆる「アイドル」というものが、「水商売の延長」というような商業的な在り方というよりも、ロックとかパンクとかいうような表現方法としてのスタイル、つまり「比較的意識的に選択するもの」として確立されつつあることを実感します。「アイドルという形式ならどんな音楽性でも受け入れる」客が増えてきたことにより、「アイドル・ポップスという枠内で音楽的にやりたいことをやり尽くす」プロデューサーと、「客に媚びずにストレートな自己表現をし通そうとする」アイドルがともに増えてきて、その両者がうまく組み合わされることにより理想的な音楽的達成がなされるのです。特に「客に媚びない表現」が受け入れられるようになってきたことは大事です。「客に媚びる」というのは「こういうことすれば満足するでしょ」という安易でお決まりなパターンを示して手を抜くということであり、それはつまり「客を舐める」ということに等しいからです。「客に媚びない」姿勢とそこから生まれる「媚びないカワイさ」(誰のためでもない自分のためのものとしてのカワイさ・または結果としてたまたまそうなった自然発生的なカワイさ)を示し、それが当然のように受け入れられるようになってきたことで、「アイドル」というスタイルからしか生まれない、他の一流のものと比べても全く遜色のない優れた表現が、目に見えてたくさん生み出されるようになる。ゆるめるモ!はそうしたシーンが生み出した最大の成功例のひとつであり、理想的な在り方をしているユニットなのではないかと思います。ぜひこのまま突き進み、素晴らしい作品を生み続けていただきたいと願います。
 
本作『YOU ARE THE WORLD』はトータル74分ほどもある長尺のアルバムなのですが、その構成は実質的には「2〜3枚のミニアルバムを続けて再生している」ような感じのもので、しかもその流れ繋がりが非常に滑らかなので、全編をダレず疲れずに快適に聴き通すことができてしまいます。凄まじい勢いを発する展開が多く、緩急の起伏もわりと多いのに、その並べ方が巧みだからなのか、過剰に“振り回される”感じはなく、余計なことを考えずに浸りきってしまえるのです。特に中盤(7〜12曲目)と終盤(13〜16曲目)の流れは素晴らしく、それら全てを引き受けて盛り上がる最終曲「ONLY YOU」も見事というほかありません。これだけの長さがあるのに“尻上がりに良くなり続ける”ことができている点でも稀有なアルバム。自信を持ってお薦めできる、掛け値なしの大傑作です。
 
 
 
 
第6位:Phew 『ニューワールド』
 

 

ニューワールド

ニューワールド

 

 

 
日本におけるオリジナル・パンク・ロッカーの一人であり、坂本龍一やCANメンバーなどとの共演でも知られるPhewが、2年ほど前から続けてきた“エレクトロニクス弾き語り”の成果をまとめたアルバムです。これが驚異的な作品で、昨年発表された3枚の傑作CD-Rで試みられていた電子音響が、コンパクトに洗練された“歌モノ”スタイルに落とし込まれ、奇怪なアイデアをとても聴きやすく味わうことができるようになっています。こうしたジャンルに馴染みのない人にこそ聴いてみてほしい、アヴァンギャルド・ポップスの大傑作です。
 
電子音楽はずっと好きだったけど、自分でやると考えたことはなかった」というPhewさんがこのスタイルをとることになったのは、2011年の春にヴィンテージなリズムボックス(Whippany社の「Rhythm Master」)を安く手に入れたことがきっかけだったようです。
(発言内容はele-kingのインタビューhttp://www.ele-king.net/interviews/004902/と『ミュージック・マガジン 2016年1月号』から引用:以下同様)
「80年代の音は嫌いだけど、60〜70年代のリズムボックスの音は大好きだった。それを実際に手に入れたことが大きかった」
「歌がそのときの体調によって声が変わるように、アナログシンセは場所や天候などによって毎回音が変わり、思った通りの音が出てくれないのが面白い。また、アナログの機材は自分の指先から繋がっている感じがあって、身体と直結している音を自由にできる、ダンスみたいな感覚がある」
というふうに2013年から「アナログ機材+歌」形式のライヴを始めたPhewさんは、その流れで3枚のCD-R作品『Phew 1』『Phew 2』『Phew 3』
(それぞれ約24分・31分・21分)を作り、2014年に発表します。「シンセサイザーでこんな音が出ちゃったっていうくらいの、メモみたいなもの」というこの作品群は、明快なメロディ/フレーズや定型ビートといったものが少ないアンビエント〜インダストリアル寄りの作風なのですが、音色を選び組み合わせる“響きの感覚”や、それを長いスパンで並べ構成していく“時間感覚”が非常に優れているためか、抽象的で掴み所のない展開ばかりなのに全くダレずに聴き浸ってしまうことができます。本作『ニューワールド』は、そのCD-R作品でなされた様々な試行錯誤を活かしつつ(アイデアそのものに直接的な繋がりはないようですが)、著しく洗練された“歌モノ”のスタイルに磨き上げたアルバムで、先に述べたような“響きの感覚”や“時間感覚”を非常に快適に味わえるようになっています。
 
音楽一般を語るときに割とよく言われる話として、「音楽の三要素はメロディ・リズム・ハーモニーである」というものがあります。メロディ(音程の並び)とリズム(一定の長さを持つ音の並び)がハーモニー(複数の音程が干渉することによって生まれる和声)を伴い繋がっていくことで音楽の構造が成り立つ、という話です。しかし、これはあくまで譜面上(「楽譜に記された記号で構造を把握する」西洋音楽的な考え方)での話であって、実際に音を出して表現されるものとしての音楽について言えば、その「三要素」よりもまず先に“響き”というものがあります。声や楽器が出す音の音色(音響構成)こそが音楽の肉質を決めるものであり、メロディやリズム、ハーモニーが全くなかったとしても、音色の変化やその構成が巧みであれば、ある種の考えや論理を提示する表現としての音楽は立派に成り立つのです。
(逆に言えば、メロディやリズム、ハーモニーの構造がいかに強固だったとしても、響きの使い分けができなければ、音楽の表現力は貧弱になってしまいます。)
こうした考え方を突き詰めてかたちにしているのがいわゆるノイズ・ミュージックです。MERZBOWや非常階段などの音源・ライヴでは、はっきりしたメロディも決まったテンポもない音色の数々が不規則に垂れ流されていくのですが、そうした「三要素」を一切気にせず音響や音量の推移に注目していくと、明晰で表情豊かな“力加減の表現”がなされていることが見えてきます。こうしたスタイルは先の「三要素」を意識的に排除した上で奥深い表現力を生み出そうとするもので、「三要素」があることによってどうしても生まれてしまう情緒的な印象を避けつつ、響きそのものの滋味や快感に直接アプローチすることができるやり方なのだと言えます。先に挙げたPhewのCD-R作品群も、そうしたノイズミュージックほど徹底して「三要素」を排除してはいないものの、アナログ機材の豊かで個性的な響きをいかに扱い“力加減”を描き分けていくか、ということに主な力点が置かれていると思われます。そしてそれが非常に優れた成果を生んでいるのです。
 
そのようなCD-R作品群を経て製作された本作『ニューワールド』は、先述のようなスタイルに慣れていない状態で聴くと少々とっつきにくい印象のある作品なのですが、抽象的な展開が殆どを占めていたCD-R作品群と比べて聴くと「非常にわかりやすい構成がなされている」ことがすぐにわかるアルバムになっています。音進行や音響は一般的に馴染みの薄い奇怪なものばかりなのですが、明確な「三要素」を伴うフレーズは非常に印象的なものばかりで、しかもそれらがとても上手く描き分けられ、絶妙のバランスのもとうまく対比されているのです。
「サウンド・デザインをDOWSERの長嶌寛幸さんにお願いしたのがすごく大きいと思います。私がメモ代わりに録音した、わけのわからない混沌とした塊を、聴きやすく整理できたのは彼のお陰です。あらかじめ曲の構成を考えて、好きなようにどんどん録っていった音源を長嶌さんに渡して、編集とミックスをやってもらう」
というふうにして作られた本作は、Phewさんの卓越した“響きの感覚”で選ばれた極上の音色の数々が、それこそコニー・プランクばりの完璧なサウンドプロダクションのもとまとめられた仕上がりになっています。一つ一つの音色が非常に良い上に、それらが干渉して生み出される“響きのハーモニー”が驚異的に素晴らしく、理屈抜きに体に訴えかけてくる音響的快感があるのです。ヴィンテージ・エレクトロニクスの楽しさを最高の形で示してくれる音楽であり、生理的な機能性だけをみても極めて優れた作品です。
そして、そうした音響的快感に惹きつけられて繰り返し聴いていくうちに、奇怪なフレーズの数々がどのように機能しているかということも体で掴めてきて、各曲の“論理的に明晰”と言っていいような優れた構成が見えてくるのです。一見すると敷居が高そうに思えるけれども、構成は非常に洗練されていて聴きやすく、独特の味わいに対応する“回路”が、何度も聴き返すうちにすぐに形成されていく。こうしたスタイルに馴染みのない聴き手を引きずり込み同時に“教育”していく感染力が凄まじく、こうした語り口の上手さや機能性は、ポップ・ミュージックとして理想的なものなのではないかと思います。
 
 音楽性(Phewさんご自身は「パンク電子ロック音楽」と形容)を他の何かに喩えるなら、たとえば
「THE POP MUSICやEP-4のようなニューウェーブ〜ポストパンクの“コンクリート・ジャングル”感をDREXCIYAのような深海エレクトロと混ぜ、LIAISON DANGEREUSESのようなスタイルに落とし込んだ」
と言えなくもない感じはあるのですが、そうしたものに通じるところがありながらも、フレーズやコード感などの音遣いも、リズム〜グルーヴ処理も、個性的に洗練された独自の構造を勝ち得ています。何かの安易な猿真似にはならず、他のどんなものとも並べて語れるものでもない。そうしたこともあってか、他の音楽を聴くことによって身についた“音楽の聴き方”が通用しない部分も多く、「この作品そのものを繰り返し聴くことで“聴き方”を身につける必要がある」ようなところもあるのですが、この作品の場合、その「固有の“聴き方”を身につけさせる力」が非常に優れているため、何度か聴き返すうちに急速になじんでしまうことができます。自分の道を突き進み日和らずやりたいことをやり尽くした上で、できるだけ分かりやすく咀嚼しやすい形に解きほぐしまとめあげるという「他人に理解させようとする」意志があり、それが素晴らしい仕上がりに結びついている。あらゆる面で充実した、アヴァンギャルド・ポップスの大傑作です。
 
なお、このアルバム、一聴した時点では「怖がらせようとしていないのに強烈に怖い」印象を抱かされてしまうような暗い雰囲気があるのですが
「こ、これは怖い。音楽を聴いてここまで恐怖を感じるのもそうない。死ぬ間際に流れる音楽はこんな感じじゃなかろうか」と言っています)、
繰り返し聴いていくと、第一印象で強く残るそうした暗さ恐ろしさは一面にすぎないものなのだとわかります。先述のCD-R作品群は確かにこのような暗く危険な雰囲気が主になっているのですが、それと比べると本作の雰囲気はだいぶ落ち着いていて、けっこう分かりやすく“カマし”を入れてくる外連味ある展開などもあってか、強面なだけでない、お茶目で可愛らしい側面もあるということがちゃんと伝わってくるのです。淡々としているのに非常に不穏で、“薄暗がりに得体の知れないものが静かに潜んでいる”感じがあるのですが、これは聴き手を怖がらせるためのポーズというよりむしろ“自然な佇まい”なのでしょう。光の殆ど差し込まない深海から出発し、静謐でゆったりした緊張感に身を浸しつつ、無理せずゆったり浮かび上がっていく感じ。「浜辺の歌」(有名な唱歌のカバーですが“これしかない”というくらい上手く収まっています)で締めるアルバムの構成も、そうした印象に大きく貢献しています。音楽そのものの驚異的な強度だけでなく、このような唯一無二の雰囲気・人間的深みがはっきり伝わってくるという点でも、得難く優れた傑作なのだと言えます。
 
Phewさんの(オリジナルアルバムとしては実に20年振りとなる)ソロ新譜『ニューワールド』は、以上のように、「第一印象のインパクト」「聴き込むことで得られる旨み」の双方において傑出した、個性的で聴きやすいポップ・ミュージックの大傑作になっています。単純に“身体が悦ぶ”音響的快感だけみても相当のものですし、「誰かに見せるためでなく何より“自分のために”トガッている」在り方を親しみやすく示してくれているという点でも稀にみる作品です。こうしたスタイルに馴染みのない方にも強くお薦めしたい、とてもカッコいい音楽です。
 
 
 
 
 
 
 
 
第5位:DHG(DØDHEIMSGARD)『A Umbra Omega』
 

 

A Umbra Omega

A Umbra Omega

 

 

 
ノルウェーブラックメタルシーンを代表する奇才Vicotnik(ex. VED BUENS ENDE・〈CODE〉)のリーダーバンド。8年ぶりの新譜です。いわゆるアヴァンギャルドブラックメタルのシーンが生み出した一つの到達点と言えるアルバムで、万人にお薦めできるものではありませんが、変なものが好きな方にはぜひ聴いてみてほしい大傑作です。
 
DØDHEIMSGARD('94年結成)は作品ごとに大きな方向転換を繰り返してきたバンドです。
初期はDARKTHRONEに通じるプリミティブ・ブラックメタル(1st・'95年)やBATHORYなどを意識したと思しき荒々しいブラック・スラッシュ(2nd・'96年)といった(当時のシーンからすれば)割とオーソドックスなスタイルをとっていたのですが(その中で強力な個性を示していました)、シンフォニック爆走ブラックメタルの名作とされるEP『Satanic Art』('98年)の翌年に発表した3rd『666 International』で一気に奇怪な音楽性を確立することになりました。
この作品にはCarl-Michael Eide(別名Czral:VIRUS / ex. VED BUENS ENDE)やSvein Egil Hatlevik(別名Zweizz:FLEURETY)といったノルウェー・シーンを代表する天才奇才が大集合しており、ブラックメタル特有の音遣い感覚をインダストリアル(非メタル含む)要素などでミュータント化したような個性的な仕上がりに貢献しています。
(VicotnikはSveinとのデュオAPHRODISIACでインダストリアル〜ノイズ的な作品を発表しています。)
そうしたメンバーが(おクスリの助けを借りたりもしつつ)創意を尽くした同作は、アヴァンギャルドブラックメタルを代表する名盤(迷盤)であり、ボーカルAldrahnの脱力感溢れる不思議な歌い回しも含め、他の何かでは替えのきかない味を持つ作品です。
この8年後に発表された4th『Supervillain Outcast』('07年)は、3rdのスタイルを引き継ぎつつ様々なアイデアを試す短めのトラック(15曲)の集合体になっており、音遣いの熟成度やサウンドプロダクションの出来は前作を上回っているのですが、アルバム全体の流れまとまりという点では少しパッとせず(前作はその点完璧だった)、今ひとつ冴えない印象を持つ作品になってしまっていました。そうしたこともあってか、バンドは本格的な活動を停止。Vicotnikは、イギリスのブラックメタル風バンド〈CODE〉(これも非常に個性的で強力なバンドです)への参加('02〜'10年)など、他での活動を主としていくことになったのでした。
 
本作はそうした流れを経たVicotnikが久しぶりに発表した作品であり、その個性的な音楽性が最も良いかたちで示された大傑作です。『666 International』をVED BUENS ENDEやVIRUSの音遣い感覚で強化したようなスタイルなのですが、そこにはVIRUS(というかCarl-Michael)の音楽に常につきまとうKING CRIMSON〜VOIVOD的な要素が一切なく、VED BUENS ENDEのクラシック〜現代音楽成分を最高度に熟成させた感じの仕上がりになっているのです。収録曲は(冒頭の1分ほどのイントロ曲を除き)全て10〜15分の長尺(×5)で占められており、その長さを全くダレさせず快適に浸らせる構成が実に見事。奇怪に入り組んだ世界観を直観的に理解させ惹き込んでしまう力に満ちています。『666 International』では完全にはこなれていなかった感のあるAldrahnのボーカル(Vicotnikによれば「独自の解釈力では比肩する者のいない凄いシンガーで、ノルウェー・シーンを代表する一人」とのこと)も、曲に完璧に合った素晴らしい表現力を発揮しており、音楽全体の説得力を大きく高めています。こうしたスタイルの音楽に慣れていない方がいきなり聴いた場合は取っつき辛く思えるかもしれませんが、VED BUENS ENDEやVIRUS、〈CODE〉などに少しでも惹かれるもののある方はぜひ聴いてみてほしい大傑作です。
 
このアルバム、現時点では(そもそも知名度が低いことに加え、聴いた方からも)あまり芳しい評価を得られていないようなのですが、個人的には今まで聴いてきたあらゆるブラックメタル関連作品の中で最も好きな一枚ですし、作品の深み・それを伝える巧みな語り口という点でも、ジャンルを問わず最高級の傑作なのではないかと思います。できれば広く評価されてほしいアルバムです。
 
《参考》ここで出てきた各バンドについてはこちら
で詳述しています。よろしければ併せてご参照ください。
 
 
 
第4位:鈴木慶一 『Records and Memories』
 

 

Records and Memories

Records and Memories

 

 

 
日本を代表するロックバンド・ムーンライダーズのリーダーであり、はちみつぱいTHE BEATNIKS、Controversial Spark、No Lie-Senseなど、様々なバンド/ユニットで高度かつ個性的なポップミュージックを作り続ける名ミュージシャン・鈴木慶一。音楽活動45年周年という節目に生み出した、実質的には初の完全単独プロデュースとなるソロアルバムです。これが本当に素晴らしい作品で、微妙な異物感を伴いながら滑らかに進行する聴き味は他に類を見ません。非常に聴きやすく、繰り返し聴くほどになじんでいき、さりげなく染み入る個性的な味わいに離れがたく惹き込まれていく。どれだけ聴いても聴き減らない、奇妙で快適なポップミュージックの大傑作です。
 
「“『SUZUKI白書』から24年ぶり”と謳っていますが、実は完全にセルフプロデュースしたといえるのはこのアルバムが初めてかもしれない」
「結局はバンド体質なんだもん。だから集団でものをつくっていくのが好きなんだ。」
という本作では、意識的に“誤解”“偶然”を生み出すための工夫がなされていたようです。
 
「誤解の面白さってのは絶対あるんだよね。バンドやってると、こちらが口で言ったことをメンバーが誤解して違うフレーズを弾いたりする。それが面白い。でもソロの場合は、その誤解を自分で作らなきゃいけない。「無垢と漠漣、チンケとお洒落」の“漠漣(ばくれん)”なんて、歌詞をキーボードで打ち間違えて出てきたの。見事に変換してくれるからね。だって、何か打ち込まないとそれは表れてこないじゃない?頭の中で考えていても、そんな誤変換は生まれにくい。言語検索して歌詞を作っていくのはBEATNIKSの『M.R.I.』(2001年)ぐらいから始めたんだけど、今は目の劣化で打ち間違いがあるから、さらに発展性がある(笑)。老化、劣化を逆手にとってだね(笑)。」
鈴木慶一45周年記念ライヴ(2015.12.20)で販売されたパンフレット掲載のインタビューから引用)
 
「ギターが予想もつかない形で入ってきたり、ドラムが予想もつかないものになったりするのがバンドのおもしろさであり、大変なところでもある。人によっては自分でアレンジしたそのままのパターンを生に置き換える人もいるけど、私は偶然がおもしろけりゃいいと思っている。ソロでは偶然を生み出しにくいんですが、いちばん生み出せるのは歌詞を作るときかな。キーボードのBとNとMをまちがえる。OとPをまちがえる。それでちがう文字が出てくる。あれ。これおもしろい文字になったなと。それで調べていって、丸ビルハート団が出てきたりするわけだ」
(『ミュージック・マガジン 2016年1月号』掲載のインタビューから引用)
 
「(“シナトラ”という仮題がついていた「My Ways」について)私はあんなギターを普通は弾かないからね。これはAORな音にしようと。これを作ったときの裏話があって、これはディランの新譜のスタンダード・カヴァー集(註:フランク・シナトラの曲のみからなるカバーアルバム)を小さい音で聴きながら、別の曲を作るというやり方なの(笑)。なかなかいいんですよ。隣でビートルズが聴こえているとき曲を作ったことがかつてあったけど、何なのか忘れちゃった。これは確実に、確信犯的にディランの新譜を小さくかけながら、キーボードで作っています。そっちを小さい音量でかけているから、こっちはもう少し大きな音量で弾いているんだよね。つまり情報が分断する。ディランも分断されるわけ。それで誤解して曲を作る。」
ele-kingのインタビューから引用)
 
バンドと違って全てを一人でコントロールできるソロ活動では、ともすれば“意外性”のない(作り手自身からすれば)無難でつまらないものに落ち着いてしまう可能性があります。特に、慶一さんのような「一歩引いた裏方的ポジションから実力をふるう」タイプ(45周年記念ライヴで披露された9通りのバンド/デュオ編成でもそれがよく示されていました)はこうしたことを好まないようで、上に引用したような“誤解”“偶然”を積極的に生み出す工夫を重ね、本作を構築していったとのことです。
 
そうして生まれた本作では、非常に滑らかな聴き味と微妙な異物感が絶妙に両立されています。フレーズ〜コード、リズム、歌詞など、曲を構成する要素はどれも“正統的”と言っていいくらいすっきり解きほぐされた進行感を持っているのですが、仄かな違和感を醸し出す微細な“躓き”が随所に仕込まれていて、「何も考えずに呑み込んでしまえるけれどもどこか気になるものが残る」ようになっているのです。こうした音楽性を雑にまとめるなら「THE BANDとCAMBERWELL NOWを混ぜて大正歌謡に寄せた」という感じでしょうか。イギリス(〜ヨーロッパ)音楽とアメリカ音楽の音遣い感覚がとろとろに煮込まれ溶かし合わされて、それが日本の歌謡曲などにしか出せない味付けのもと仕上げられている。クラシカルで程よくブルージーな“引っ掛かり”を持つ洗練された作編曲をもとに、微妙にささくれ立ったインダストリアルノイズなどを自然に絡めることで、「スムースなミルクに細かいガラスの破片が混ぜ合わされている」ような口当たりが生まれているのです。これは歌詞についても言えることで、先に引用した「誤変換や検察ワードから予想外の言葉を選んでいく」手法により「意味がちゃんと通っているのにどこか変」な印象が出来ています。整った理性を伺わせながらも奇妙にねじれている作風は、一見無害そうな装いをしているし実際あからさまな悪意を持っていなさそうなものではあるのですが、その実とても危険で蠱惑的な表現力に満ちています。言うなれば「一般常識に精通したアウトサイダー・アート」。こんなものは滅多にありません。“普通”の音楽が好きな人にも変なものが好きな人にもお薦めできる、奇妙なポップミュージックの大傑作です。
 
このような音楽性は、45年の活動を通しその時々の“最新の音楽”を貪欲に吸収し続ける慶一さんの“枯れない”センスがあってこそ生まれたものでもあるのでしょう。
たとえば、この「鈴木慶一のお気に入り音源10選」(2015.12.11の記事)
では、ボブ・ディランTHE BEATLESと並び、フロ・モリッシー、青葉市子、DENGUE FEVER、タイヨンダイ・ブラクストンとBATTLES、ダニエル・クオン、本日休演、アクセル・クリヒエールなど、現在のシーンを引っ張る実力者ばかりが挙げられています。
また、この45周年記念ライヴレポート
でも触れられているように、森は生きている(今年解散)やOGRE YOU ASSHOLEなどのライヴにも積極的に足を運び、初期のceroをプロデュースしたりカメラ=万年筆やスカートのメンバーと作品を作ったりするなど(そういえば昨年5月に行われたNo Lie -Sense単独公演のゲストはアーバンギャルドでした)、若手のミュージシャンと積極的に共演を重ね、常に新しい滋味を吸収して自身の音楽性に反映させる姿勢が貫かれているのです。こうした姿は、マイルス・デイビスの「俺は若いミュージシャンに教えながら学ぶ。そうやって新しいエネルギーを得るんだ」という在り方に通じるものがあります。
そもそも本作は
「2013年の後半に作ってあったエレクトロニカ的な(あまり歌がない)アルバムをスタッフに聞いてもらったら、歌があったほうがいいと言われたので作り直した」
という経緯で生まれたもののようですし、こうした成り立ちからして「45年のキャリアを持つベテランミュージシャンが手癖で作った」ようなものではないことがわかると思います。そしてそれでいて、若手のミュージシャンにはない膨大な知識と、70年代のはじめからシーンの最前線に接し続けてきた圧倒的な経験値がある。そういうバックグラウンドど“枯れない”センスが活かされた本作は、単に「混沌とした音楽要素を非常に巧みにまとめ上げる構造がすごい」だけでなく、落ち着きと稚気を独特のバランスで併せもつこの人特有の魅力に溢れたものになっています。うかつにイジると恐ろしい目にあいそうな(うそ寒い闇を感じさせる)ひねくれた佇まいと、それでいて底抜けに暖かく、端から見ると気恥ずかしくなるくらい素直な叙情とが、控えめな落ち着きをもって違和感なく両立されている、という感じでしょうか。いわゆるカンタベリー系のアヴァン・ポップに通じる“偏屈な親しみやすさ”が、素晴らしく豊かな音楽性のもと、実に望ましいかたちで描かれているのです。
(この点、No Lie-Senseの大傑作1stやSLAPP HAPPYなどに通じるものも感じられます。)
このような点でも本当に素晴らしく、汲めども尽きせぬ魅力に満ちた作品になっていると思います。
 
などなど、鈴木慶一さんの(実質初めての完全単独プロデュースとなる)新譜『Records and Memories』は、一般的なソロ作品からは生まれない“意外性”と、ソロ作品でしか表現できない統一感を併せ持った、コントロールとエラーを高度に両立したアルバムなのだと言えます。作編曲・演奏・サウンドプロダクション(権藤知彦さんが驚異的に見事な仕事をしています)がどれも極めて素晴らしい仕上がりだということに加え、「派手ではないけれどもこの上なく着心地のいい肌着」「仄かに暖かい宵闇に優しく包まれるような居心地」という趣の聴き味・雰囲気も、他では体験できない滋味に満ちています。一撃で強烈なインパクトを放つわけではないけれども、一聴めからしっかり引っ掛かり、聴くほどに染み込み肌に合い、どんどん離れがたくなっていく。全ての音楽ファンにお薦めしたい、個性的なポップミュージックの大傑作です。
 
なお、本作の録音メンバーは「マージナル・タウン・クライヤーズ」と名付けられ、今後もバンド活動を行っていく予定があるようです。
(慶一さんの「結局はバンド体質なんだもん」という在り方がよく表れている展開だと思います。)
先の45周年記念ライヴでも非常に良いパフォーマンスをしていましたし、本作が気に入った方はぜひ観てみることをお勧めいたします。
 
 
 
第3位:Thighpaulsandra 『The Golden Communion』
 

 

The Golden Communion

The Golden Communion

 

 

 
COIL(インダストリアルミュージックの歴史を代表する蠱惑的なグループ)後期の“音楽面”での支柱であり、ジュリアン・コープSPIRITUALIZEDとの仕事でも知られるマルチミュージシャン、ティム・ルイス(Timothy Lewis:1958.6.19〜)による、実に8年振りの新譜です。CD2枚組(LP3枚組)約2時間に渡り西洋音楽の歴史を総括するような内容で、膨大で奇妙なアイデアの数々が驚異的に優れた構成力によりすっきりまとめ上げられています。「この長さのアルバムとしては史上最高の一つなのではないだろうか」というくらい素晴らしい作品なので、できるだけ広く聴かれてほしいところです。
 
ティム・ルイスは音楽一家の息子として生まれ(祖父は指揮者、母はオペラシンガーだったとのこと)、テレビのない家でクラシック音楽以外を聴くことを禁じられて育ったといいます。
(このあたりのこともあわせて、以下で述べる情報は全てこの2つのインタビュー
に準拠しています。)
両親はコンサート通いにも非常に熱心だったとのことで、カーディフウェールズの首都)大学で開催されたものには作曲家が何であれ頻繁に行っていた模様。ティム少年もそれに連れて行かれていたのですが、そうしたコンサート(ほとんどはモーツァルトブラームス)の中にはルチアーノ・ベリオカールハインツ・シュトックハウゼン、ジョルジ・リゲティのようないわゆる現代音楽寄りのものもありました。両親がそれを(ちゃんと聴き通しながらも)「門がキーキー言うような音楽だ」と吐き捨てていた一方で、ティム少年はわけもわからず惹きつけられていたと言います。「音楽の趣味を押し付ける両親への反抗がまずあったのだろうが、それをきっかけに現代音楽には完全にハマってしまった」ようで、寄宿学校を卒業する頃には膨大なレコードコレクションができていたとのことです。
(「シュトックハウゼンは集められるだけ集めたし、エドガー・ヴァレーズやベリオ、ピエール・シェフェールなどもあった。」)
また、その寄宿学校では、親の目から離れられたのをいいことにポップミュージックを聴きあさっていたのですが、周囲の学生が聴いていたKING CRIMSONの1st('69年発表:その頃は11歳)やジャズをきっかけに、CURVED AIR『Phantatmagoria』(3rd:'72年発表)のような現代音楽寄りのプログレッシヴ・ロックにも惹きつけられていきます。
こうした経緯を経ることにより「シュトックハウゼンからTHE BEACH BOYS、Gina Gまで、ありとあらゆる類のレコードを持っている」というような音楽マニアに育ったティム・ルイスは、現代音楽やアカデミックな電子音楽を入口として、シンセサイザーの演奏・取扱いにものめり込んでいきます。1979年に最初のシンセサイザーRolland SH5で729ポンドしたとのこと)を買ったティムは、精神病棟の看護師としての訓練を受け、実際に勤務を続けていたようですが、それと並行して1983年からはスタジオエンジニア・プロデューサーとしてのキャリアを歩み始めます。1986年から勤めていたLocoスタジオではジュリアン・コープと出会い、優れた音楽的素養を認められて長く協同作業(1993〜2004年)することになりましたし、その後1997年にはSPIRITUALIZEDに加入(〜2008年)。また、その同年にCOILのジョン・バランス(Geff)と出会い意気投合。Geffが2004年に亡くなってCOILが解散するまで、バンドの一員として素晴らしい活躍をしていくことになりました。
 
ティム・ルイスがこのように重宝されるのは、広大な音楽的バックグラウンドと確かな楽理に裏付けられたアレンジ能力、そしてシンセサイザーの(音響操作も含む)扱いに長けた優れた演奏能力によるところが大きいようです。特にCOILでは、細部の作り込みに異常な才能を発揮する“偉大なる音楽の素人”ピーター・クリストファーソン(Sleazy)および、そのSleazyを独特のやり方で誰よりも上手く方向付けできるGeffの2人が得意とする「ミクロの視点」(ティムはこうしたことに絶大な影響を受けたといいます)と、音楽全体の構造や構成を俯瞰的にみてまとめるのを得意とするティムの「マクロの視点」(SleazyとGeffはこうした能力者と一緒に作業したことがなかったようです)は、非常に相性が良かったようで、互いにないものを補完しあう絶妙の組み合わせにより、それ以前にはなかった傑作を生んでいくことになったのでした。
 
そうしたティムの持ち味が全面的に発揮されるのがソロプロジェクトThighpaulsandraなのですが、8年振りに発表されたこの新譜が完成するまでには様々な困難があったようです。同時期になされていたElizabeth FraserやCOCTEAU TWINSとの仕事も遅延の原因になったようですが、それ以上に大きな理由となったのが、Geff(2004年)、Sleazy(2010年)、そして母親の死だったといいます。
実はこのアルバム、2003年から(他の作品と並行して)製作が開始されていて、GeffとSleazyも深く関わっていたようです。「COILのために作られたけれどもCOILの美学にはそぐわないからとりあえず保管しておいた」アイデアも援用して作られた本作は、2008年の時点で一度完成しており、当初は2枚組ではなく1枚モノとして発表される予定でした。しかし、そこにはCOILに非常に近いスタイルの曲が少なからず収録されていて、ティムはそれを良しとしなかったと言います。COILの一員だったことを誇りに思いつつ「COILに限らず自分以外の何者にもなろうとしたくはなく、そのやり方を真似したくはなかった」というティムは、「これはCOILの未発表音源だというようなものを作るのは違うだろう」と考えました。その結果、COILを連想させる曲は全て廃棄し、新たなものを創り付け加えたのでした。
加えて言えば、そうでない曲に関しても大きな改変がなされているようです。たとえば、2枚目の最後を飾る大曲「The More I Know Men, The Better I Like Dogs」は2008年の時点で既に存在していたのですが、「長すぎるからもっと短くすべきだ」と考え実際短くしていくなかで「ここに幾つか付け加えるべきことがあるな」と思い直し、結果として約27分のアルバムバージョンに仕上げられたと言います。
 
アルバムの完成形を想定して製作するようなことはない。計画は一切持たず、聴き手のことも意識せず、自分のやりたいようにやる」というティムが気にするのは、「何か一つのジャンルの基準に照らして適切かということではなく、別々の2つの要素を並べてしっくりくるかということ」のようです。
「音楽を作るときは、2つのアイデアを粉々に砕いて混ぜ合わせ、うまく調和させようとする。それは歌詞についても言える。カットアップ(文字の書かれた紙を実際に切って並べ替える手法)をしたりして、できたものが良かったら写真を撮ってそれを使う」という発言に表れているように、ティム・ルイスの作風は、既存のジャンルを一切意識せずイチから新しい何かを構築していくというよりも、既存のジャンルを強く意識した上で並立し、それらを解体した上で組み合わせるという、形式にとらわれつつそこから脱しようとするものになっています。
「自分はポップミュージックが大好きで、膨大なコレクションも持っている。そして、様々なスタイルを並列させるやり方が好きだ。そういうことを理解していないレビューもあるけれど、本作では、不明瞭なパート(註:ミュージックコンクレート〜ノイズ〜アンビエントな展開をさすのだと思われます)もポップミュージック的なパートも同じくらい作り込まれている。どちらの方がより好きということはない」
という発言どおり、このアルバムでは西洋音楽の歴史が生み出したありとあらゆるスタイル・要素が切り刻まれて組み合わされ、混沌とした奇妙な響きが生まれています。しかし、だからと言ってとっ散らかったわけのわからないものになっているかというとそんなことはなく、2枚組の全体を俯瞰してみると非常に美しい均整がとれていて、マクロの視点からもミクロの視点からも完成させた作品になっていることがわかるのです。一聴した時点ではピンとこないかもしれませんが、何度も聴き返しているうちに“時間の流れ方”や“全体を貫く音遣い感覚”が体でつかめ、深く納得し、心地よく浸りきることができるようになる。個人的には4回続けて聴き通しても(つまり約8時間連続で流していても)負担に感じられません。異常に鮮明に磨き抜かれた音響の快感も含め、あらゆる点で優れた驚異的な傑作と言えるのです。
 
上記のインタビューでは、こうした曲の数々が具体的にどのようにして作られたかも明かされています。
たとえば、1枚目の最後に配置された大曲「The Golden Communion」については、
「まずストリングス・カルテットのパートから作曲した。しかるのち、スタジオに入って全ての電子音楽パートを作った後、ストリングスパートの一部をソフトウェアで変容させ、それを録音した上で、録音テープを切り刻み順番を入れ替えて新たな音源を構築した。その上で、音源をMIDI信号に変換する別のソフトウェアを持ってきて、その信号を使ってシンセサイザーを演奏できるようにした」
「中間部のジャズロック的なセクションは、ミュージック・コンクレートとストリングスからなるこの楽曲の世界では耳当たりの良すぎるものに感じられたから、「自分にとっては必ずしも不快ではないが聴き手にとっては少し不快なものにしたい」と考えた。そうして「展開上まったく予想外でありつつ完全に合うジャンルはなんだろう?」と考えた結果、L.A.風のスムースなフュージョンフェンダー・ローズの無調ソロを乗せるというアイデアが浮かんだ。それに再びミュージック・コンクレートのパートを繋げ、ストリングスセクションのぬかるんだバージョンに突入し終わっていくようにした」
と言っています。
(なお、インタビュアーに「ジャズロックのパートはフランク・ザッパと似ている」と言われたティムは、
「確かにザッパの大ファンで、1978年以降の全ての単独公演を観ている」
「この曲の中で唯一ボーカルが入るジャズロックのパート(20分10秒あたりから)などは、実際“おお、ちょっとザッパみたいだな”と感じた」
と答えています。)
具体的な言及をしていない他の曲も緻密で個性的な作り込みがなされているものばかりで、コード〜フレーズといった譜面的な構造(同一フレーズの反復に頼る場面が少なく殆ど常に変化し続ける)も、いわゆる非楽音(ノイズ)を美しく活かす音響も、聴けば聴くほどその強度と理屈抜きの心地よさに惹き込まれていくのです。
 
などなど、本作『The Golden Communion』は幾らでも小難しい話ができてしまう作品なのですが、その一方で、異常に美しい響きと面白い構造を理屈抜きに楽しんでしまえるものにもなっています。個人的な印象ですが、KING CRIMSON「Starless and Bibleblack」(アルバムでなく曲の方)や『Three of A Perfect Pair』後半のインダストリアルノイズ的な曲調を、優美なクラシック音楽〜現代音楽で鍛え上げ、仄暗く蠱惑的な世界を生み出した、というような趣もあり、そちら方面が好きな方には堪えられない美味なのではないかとも思います。
少々刺激的なアートワークなどもあわせ、決して敷居が低いとは言えない作品ではあるのですが、一度入って慣れてしまえばこれほど没入できるものもありません。アンビエントな音楽がイケる方やプログレッシヴ・ロックのファンなど、気の長さに自信のある方には強くお薦めしたい大傑作です。
 
 
 
 
 
第2位:Jim O'rourke『Simple Songs』
 

 

シンプル・ソングズ

シンプル・ソングズ

 

 

 
ジム・オルークの(単独名義としては)6年振りの新譜にして『Insignificance』('01年発表)以来実に14年振りの歌入りアルバムです。この14年というのは実際に制作にかかった時間のようで、'13年に行われたTime Out Tokyoのインタビュー(http://www.timeout.jp/s/ja/tokyo/feature/7388)には「12年かかってしまった新しい歌のアルバムがもうすぐ完成する」「5曲はすでに録音済みで、でもまだ完成はしていません」という発言があります。その時点でバンドのメンバー(山本達久・石橋英子・須藤俊昭)は既に固まっており、気の合う達人たちと時間を気にせず納得いくものを作りあげてきたのだということが窺い知れます。そうした感じは実際に作品に反映されていて、極めて緻密に作り込まれているのに窮屈にまとめられた印象がなく、同じ部屋の中でそっと寄り添ってくれているような親密さと、ダイナミックに弾け広がっていくようなスケール感とが、無理なく自然に両立されています。
 
その点、全てのパートを一人多重録音で作り上げた前作『The Visitor』('09年発表)の密室感に通じるものがあるのですが、アメリカ音楽的な要素が前面に出ていたそちらに比べ、本作『Simple Songs』では、60〜70年代のイギリス音楽に通じる風合いが強まっています。初期GENESIS(ボーカルの声質もあって連想させられる場面が多い)や初期SOFT MACHINEのような、いわゆるサイケデリックポップからプログレッシヴロックが生まれてくるあたりの、不定形で混沌とした豊かさを持つスタイル。それがFrank Zappaやミニマル寄り現代音楽の(ブルース的な引っ掛かりの薄めな)進行感と混ぜ合わされ、両者の中間あたりの音遣い感覚に仕上げられているのです。
(上記インタビューでLED ZEPPELIN『Presence』を「完璧な、最高に完成されたアルバム」と言っているように、もともと英国ロックの味わいも深く吸収してきているのだと思われます。)
そうした音遣い感覚は「フォークをベースにしたポストロックの味わいを70年代英国ロックに寄せた」ようなものでもあり、そしてそうした味わいが、極めて滑らかに流れていきながらもしっかり印象に残りこびりつく、さりげなくよく“立った”フレーズにより表現されています。ミニマル音楽〜ポストロック特有の、長いスパンで解決していく“気の長い”時間感覚が、コンパクトに洗練された強力な歌モノにより、ゆったりした居心地のよさを保ちながら形にされる。このような聴き味を生み出す作編曲・演奏が本当に素晴らしく、「いつどのような場面が現れるか」の配置が絶妙ということもあって、何度繰り返し聴いてもモタれない、しかも聴けば聴くほど味が出て酔わされるという、最高に快適な音楽体験をさせてもらえるのです。この手の音遣い感覚に馴染みのない人でも、滑らかに流れていく居心地の良い構成に浸っているだけで、いつの間にかそれを味わうための“回路”が形成されていき、深く惹きつけられ離れられなくなってしまう。こんなによくできた(それでいて作為を全く感じさせない)アルバムはそうあるものではありません。
(先のインタビュー文末にあるジムの『Presence』評「細部にこだわっていないようで、ものすごくこだわっている。それなのにあたかも即席でつくられたかのように聴こえる」がそのまま当てはまるように思います。)
ぜひ手にとってみて、何度か聞いてみることをお勧めします。
 
かくいう私も、聴き始めてから数回はピンときませんでした。本作を買った直後に選んだ「残す100枚」記事(http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/07/02/120531)からも落としていましたし、まさかここまで急激に惹きつけられるとは思っていませんでした。ふとしたきっかけで勘所をつかんだら最後、みるみるうちになじんでいき、さりげなく盛り上がる展開に心震わされるようになる。5曲目「These Hands」の静かでしみじみとした音響(カントリー〜アンビエント音楽の要素が巧みに溶かし込まれている)などは聴いているだけで“腰が砕ける”思いがしますし、アルバム全編を通して深く感動させられるにもかかわらず、過剰に感情を動かされて気疲れするということがありません。絶妙の具合で浸り続けられる、本当に素晴らしい作品。個人的に“一生の友”となる予感が十分ある一枚ですし、これからも楽しく聴き込んでいきたいです。 
 
《参考》
このアルバムの完全再現ライヴを含む2days公演のレポート
 
 
 
第1位:cali≠gari『12』
 

 

12(狂信盤)

12(狂信盤)

 

 

 
cali≠gariというのは本当に凄いバンドで、作詞作曲・演奏表現力のすべてにおいて替えのきかない味と実力をもっています。
完璧な発声と絶妙に突き放した歌い回しが心地よいボーカルに、タッチは雑なものの卓越したリズム処理能力と音遣い感覚で唯一無二の個性を誇るギター、そして世界的にも超一流の技術&フレージングセンスが素晴らしいベース。そうしたメンバーが集まってできるアンサンブルは、メタル的な安定感(ベース)とニューウェーブ的な隙間感覚(ギター)を両立しハードコアパンクの瞬発力で強化したような質感をもっており、しなやかな機動力の味で替わりになるものはありません。
音楽性も実に強力です。広く豊かな音楽的バックグラウンド(ニューウェーブ〜ハードコア〜オルタナティヴ、ジャーマンロック〜テクノ〜クラブミュージック、歌謡曲〜J-POPなど)を活かした自在な曲想が、各メンバーの個性的なセンスにより細かく巧みにひねられる。オーソドックスなコード進行をするところでも複雑な陰翳を生んでしまうアレンジ能力は驚異的で、このバンドにしか作れないタイプの名曲を数多く生み出しています。
 
本作『12』は、長く在籍していたドラマーが諸事情(主に技術的限界?)により脱退したことをうけ、4人の卓越したサポートドラマーを招いて製作された作品で、残ったメンバー3人の技術や個性が制限を受けることなく発揮され、素晴らしい結果を生んでいます。各曲のスタイルはバラバラなのですが、それがうまく並べられることにより出来るアルバム全体としての“かたち”がとても良く、程よい隙間(=想像の余地)を伴いながら滑らかに流れまとまる構成が絶妙です。緩急のバランスが非常に良く、ほどよい勢いを保ちながら息切れせず走り抜くことができています。強力な疾走感とゆったり浸れる居心地のよさが両立されており、複雑な作り込みをすっきり呑み込ませてしまう作編曲・演奏の良さもあって、もたれず何度でも聴き返してしまえる一枚になっています。アルバムとして理想的な成り立ちをした、掛け値なしの大傑作です。
 
ところで、このアルバムが「もたれず何度でも聴き返してしまえる」ようになっているのは、cali≠gariというバンド特有の“さばけた親しみやすさ”によるところも大きいのではないかと思います。聴き手に安易な感動を提供したり馴れ馴れしく手を差し伸べたりすることはなく、むしろ“客をあしらう”感じでクールに突き放す。しかし全く取りつく島がないわけでもなく、微妙な温度感を保ちながら側にいてくれる。仏頂面になりながらそれとなく寄り添っていてくれるような付き合いの良さがあって、聴き手との間に絶妙な距離感を保ち続けてくれるのです。先述の「オーソドックスなコード進行をするところでも複雑な陰翳を生んでしまうアレンジセンス」はそうしたバランス感覚の賜物で、本作で言えば終盤の「フィラメント」「あの人はもう来ない」「さよならだけが人生さ」など、何も考えずストレートにやったら鼻につくものになってしまう曲調に、そうした素直な叙情が上滑りしないだけの裏付けを与えています。このような“節度”を感じさせる人当たりはまことに得難いもので(60〜70年代の優れた音楽に通じるものでもあります)、cali≠gariの音楽の魅力である“べたつかない湿り気”の大事な源になっているのだと思います。こういう点でも素晴らしい味のある作品です。
 
こうした絶妙の距離感や“さばけた親しみやすさ”は、このバンドの音楽嗜好が非常に良い意味で“ポップ”だからこそ生まれているものなのかもしれません。
たとえばドイツのEBM(エレクトリック・ボディ・ミュージック)やインダストリアル〜ノイズミュージック、裸のラリーズのようなアンダーグラウンドな音楽も好み、背伸びせず身の丈に合ったものとして楽しめる感覚を持ち合わせていながらも、そうしたスタイルを前面に押し出してしまうことはなく、そちら方面の音響的旨みや時間感覚などを活かした上で、あくまで洗練された“歌モノ”のフォーマットで勝負する。これは単なる「売るため」の戦略ではありません。バンド自身がそういうポップミュージックを衒いなく愛しているからそういうスタイルが選ばれるのであって、バンド自身がやりたいことを素直に形にした結果、そういう“歌モノ”のフォーマットに落ち着くわけなのです。
(これはBUCK-TICKのような優れた先達に通じる在り方で、cali≠gariのメンバーがそちら方面のシーンから学んだものは、こういう点でも非常に多いと思われます。)
『12』では、過去作でも様々なかたちで試みられてきた「複雑で多様なエッセンスを洗練された“歌モノ”のフォーマットに落とし込む」手法がこの上なく素晴らしい成果を生んでいます。ロック周縁音楽(70年代後半以降)のほぼ全てを網羅する豊かな音楽的エッセンスが、このバンドにしかできないやり方で複雑に混ぜ合わされ、得体の知れないスープ状のものに解きほぐされた上で、余計なことを考えずに呑み込んでしまえる“食べやすい”ポップミュージックの形に落とし込まれている。聴きやすさと奥の深さが極めて高いレベルで両立されていて、快適に聴き通してしまえるのにいくら聴き込んでも味わいきれない豊かな奥行きがあるのです。こうした点でも実に稀有な作品なのだと思います。
 
唯一無二の魅力をもつバンドの持ち味が最高のかたちで発揮された大傑作。広く聴かれてほしいアルバムです。
 
 
《参考》本作発売前後のインタビュー記事です。具体的な情報についてはこちらをご参照ください。
 
 

2015年・年間ベストライヴ

【2015年参加したLive(知り合いのものは除く)】


[Best20]

・ライヴに参加した後は、帰宅後かならず数十分かけて感想をまとめています。そうすることで、(終盤よりも印象に残りにくい)序盤や中盤の流れも含め、全体を思い出して俯瞰することができるようになります。また、考えをまとめながら細部を吟味することで、現場ではあまり気にしていなかった要素にも注意を向けられるようになり、もやもやした後味をかみくだくための手掛かりが得られることもあります。
翌日になると、終演後のある種の昂奮状態が落ち着いてきて、あまり刺激的でない、「地味ではあるが味わい深い」要素の方にも注意が向きはじめます。この段階になると、ライヴの全体像をバイアスの少ない状態で見渡せるようになってきます。「余計なことを考えず満足することはできなかったが、なにかもやもやした手応えがくすぶり続ける」ような場合は、一晩寝かせることで、そうしたもやもや感がうまく受け入れられたり、そうするための気付きが得られる場合もあるのです。
このようにして数日経つと、ライヴの全体像を把握した上で、それをちょうどいい立ち位置から吟味できるようになります。ここでは、この状態での評価や思い入れを比較し、ランキングをつくっています。「音楽や演奏、音響や演出の出来映え」そして「自分が終演直後にどれだけ満足できたか」ということはもちろん、「自分がそれを通してどのような気付きを得られたか(=そういう気付きを与えてくれる興味深い要素がどれだけあったか)」ということなども考え、総合的な手応えの多寡を感覚的に比べたものになっています。

複数回観たものは、その中で最も良いと思えた公演ひとつを選んでいます。

・各公演名の下にあるのは直後の感想ツイート(紐付け)へのリンクです。一般的なブログ記事より長いものも多いです。


第1位SWANS@渋谷O-EAST(1/27)

第2位Jim O'rourke@草月ホール10/25)

第3位岡村靖幸@Zepp DiverCity Tokyo(11/1)


第5位山下達郎@中野サンプラザ12/21)

第6位D'ANGELO AND THE VANGUARD@Zepp DiverCity Tokyo
8/18)

第7位大森靖子@新宿LOFT9/18)


第9位ONEOHTRIX POINT NEVER@恵比寿Liquidroom(12/3)

第10位CYNIC@渋谷Club Asia(9/4)

第11位Morrie@東京キネマ倶楽部(3/4)

第12位佐井好子@渋谷O-NEST5/29)

第13位聖飢魔II@グランキューブ大阪 メインホール(9/26)

第14位AMERICAN FOOTBALL@渋谷O-EAST(6/30)

第15位JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段@新宿Pit Inn3/28

第16位鈴木慶一@メルパルクホール東京(12/20)

第17位郷ひろみ@幕張メッセ
8/16:SUMMER SONIC 2日目)

第18位O.L.H.@渋谷WWW(6/27)

第19位DISORDER@川崎Club Citta(10/12:KAPPUNK)

第20位DEATH SIDE@渋谷EGGMAN(12/5)


次点

Keith Tippett@新宿Pit Inn(2/7)

JUDAS PRIEST@EX Theater Roppongi(3/6)


BLUEBLUT@六本木Super Delux(5/10)

大森靖子&THEピンクトカレフ@新宿LOFT(5/12)

MAGMA@渋谷O-EAST(6/5)

Shiggy Jr.@渋谷Club Quattro(7/1)

森進一@中野サンプラザ(7/5)

キセル@青山 月見ル君想フ(10/4)


[各要素Best3]


パート別プレイヤー

声:

ギター:
Robert Fripp(KING CRIMSON
Jim O'rourke

鍵盤:
坪口昌恭菊地成孔ダブ・セプテット)
Keith Tippett

管楽器:

ベース:
Pino Palladino(D'ANGELO AND THE VANGUARD
sinner-yang(O.L.H.)

打楽器:
Sean Reinert(CYNIC)
Chris Dave(D'ANGELO AND THE VANGUARD)
Chuck(CHAOS UK)

電子音響(ラップトップetc.):
ONEOHTRIX POINT NEVER(+PA・zAk)
PITA
美川俊治&ようなぴ(ゆるめるモ!


フロントマン

Michael Gira(SWANS)


音響

氣志團万博 2015 2日目@袖ヶ浦海浜公園(9/20
新宿BLAZE(8/21:cali≠gari
渋谷O-EAST6/30:AMERICAN FOOTBALL・BIRTHMARK・BRAID


イベント・フェスティバル

6/28:LUNATIC FEST@幕張メッセ
LUNA SEABUCK-TICK・D'ERLANGER・GLAY・[Alexandros]・KA.F.KA・AION・minus(-)・ROTTENGRAFFTY・凛として時雨・LUNACY)





[参加したLive一覧](計83ヶ所)

1/12:VIOLENT ATTITUDE 2015@川崎Club Citta
DOOM・CASBAH・JURASSIC JADE・BAKI・ZENI GEVA・セウ・SHELLSHOCK・SURVIVE・TRANSPARENTZ)

1/22:FKA Twigs@恵比寿Liquidroom

1/27:SWANS@渋谷O-EAST

2/7:Keith Tippett@新宿Pit Inn

3/1:THE POP GROUPZAZEN BOYS・KK NULL@恵比寿Liquidroom

3/3:KISS・ももいろクローバーZ@東京ドーム


3/6:JUDAS PRIEST@EX Theater Roppongi

3/13:No Lie-Sense・MEN'S 5・坂本頼光ポカスカジャン@マウントレーニアホール 渋谷プレジャープレジャー




3/28:JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段@新宿Pit Inn

3/30:RHYE@恵比寿Liquidroom



4/30:OPETH@EX THEATER ROPPONGI

5/3:DOOM@新代田FEVER


5/10:BLUEBLUT・る*しろう@西麻布Super Delux

5/12:大森靖子&THEピンクトカレフ@新宿LOFT

5/15:真夜中のヘヴィ・ロック@マウントレーニアホール 渋谷プレジャープレジャー
(非常階段 featurinゆるめるモ!・GLIM SPANKY・谷山浩子×ROLLY・オ-ケン初音階段・夏の魔物ROLLY・非常階段 featuring 戸川純・野左怜奈とブルーヴァレンタインズ・東京エロティカルパレード。)


5/23:じゃがたら@西麻布 音楽実験室新世界

5/29:佐井好子@渋谷O-NEST

6/4・5:MAGMA@渋谷O-EAST


6/13:TOMY WEALTH・降神kamomekamome・COHOL@渋谷EGGMAN

6/27:O.L.H.・中村愛・SEX山口@渋谷WWW

6/28:LUNATIC FEST@幕張メッセ
LUNA SEABUCK-TICK・D'ERLANGER・GLAY・[Alexandros]・KA.F.KA・AION・minus(-)・ROTTENGRAFFTY・凛として時雨・LUNACY)

6/30:AMERICAN FOOTBALL・BIRTHMARK・BRAID@渋谷O-EAST

7/1:Shiggy Jr.@渋谷Club Quattro

7/3:RAVEN@原宿Astro Hall

7/5:森進一@中野サンプラザ


7/22:Evan Parker・William Parker・土取利行@草月ホール

7/31:赤い公園・日食なつこ×komaki@新宿レッドクロス

8/8:芸能山城組ケチャ)・奥山行上流持田鹿踊保存会(ししおどり)@新宿三井ビル55広場

8/12:カネコアヤノ・町あかり feat.水野しず・ベッド•イン・GOMESS feat.水野しず@DOMMUNE STUDIO

8/15:HOSTESS CLUB ALL-NIGHTER@幕張メッセ
(BAiO・Thom Yorke TOMMOROW'S MODERN BOXES・Franz Ferdinand SPARKS)

8/16:SUMMER SONIC(2日目)@幕張メッセ
(D'ANGELO AND THE VANGUARD・CLEAN BANDIT・郷ひろみ

8/18:D'Angelo AND THE VANGUARD@Zepp Tokyo


8/29:ももいろクローバーZ@幕張メッセイベントホール

9/1:ANATHEMA・SOLSTAFIR@恵比寿Liquidroom

9/4:CYNIC・CYCLAMEN・PLINI@渋谷Club Asia

9/5:CYNIC・CYCLAMEN・PLINI@代官山Unit

9/11:真夜中のヘヴィ・ロック@マウントレーニアホール 渋谷プレジャープレジャー
(Controversial Spark・灰野敬二≡非常階段・GLIM SPANKY・非常階段 feat. 戸川純・キノコホテル・スネオヘアー×小松正宏・OverTheDogs・蛸地蔵)

9/18:大森靖子メジャーデビュー1周年&生誕祭@新宿LOFT
大森靖子・トリプルファイヤー・根本宗子・直枝政広・キクイの戦艦・夏の魔物・ぱいぱいでか美)


9/23:Fennesz・Jim O'rouke・PITA・Klara Lewis・ibitsu@西麻布Super Delux

9/24:Vashti Bunyan@キリスト品川教会 グローリア・チャペル

9/26・27:聖飢魔II@グランキューブ大阪 メインホール

10/2:灰野敬二×危口統之『奇跡』@草月ホール
・実験1回目@横浜国立大学 大学会館裏駐車場(9/10)
・実験2回目@横浜国立大学 大学会館裏駐車場(9/28)
・リハーサル@草月ホール(10/1)
・当日リハーサル〜本番@草月ホール(10/2)

10/2:cero@Billboard Live Tokyo(2nd set)

10/4:Leonardo Marques・ツチヤニボンドキセル@青山 月見ル君想フ

10/8:SLAYER・GOJIRA@新木場Studio Coast

10/10:EX-ANS@高円寺HIGH

10/12:KAPPUNK@川崎Club Citta
(DEATH SIDE・恒正彦・SxOxB・DISORDER)

10/24・25:Jim O'rourke@草月ホール



11/20:MUCCcali≠gari@本八幡Route Fourteen

11/22・23:HOSTESS CLUB WEEKENDER@新木場Studio Coast
(MELVINS・DAUGHTER・Christopher Owens)

11/24:Sam Smith@国立代々木競技場 第一体育館

11/25:RIDE@Zepp DiverCity Tokyo

11/26:Shiggy Jr.@赤坂Blitz

12/3:ONEOHTRIX POINT NEVER・ALVA NOTO@恵比寿Liquidroom

12/4:CHIC featuring Nile Rodgers@Zepp DiverCity Tokyo

12/5:CHAOS UK・DEATH SIDE・鉄アレイ@渋谷EGGMAN



12/19:SikTh・HARVEST@池袋KINGSX TOKYO

(Controversial Spark・マージナルタウンクライヤーズ・THE BEATNIKS・ムーンライダーズはちみつぱい・マザーズヒュージヘルパーオーケストラ)


12/25:SxOxB・SUPER JUNKY MONKEY・WRENCH@恵比寿Liquidroom

12/26:新宿PIT INN 50周年 新宿ジャズフェスティバル
山下洋輔トリオ リュニオン・鈴木勲スペシャルセッション・佐藤允彦ソロピアノ・菊地成孔ダブ セプテット・大友良英スペシャルビッグバンド・ドリームセッションパート1(鬼怒無月勝井祐二近藤等則今堀恒雄ナスノミツル中村達也)・松木恒秀グループ)


[ミュージシャン一覧]


〈国内出身:113組〉

AION
[Alexandros]
ibitsu
SxOxB(10/12・12/25)
O.L.H.
オ-ケン初音階段
大友良英スペシャルビッグバンド
OverTheDogs

奥山行上流持田鹿踊保存会(ししおどり)
岡村靖幸(4/29・5/16・11/1)
CASBAH
KA.F.KA
カネコアヤノ

cali≠gari(3/14・5/8・7/5・8/21・11/20)
菊地成孔ダブ セプテット
キノコホテル
筋肉少女帯(6/7・9/20)
GLIM SPANKY(5/15・9/11)

KK NULL
COHOL
GOMESS feat.水野しず
Controversial Spark(9/11・12/20)
THE BEATNIKS

SURVIVE
SHELLSHOCK
Shiggy Jr.(7/1・11/26)
CYCLAMEN(9/4・5)
SiM
JAZZ非常階段+JAZZめるモ!
JURASSIC JADE
SUPER JUNKY MONKEY

鈴木勲スペシャルセッション
聖飢魔II(9/20・9/26・9/27・10/31・12/7)
セウ
SEX山口
ZENI GEVA
蛸地蔵

恒正彦
DEATH SIDE(10/12・12/5)
鉄アレイ
D'ERLANGER
DOOM(1/12・5/3)
東京エロティカルパレード。

TOMY WEALTH
TRANSPARENTZ
ドリームセッションパート1(鬼怒無月勝井祐二近藤等則今堀恒雄ナスノミツル中村達也
トリプルファイヤー
日食なつこ×komaki

No Lie-Sense
野左怜奈とブルーヴァレンタインズ
HARVEST
灰野敬二≡非常階段
ぱいぱいでか美
BAKI
非常階段 feat. 戸川純(5/15・9/11)
非常階段 featuring ゆるめるモ!

BLACK WAX
ベッド・イン
マージナル・タウン・クライヤーズ
minus(-)
マザーズ・ヒュージ・ヘルパー・オーケストラ
町あかり feat.水野しず
松木恒秀グループ

LUNACY
WRENCH
ROTTENGRAFFTY

山下洋輔トリオ リユニオン


〈国外出身:49組〉

AMERICAN FOOTBALL
ANATHEMA
BAiO
BIRTHMARK
BLUEBLUT
CHAOS UK
CHIC featuring Nile Rodgers

Christopher Owens
CLEAN BANDIT
CYNIC(9/4・5)
D'Angelo AND THE VANGUARD(8/16・18)
DAUGHTER
DISORDER
Evan Parker・William Parker・土取利行
Fennesz+Jim O'rouke
FKA Twigs

GOJIRA
Jim O'rourke(10/24・25)
Keith Tippett
KING CRIMSON(12/8・10)
KISS
Klara Lewis
Leonardo Marques
MAGMA(6/4・5)

MELVINS
ONEOHTRIX POINT NEVER
PITA
PLINI(9/4・5)
RHYE
RIDE

Sam Smith
SLAYER
SOLSTAFIR
SWANS
Thom Yorke TOMMOROW'S MODERN BOXES








【2015年・年間ベストアルバム記事リンク集】(随時更新)

各媒体から発表された2015年「年間ベストアルバム」記事のリンク集です。

(日本語の説明があるものを中心に集めました)
備忘録としてここに載せておきます。

なお、海外の《音楽雑誌・サイト》に関しては、集計サイト
が概ね網羅してくれています。
英語に抵抗がない方はこちらも読むことをお勧めします。


音楽雑誌・サイト

Rough Trade(100)
MOJO(50)
Q(50)
Uncut(75)
Decibel Magazine(40)
SPIN(50)
Stereogum(50)
Rolling Stone(50)
Rolling Stone(メタル25)
Rolling Stone(EDM・エレクトロニック25)
Gorilla vs. Bear(50)
Consequence of Sound(50)
Consequence of Sound(メタル25)
Paste(50)
NME(50)
TIME(10)
Loudwire(20)
FACT Magazine(50)
Pitchfork(50)
Pitchfork(メタル25)
Pitchfork(エクスペリメンタル20)
The Prog Report(15)
The Guardian(40)
SoulTracks(30)
The Vinyl Factory(50)
NPR(ジャズ60)
Sounds Better With Reverb(50)
Guitar World(50)

JET SET RECORDS
国内アーティスト / DJが選ぶ2015年ベストディスク

only in dreams
2015年ベストアルバム


ARBAN
2015 Best Disk Review あの人が選ぶ3枚

ラテン・ブラジル・ワールド音楽(12/30)


OREメディア
「OREとアーティストによるベストアルバム2015」
(各人10枚選択)
(※今年より前に発売されたものが含まれる場合もあります)
D/P/I(12/1更新)
sugar me(12/2更新)
SHIT AND SHINE(12/3更新)
森大地Aurole)(12/4更新)
Chihei Hatakeyama(12/11更新)
sgt. 大野均(12/12更新)
Ayl_E(12/13更新)
Pawn / Hideki Umezawa(12/21更新)
平山カンタロウ(12/25更新)
OREメディア編集部(12/31更新)

ototoy Award
クラブ/エレクトロニカ(12/18更新)


個人サイト・ブログ

When The Sun Hits(12/10)
雨にぬれても(12/13)
いまここでどこでもない(12/14・)
atochi. sub. jp(12/16)
daino 14(12/24)
RocBox 2(12/24・)
四年級の渦(12/24)
あーりんマッギー(12/27)
偏愛音盤コレクション序説(12/27)
ぐらいんどこあせーるすまん(12/31)

Tokyo Music Gypsies - Music Frontline of Tokyo(1/1)


G.I.S.M.関連英語記事【リンク&和訳集】(随時更新)

この稿は、このたび活動再開することが決定した伝説のハードコアパンク/メタルバンドG.I.S.M.に関連する英語記事を集めたものです。
(基本的には“公式”情報のみを取り扱う予定です。)
各記事へのリンクの下には内容全文の日本語訳を載せています。読みやすさや判りやすさを重視するため、構文やニュアンスをつかんだ上で意訳している場合もあります。その点ご了承いただけると幸いです。

G.I.S.M.についてはこちらの記事でも触れています。ここで初めて知られた方はぜひ聴いてみて下さい。この世界の音楽史において最も影響力のあるバンドの一つであり、その作品は後続の多くが超えることのできない金字塔です。興味本位で触れてみる価値は高いと思います。



Roadburn Festival 2016 出演発表(2015.11.19)

G.I.S.M.が復活し、Roadburn 2016のLee Dorrian主催イベントで初の海外公演を行う〉

これが現実かどうかハッキリさせようと頬をつねり続けているけど、いまだに目が覚めきらない。RoadburnにG.I.S.M.が来るんだ!カルトという言葉の意味を真に体現する、絶対的な伝説である日本のバンド。ハードコアパンクとメタルを橋渡しした最初の存在の一つ。そして、その橋渡しの過程において、暴力的なステージングと音楽自体の狂った攻撃性により、何が危険で何が予測不可能なのか、ということを再定義してしまったバンドだ。

活動を停止してから10余年、G.I.S.M.が復活の機会に選んだのは、母国日本の外では初めてとなるコンサートだ。4/15金曜日、場所は013 venue。
(訳注:ティルブルフにある南オランダ最大のライヴ会場:中にはコンサートホールが3つあり、最も広いJupiler Zaalのキャパシティは2200人とのこと:Roadburnは毎年ここで開催されている)
Lee Dorrianの「Rituals For The Blind Dead, Part 1」(訳注:4/15のイベント全体をさす名称)に出演する。我々は両腕が紫色になるまでつねり続けることだろう。(本当に実現するかどうかわからないから。)

このブッキングの経緯について、Lee Dorrianが内部事情を教えてくれた。
「自分は長年、いくつもの素晴らしい活動に関わることができてきたけれども、今回の達成はその中でも相当のものだし、興奮させられたという点では一番だ。Roadburn 2016のキュレーター(訳注:4日間のうち1日のヘッドライナーで、その日の出演バンドを全て決める立場)を依頼されたとき、自分は好きなバンドをリストアップして、そのリストを消していく作業に取り掛かった。
(訳注:声をかけたバンドに断られ続けたということだと思われる)
RUDIMENTARY PENIにもお願いしたけど、残念なことにそれは成らなかった。それで、次に考えたのがG.I.S.M.だったんだけど……様々な理由から、これはとんでもなく無謀な企てに思えた。彼らは日本国外で公演したことがないし、そればかりか、日本国内でも10年以上ライヴをしていないからだ。」

「'93年にCATHEDRALで東京公演をしたとき、G.I.S.M.のボーカリストであるサケビが観に来てくれて、翌日には自分たちを彼のアパートに招いてくれた。我々はそこでダラダラ過ごし、キメたり人間解体ビデオ(!)を観たり、いろんなことをした。この夜のことは一生忘れないだろう。G.I.S.M.がエクストリーム・ミュージックに及ぼした影響を過小評価するのは難しい。特にハードコアパンクに長年及ぼしてきた影響は甚大なものだ。メタリックな質感のある本物のノイジーなハードコアの生々しく汚らしい世界においては、たぶん(訳注:十中八九というくらいのニュアンス)世界で最も影響力のあるバンドだよ。並び立つのはDISCHARGEくらいだろう。」

「まあそれはともかく、共通の友人を介してサケビの所在をなんとか突き止め、「Rituals For The Blind Dead」にG.I.S.M.で出演してくれるよう真剣にオファーした。何度かメールをやり取りした後、彼は出演を承諾してくれたよ。これが本当に実現するのかまだ全然信じられない。でも、飛行機はもう予約してしまったし、彼らの方も、ここにやって来てお前らを残忍にブッ飛ばす準備をしているところだぞ!!!」

サケビが加えて言うことには:
「こんな素晴らしいフェスティバルに参加できて光栄です。これは我々の初めての国外公演で、そしておそらく、2002年2月以来初めてのショウになるでしょう!いわゆる「クラシック・セット」でいくつもりですし(訳注:この声明記事にタグ付けで「Detestation」とあるので、歴史的名盤である1stの曲がメインになると思われる)、Roadburnで大いに楽しめることを今から期待しています。」

Roadburn Festivalは、2016年の4/14〜4/17に、オランダ・ティルブルフの013 venueで開催される。チケット発売中!



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Roadburn 2016 2日目のレポ @ linkawales.co.uk(2016.4.15)

G.I.S.M.の話が出てくる部分だけ抜粋して訳しています)

Terzij de Hordeが空気を切り裂くブラックメタルをやっているのをEcstase(註:Roadburnの最小ステージ)の後方で少し観て一休みした後、私はメインステージのバーに戻り、リー・ドリアンを捕まえた。Wrexham Memorial Hallから続く旧交を温め、この企画を運営した彼の労をねぎらい、そして、これから出演するG.I.S.M.を心待ちにする興奮を分かち合うためだ。(リーとG.I.S.M.の)交友関係は彼がNAPALM DEATHで日本ツアーをした25年前から続くもので(註:'89年の初来日ツアー:2ndアルバム時のラインナップ)、この日本産ハードコアパンクバンドの13年ぶり・出身国外では初となるギグが実現したのは、そうした強力な(そして精神的な)繋がりがあってこそのことだったのだろう。このイベントだけのためにあらゆる所から(このバンドを含む)パンクスが集結し、このイベントのメロウな環境(註:しっとりめの音楽をやる出演者が多かったという筆者の印象)においては極めて稀な狂騒状態が引き起こされた。バンドの音はまったくもって素晴らしく、彼らの一部の品質の悪いスタジオ音源よりも遥かに良かった。この凄まじいライヴの音源を何曲かでも発売してくれることを望む。メンバーは素晴らしい存在感をいまだ保っていた。特にボーカリストの何かに急き立てられているような(誰かに小便を引っ掛けられているかのような)ステージングは凄かった。ステージ後方のスクリーンに流された、カーマ・スートラをえげつなく描いたようなアニメーション(註:宇川直宏作のVJ)も、とても楽しく心を溶かすものだったよ!


Kim KellyによるRoadburn 2016 2日目のレポ @ VICE(2016.4.16)
リンク先に写真あり

(まずDARK BUDDHA RISINGとULFSMESSAの話があり、その後にG.I.S.M.の話が出てくる:その部分だけ抜粋して訳しています)

以上の2つと並び金曜最大の目玉となったのは、遠く海外から来たバンドだった。カルトなハードコアパンクの伝説G.I.S.M.が日出づる国からやってきて、80年代頭のレパートリーによる荒々しいセットで我々のノドをカッ切ってくれたのだ。結成35年・休止期間14年の(そしてこのRoadburnのクソデカいメインステージが日本国外での最初のショウになった)トリオ(訳注:G.I.S.M.は4人編成だが原文ではtrioという単語が使われている)は、とんでもなく素晴らしいパフォーマンスをしてくれた。1985年なんて来なかったんだ、というような雰囲気があった。

私はRoadburnのピット(訳注:スタンディングフロアにおける人々の密集地帯のこと)がこんなに暴力的かつ熱狂的になったのをいまだかつて見たことがなかった。(自分の知る範囲で近いのを挙げるなら、2012年のHet PatronaatでのDOOMで、群衆の上をステージダイバーが埋め尽くし、YOBのMike Scheidtもそこに参加していた、という状況だろうか。)これは、Roadburnの守備範囲の幅広さと、“ヘヴィ・ミュージック”というものの定義がどれほど広範なものになりうるか、ということをうまく思い起こさせてくれるものだった。そして、愛すべきギタリスト・ランディ内田…バンドが最後のアルバムを出した直後の2001年に癌で亡くなった(訳注:実際はランディ内田の没後の2002年にその『SoniCRIME TheRapy』が発売された)…がいなくても、G.I.S.M.はステージ上で素晴らしい存在感を発揮し、群衆を狂乱状態に陥れることができるのだ。日がな時間潰しをして生きてきた無数のパンクスが013(訳注:このライヴが行われた会場)の仄暗いメインフロアになだれ込み、デニムとブラック・レザーで揃えるRoadburnの典型的なスタイルに身をやつして、肩と肩をつきあわせて、集団的熱狂状態になったのである。

(以後はNIGHT VIPERについての話:後略)



Roadburn 2016 2日目のレポ @ THE SLEEPING SHAMAN(2016.4.25)

G.I.S.M.の話が出てくる部分だけ抜粋して訳しています)

(この会場に来た)全てのパンクスが013(註:メインステージのあるフロア)にへばりついているのを訝しがる向きもあっただろう。彼らのお目当てはただ一つ。リー・ドリアンが「Rituals For the Blind Dead」企画のために獲得した日本産プロト・ハードコアバンドG.I.S.M.だった。これまでこのバンドは日本国外での公演経験がなく、Roadburnがその流れを変えようとしていたところだったのだ。横山“サケビ”茂久率いるこのバンドは、彼らのトレードマークである混沌とした・生々しい・耳触りなハードコアパンクを携え、多くを語らずその場に飛び込んだのだった。

ステージ上のスクリーンでは気味の悪いアニメーションが垂れ流され、その描写は曲が進むにつれどんどんあからさまになっていった。音楽は激しく暴れまわり、ほとんど手のつけようがなかった。サケビはステージ上を跳ね回り(註:youtubeに上がっている動画では終始ゆっくり歩き回っていてそこまでアクティブな印象がないが、これはこれで異様な迫力があり素晴らしい)、マイクに向かって吠え、そこに居ることを概ね楽しんでいるようだった。(それまでの出演者のときは)だいたい寛いだ感じだった観衆は、最初の一音が鳴るやいなや、ステージ前に形成された暴力的なピットへなだれ込んだ。なぜならば…そりゃそうだろう、G.I.S.M.なんだぜ。パンク系のバンドはふつう小箱でこそ映えるものなんだけれども、G.I.S.M.と観衆の間に生まれた相互作用は、殆ど言葉を交わさないものだったのに並外れて強力で、巨大なメインステージは一時間弱にわたり、反逆の拳を掲げた汚らしいパンクスによって占拠されたのだった。


Roadburn 2016 2日目のレポ @ METAL STORM(2016.5.13)

G.I.S.M.の話が出てくる部分だけ抜粋して訳しています)

〈Cheによるレビュー〉

今年のRoadburnにG.I.S.M.が出演するというニュースは全ての人に衝撃を与えた。知らない人のために説明すると、彼らは80年代初期に日本に現れたハードコアパンクのカルト・スーパースターだ。(バンド名の頭文字が示すものは年々変わり続けているが、元々は「Guerilla Incendiary Sabotage Mutineer(註:強引に訳するなら“扇動的な破壊活動をゲリラ的に行う反逆者”という感じだろうか)」だった。)Roadburnのステージは彼らの2002年以来初めてとなるショウであり、日本国外で行う初めてのショウでもあった。それを聞けば、この特別な、おそらく一回限りのイベントに、どれだけの期待がかかっていたか想像できるだろう。クレイジーな衣装を身にまとい色とりどりの髪型をしたメンバー(フロントマンの横山サケビだけは“普通の風体”だった)がステージ上に現れた瞬間、我々は自分たちがこれから真に特別なものを目撃することになるんだということを知った。

G.I.S.M.のショウは力強い「Endless Blockades For The Pussyfooter」で幕を開け、前日のCONVERGE同様、モッシュピットが即座に形成されバンドが演奏をやめるまでそれは止まることがなかった。JUDAS PRIEST〜IRON MAIDEN的ヘヴィ・メタルの影響を取り込んだハードコアの精力的爆撃と、このフェスティバル史上最高にクレイジーなヴィジュアルにより、アドレナリンはとめどなく放出され続けた。そのヴィジュアル(註:ステージ上のスクリーンに流されたVJ:宇川直宏の手によるもの)を言葉でうまく言い表すのは不可能だが、PCPをキメたDr.スース(註:アメリカの絵本作家/児童文学作家/漫画家)という感じの絵柄による、情け容赦ない虐殺の(殆どがアニメーションからなる)超現実的なコラージュ、アナーコ・パンクのイメージ、セックスシーンなどの映像は、G.I.S.M.の音楽の攻撃的な本質を幻覚的に補完していたのだ。私を含む全ての観衆は、畏敬の念を伴う朦朧とした状態でメインステージを後にすることになった。我々はそれなりのものを期待してはいたが、今のG.I.S.M.が昔と同じくらい素晴らしいと想像していた者は一人もいなかっただろう。この日最もfunな(註:“fun”というのは(特にハードコア以前の)パンクにおいて重視される姿勢の一つで、G.I.S.M.の音楽にもそういう“へらへらした”“ふざける”感じが備わっている:単に“楽しい”という以外にそういうニュアンスが含まれているのだと思われる)ステージであり、このフェスティバルのハイライトの一つだったと言い切れる。日本から生まれた最も凄いものは何だと思う?『アキラ』(註:大友克洋作品の劇場版アニメ)?いや、G.I.S.M.だよ。


〈Rodによるレビュー〉

G.I.S.M.が(Roadburnのラインナップに)追加されたという話は各方面に大きな驚きを与え、噂を聞いて真偽を確かめようとした人々が殺到したためRoadburnのホームページが落ちることになった。(註:これは事実。)正直言って自分はG.I.S.M.のことを全く知らなかったのだが、彼らのことを調べるにつれどんどん興奮させられていった。G.I.S.M.は風変りな・本当の意味で独自なスタイルのハードコアパンクをやっていて、ヘヴィ・メタルのフック(註:“耳を捉える音楽的な引っ掛かり”というふうな意味)とリード(註:ギターソロのこと)、暴力的な叫び声、とんでもないキャッチーさを伴う、型に嵌らない曲を持っていた。このショウは彼らが日本国外で初めて行うものであり、ここ10年以上において初めてやるものでもあって、古参・新参の両ファンにとって伝説的なステージになることが運命付けられていた。青/オレンジ色の髪とパンク・ファッションに身を包んだバンドメンバーが現れるやいなや、観衆は大声で叫び始めた。最初のコード(註:和音)が演奏されると、即座に血がたぎり、誰もがジャンプ・モッシュをし始めた。混沌としながらも極めてfunな雰囲気は、私がこれまで観た中でも最もクレイジーな映像があってこそのものでもあった。奇妙な性的・政治的イメージで埋め尽くされた心臓発作を呼び起こすようなヴィジュアルを前にしたら、アシッドなんて要らないだろう。私はここ数年ハードコアパンクを興味深く探求してきたが、G.I.S.M.は私の期待を遥かに上回ってくれた。全般的に、グルーヴィーで精力的、funでとにかく激しい。私はモッシュピットに何度も飛び込まされてしまったよ。


Roadburn 2016(4/15)セットリスト

setlist.fm記載のものは

1. Endless Blockades for The PossyFooter
2. A.B.C. Weapons
3. Death Agonies And Screamt
4. (Tear Their) Syphillitic Vaginas to Pieces
5. Nuclear Armed Hogs
6 Document One
7. Nightmare
8. Shoot to Kill
9. Still Alive
11. Death Exclamations
12. Fire
13. Anthem

ベストアルバム(1st全曲+初期音源集)『Determination』15曲から13曲。「クラシック・セット」という予告通りの内容になったようです。


現地で撮影された動画のリンクなど(紐付け連続ツイート)

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2017年8月9日に名古屋Red Dragonで行われた公演の様子はこちら
G.I.S.M.・WARHEAD・九狼吽というラインナップ:G.I.S.M.はギターレスの3人編成)

某大学アカペラサークル「Winter Live 2015」第一次オーディションの音源審査について

かつて所属していた大学アカペラサークルが、12月末に全体ライヴを開催します。その第一次オーディション(20バンド)について、このたび動画での審査を頼まれまして、一昨日結果を送信してまいりました。


以下は、その審査にあたっての評価基準について書いたものです。

先方から与えられた5項目

・「メロディ(リード力・主旋律)」

・「ハーモニー(和音の正確さ・鳴り)」

・「リズム(グルーヴ・ノリ)」

・「表現・ダイナミクス

・「訴求力(お客さんを引き込む力)」

についての内容。

書き上げてみると、これが意外に個人的な音楽観一般を網羅したものになっていると気付きます。自分としては興味深く読めるものですし、せっかくまとまった量になりましたので、ここに載せておこうと思います。

何かの参考や反面教師などになれば幸いです。

(前2回分

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2014/11/12/003727

http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/05/23/010659

の修正版です。)





「Winter Live 2015 第一次オーディション」審査基準

(以下は、講評とともに、必ず各バンドに配布してください。)


【各項目の内容と評価基準】


各評価項目について、個人的な解釈に基づいて「どういう要素を評価するのか」といった内容を振り分けています。

ここでは、それについて簡単に説明いたします。


基本的には、「バンド全体の力」をみています。

うまいメンバーがいれば魅力は当然増しますが、アンサンブル全体をうまくまとめることができなければ、そうしたメンバーを活かすことはできません。逆にいえば、看板になるようなメンバーがいなくても、全体としての仕上がりが見事なら、他では出せない素晴らしい味が生まれます。

今回は、このような観点から、「アンサンブル全体を審査」しています。

「メロディ(リード力・主旋律)」に関しては、リード及び間奏(歌詞がない箇所)の主旋律など“一部のパート”のみに注目し評価していますが、他の4項目は全て「アンサンブル全体の出来・味」を評価しています。

従って、その4項目に関しては、例えば「他のパートがダメでもリードがうまいから点が高くなる」「全体のまとまりは素晴らしいけどリードがパッとしないから点が低くなる」ようなことは、まずありません。ご了承ください。



(1)〈技術・体裁〉


個人的好みをできるだけ排除して、演奏の完成度をパラメタ的に評価しています。



①メロディ


下記「④-1 表現」の所に書いた「フレージング」「トーンコントロール」「サウンドバランス」について、アレンジの“顔”となる部分(リードだけでなくイントロの主旋律など)がどれだけうまく歌えているか・そしてそれをバンドがどれだけ活かせているかを評価しています。

主旋律そのものがうまく歌えていても、「他のパートの音量が大きすぎて主旋律が注目されづらくなってしまっている」場合は、(もちろん主旋律のみに注目して評価しようとはしていますが)響きが他のパートにマスクされ聴き取りづらくなってしまうこともあるため、評価が伸びないこともあります。

これは本番で聴いてくれるお客さんが感じることでもあります。そういった「バランス」に注意を払うのも大事です。



②ハーモニー


・「この曲」ができているか


楽譜どおりの和音がつくれているか。

一部メンバーの音程が完璧であっても、どこかのパートが致命的にズレていれば、全体としての和音は崩壊します。そういう場合の評点は必然的に辛くなります。

また、複雑な和音に挑戦して崩れ気味になっている箇所などは容赦なく減点しますし、簡単な和音であっても綺麗に仕上げられている場合は評価が高くなります。

バンドによっては「もっと簡単な曲をやれば完璧に仕上げられる」だろうケースも見受けられますが、それはやっている曲の完成度とは関係ありません。

ほとんどのお客さんはバンドやメンバーの事情など鑑みてはくれないので、「難しい曲をやっているから少しくらいできていなくても構わない」という言い訳は通じません。



③リズム


・グルーヴ(一体感)


全メンバーの足並み(ビート感)が揃っているかどうか。

(「縦が合う」という状態を、音の入りや語尾の処理なども含めた「響きのコントロール」のレベルで突き詰めて表現すると、一般にいう「グルーヴ」感が生まれます。)

一部が巧くても、全体が合っていなければ減点されています。

リズムキープ(BPMの維持)は、必ずしも厳密にできている必要はありません。

ビートが均一に保てていてもフレーズの間につながりがなければリズムアンサンブルはぶつ切りになりますし、ビートを随時変化させていても、それが曲や場面に合っていれば、アンサンブルとしての完成度は上がります。

以上のような観点のもと、一体感のある流れがあるか否かを評価しています。


・「止まらずつなげる」ことができているか


具体的には、

「フレーズとフレーズの間につながりを持たせることができているか」

「小節線で意識を切らずに、1曲通して音をつなげ続けることができているか」

ということなどをみています。

上記「グルーヴ」をつくり続けることができているか否かが評価対象となります。



(2)〈解釈・アイデア


曲の全体および細部を吟味し、それをもとにどういう音を出し構成していくか、という「考え」の緻密さ及び達成度をみています。

そうした「考え」のないものは陰影のない単調な仕上がりになりがちで、聴き手にとっては面白くありません。

飽きさせず惹き込むために重要な要素です。



④-1 表現


・フレージング(ミクロの視点)


フレーズ(メロディ)ひとかたまりがどこからどこまでか判断し、それを表情をつけて歌うことができているか否か。楽譜の解釈・自分の声のコントロールの両方がどれだけできているかということをみています。

たとえばスピーチをする際は、文節やアクセントの位置に気をつけたり、ひといき間をおく箇所を考えたりする、というような“細部の解きほぐし”が重要で、これができていると聴き手に伝わる力が格段に増します。

音楽においてもこうした細部の解釈は大変重要になります。


・トーンコントロール


音色(声の響き)を随時変化させ、その場に応じた色彩を提示することができているか否か。これができていれば、曲全体の表情がとても豊かになります。

逆に、これができていないと、曲全体の表情が均一で単調になり、「飽きさせる」ものになってしまいます。

なお、「原曲のイメージに合っているか否か」は問題ではありません。全員の解釈やその方向性さえ一致されていれば、それが原曲からかけ離れているものでもあっても、独自の説得力ある着地点に到達することができるものです。

ここでは、以上のような観点から、「トーンコントロールによる表情の描きわけ」や「バンド全体でうまく音色を合わせることができているか」をみています。


・サウンドバランス


パート間の基本的な音量バランスはもちろん、リード交換がある場合はそれらのつなぎがうまくいっているか(前後の流れを無視して一人だけ大声を出しすぎていないかetc.)など、効果的なやり方で整った“かたち”に仕上げることができているかを、音量や響きの目立ち方の観点から評価しています。


④-2 ダイナミクス


・構成力(マクロの視点)


:曲全体を俯瞰した構成がなされているか、そしてそれがうまく機能しているかどうかをみています。

ただ単に音量の大小をつけていればいいということはありません。

たとえば演劇において、ストーリーにおいて見せ場となる「おいしいセリフ」を言う場合、前後の脈絡を無視していきなり大声で叫んでしまうのは得策ではありません。大声で言いたいのであっても、その場の雰囲気やそこまでの展開が許す範囲内に留めなければなりませんし、そもそも見せ場だからといって大声を出す必要もありません。静かに余韻を残すような言い方のほうが観る者の印象に残りうることもありますし、刺激を与えたい場合でも、あえて押し殺すように“控えめに、しかし強く”言うやり方もあります。また、その「見せ場」を活かすためにそこに至る部分を丁寧に作り込む、というのも大切です。「見せ場」そのものよりもそうした“伏線”の処理の方が重要になる場合もあります。

曲の構成においても、そうした意識や考えが重要になります。全体の流れをうまく作りつなげていくために、各場合に合った力加減(音量・響きの質や厚みetc.)を考え、アンサンブル全体としてそれを形にできるように、実際の練習におけるすり合わせを繰り返さなければなりません。

こうした意味においての構成・構成力こそが、バンド表現において最も重要な要素なのだと言えます。

(①②③を仕上げた上でそれを活かし映えさせるための要素です)

ここではその出来映えを評価しています。

なお、「はっきりした強弱の変化があるか否か」は問題ではありません。曲や場面によっては、あまり大きな強弱をつけず、しかし淡々とした流れの中で微細な変化をつける、という方法のほうが向いている場面もあります。(均一なテンション・雰囲気の中で感情が高まりしぼんでいく、というような感じ。)今回の審査音源の中でも、そうしたやり方で素晴らしい成果を生み出しているものが幾つかあります。



(3)〈印象点〉


ひとことで言えば「刺さる」力です。初めて聴くお客さんを惹き込んでしまう要素や力について評価しています。

これはかなり感覚的な要素なので、私の個人的な嗜好(音楽性についてではなく、「どういうものが人を惹きつけるのか」という、持論のようなもの)も排除せずみています。

(完全に「客観的な」評価というものは不可能ですし、一個人の徹底的に「主観的な」考えをつきつめた方がむしろある種の一般性を獲得する場面も多くあります。

これは音楽をやる全ての方に心においてほしいことでもあります。まず完全に「自分(達)を納得させる」ことができるやり方でないと、他人を十分納得させることはできないものです。まず自分(達)の好みこそを優先し、その上でそれを受け入れられうる形に整える、ということが大事です。)



⑤訴求力


・わかりやすさ


:「わかりやすい」=「簡単」「単純」ではありません。

音楽性が複雑であっても、よく解きほぐされた明晰な論理的構成の上にそれをおいていくことができれば、音楽にあまり興味のない人にも抵抗なく楽しませてしまうことができます。そうした意味での「わかりやすさ」、言い換えれば「語り口のうまさ」「説明のうまさ」のようなものはとても重要です。

スピーチをする際は、自分の意見をうまく伝えるために、聴き手にできるだけ労力をかけないようなかたちに原稿を洗練させておく。これと同様に、編曲(アレンジ)も、無闇に情報を詰め込むのではなく、聴き手に伝わりやすいかたちに整理・構成しておくべきです。

こうした観点から、聴き手に「わかりやすく伝わる」曲・アレンジを用意できているかをみています。

「誰もが知っている曲を選ぶ」というのは、そうした意味において実は大事なことです。(「誰も知らない曲」であっても、初見で惹き込める作編曲がなされていればそれに十分対抗できます。)

POPであるというのは、とても大事なことなのです。


・代替不可能性(個性・オリジナリティ)


主に演奏表現力の個性(他では聴けない何か)の大小や“味わい深さ”(聴き飽きなさ)をみています。リードの特徴的な歌い回しとか、アンサンブル全体のグルーヴ(響きとリズムの一体感)およびその変化のさせ方、勢いや落ち着きのある雰囲気作りなど、表現力や解釈力のうちの「結果の面白さ」を評価しています。

(④表現・ダイナミクスのところでは、その「結果」を出すための工夫や技術力についてみています。)


アレンジについては、よほど気の利いたものでなければ勘案していません。楽譜をもとに音を出すにあたっての「結果の面白さ」を重視・評価しています。


・思い入れ


:「この曲でこういうことをやりたい」という気持ち・やる気・情熱が、トーンコントロールや種々の力加減の操作を通して、音に十分現れているか否か。

ここまで挙げてきた各要素は、こうした「思い入れ」「気持ち」をうまく伝えるための道具に過ぎません。

(心・技・体でいうなら技・体の部分)

聴き手の心に届くためには、こちらの心を示さなければならない。

一番大事な要素としてみています。



【点数の基準について】


おおまかにこんな感じでつけています。


〈9.0〜10.0〉

素晴らしい。お金とれるレベルです。


〈8.0〜8.5〉

優れた仕上がり。余計なことを考えさせず惹き込める。


〈6.5〜7.5〉

悪くない。無難に仕上がっているだけでなく、何かしらの付加価値がある。


〈6.0〉

形にはなっている。無料ライヴなら文句を言われるべきでない。


〈4.0〜5.5〉

弱点がある。無闇に練習するよりも、自分の音源をよく聴いて問題点を洗い出したほうがいい。

気付きがあればすぐに改善できるレベルだが、このまま本番に出るのは望ましくない。


〈0.0〜3.5〉

今回の出場は難しい。基本から丁寧にチェックしていくべき。



【評価方法】


聴取環境:イヤホン(Etymotic Research ER-4)

全音源の評点を出すにあたって、全20曲を

「1番→20番の順に通して聴きながら採点」(初日)

「20番→1番の順に通して聴きながら採点修正」(2日目)

「各曲(順番はランダム)を最大20分ほどリピートしながら採点修正&講評」(3日目)

というふうに聴いて評価しています。

(それぞれの講評は全て15〜20分以内に書き上げたものです。)

スタジオ録音(各パートの定位がキレイに分かれている)とワンマイク録音(全パートがひとつにまとまるダンゴ状なサウンドになっている)とでは、前者の方が明らかに訴求力の強い音質になっています。したがって、何度も聴くことにより(録音におさめられる前の)もとの声質・響きを分析・吟味して、こうした録音の違いによるバイアスをできるだけ排除するように努めました。



とりあえず以上です。

今回あまり良い点の付かなかったバンドも、適切な練習方法に気付いたり、雰囲気や力加減の表現についてのヴィジョンをまとめたりすることができれば、短期間で一気に飛躍する可能性が十分にあると思います。

講評には、そのためのアドバイスも簡単に加えております。

わからないことや納得のいかないことがあれば、私の方まで直接ご連絡ください。できるかぎりお応えします。


お疲れ様でした。

プログレッシヴ・アンダーグラウンド・メタルのめくるめく世界:参考資料集【ハードフュージョン・djent以降】(内容説明・抄訳更新中)

こちらの記事
の具体的な内容・抄訳です。


【ハードフュージョン・djent以降】

GORDIAN KNOT
SPIRAL ARCHITECT
COPROFAGO
TEXTURES
EXIVIOUS
ANIMALS AS LEADERS
PERIPHERY
Tigran Hamasyan

(内容説明・抄訳のあるものは黒字にしています)


ANIMALS AS LEADERS(アメリカ)》


Wikipedia(Tosin Abasi)
(活動歴から使用機材まで非常に詳しい)
影響源:ジャズ〜ポップス〜R&Bなど様々
Steve VaiAllan Holdsworth、Fredrik Thordendal、RADIOHEADのThom Yorke、APHEX TWINSQUAREPUSHER、MESHUGGAH、DREAM THEATERなど


Tosin Abasiインタビュー(2014.5.14)

Javier Reyes(g)
Matt Garstka(dr)

『Weightless』は、1stの路線に慣れていた多くのファンにとって変化球のように感じられたようだ
『Weightless』では、Adam Rogers('65年生、Michael Breckerのグループなどに参加)やKurt Rosenwinkel('70年生)のような現代ジャズ・ギタリストのスタイルにのめり込み始めていた:メロディよりも(そちら方面の)コード志向になっていた:ファンの中でも賛否が分かれた(「好きでない」とはっきり言う人も「ずっとかけている」と言う人もいた)のはそのせいもあったのでは

2012年の1月にギターのみでデモを作成し(Misha Mansoorとともに7曲)、それをもとに『The Joy of Motion』を構築

新ドラマーは驚異的で、基本的なエンジニアを担当したNolly(Adam Getgood:PERIPHERYのベーシストでギターも凄い)の貢献により、過去最高にオーガニックな音色が録れた

“shred guitarist”と呼ばれるポジションを脱したかった
従来の作品に比べ音数を絞り、ブルース・カントリー・ジャズを融合させた音楽(R&B、ゴスペル、ネオソウルなどのプレイヤー)を聴いて、ジャズよりもブルースのルーツに深く分け入っていった(重音奏法や半音階などを増やした):Jairus MozeeやIsaiah Sharkey、Jimmy Herringなどを数年聴き込み、様々なことを学んだ

デモを作成し、9〜10ヶ月後に最終形を録音し始めた年には、演奏スタイルが大きく変わった(それまでは注目していなかったベンド・ビブラートに焦点をあてた)

3rdにおける最大の挑戦は精神的な対話(自問自答)だった。いろいろ考えた結果、新たなことを一からやるのではなく、AALの持ち味を精製することに努めた。それが結果として良い方に働いた。

親指のスラップ奏法を以前は多用していたが、今ではピッキングでそれをやっている(特に注目している技術ではない)。左手薬指をフィンガリングに組み込むなど、今までの作品でやっていないことを沢山導入している。ハンマリング3音に対しピッキングで2音、というくらいの比率で弾いている。
(オルタネイトピッキングではない。ハンマリングとピッキングを使い分けるやり方で、自分は“selective picking”と呼んでいる。)
「kascade」はその好例。
(マイナー3和音5種を、左手のハンマリングによる3音とピッキングによる4〜5音から構成している)
親指スラッピングも上達したが、それはシンコペーションするリズミックなフレーズをタイトに弾かなければならない時に組み込もうとしている。

「Physical Education」は、ミュートをかけたスラッピングにより、キック/スネア様のサウンドが出ている。こういうのをゆっくりめのテンポでやったのは初めてで、アルバムの中でもお気に入りの1曲。

「Another Year」は、1stの頃からあって使われていなかったアイデア(このアルバムに複数活かされている)からなるもの。
Javierの6弦による7thコード(転回形)と自分のGメジャーその他(の転回形)からできた曲で、ゴスペルなどの雰囲気がある。
なんとなく中途半端な感じがあって、使うか使わないか迷ったけれども、Mishaの勧めにより活かすことに決めた。

「Mind-Spun」は低域でのアルペジオ(多くの人は高域でやるもの)を活用したもの。スウィープとパームミュート(ギターのブリッジの部分に右手(ピッキング側)をのせて、ミュートしながらピッキングするテクニック)も使用。上がるコードと下がるコードが交互に現れる。サウンドをより興味深いものにするためだけに、シンセをユニゾンで加えている。

他のギタリストの指遣いを見て真似るしかなかった初心者の頃から、耳で聴いて分析できるようになったり、学校でコードについて学んでいく過程を通して、和音の感覚やそれを扱うセンスは随分広がっていった。「Lippincott」はオンラインで音楽を教えているTom Lippincottの名前に由来にするもの。(自分がそれまで親しんでいたメロディック・マイナーと比べ全然慣れていなかった)メロディック・メジャー(・ハーモニック・メジャー)をそこから学び、この曲でも用いている。オーギュメント・スケールも同じくらい使っている。

「Para Mexer」はJavier(素晴らしいクラシック・ギタリスト:MESTISというバンドにも所属)による曲。ドラムスを加えフルプロダクションで録音した最初の曲で、Godinがくれた7弦ナイロンギターのサウンドが素晴らしい。

新作は基本的に自分のアイデアからなるが、それを発展・結合してくれるMisha(素晴らしいプロデューサー)やNollyによるエンジニアの貢献も大きい。その意味で、自分のヴィジョンが活かされている一方で協同作業からできている作品だと言える。
『Weightless』ではそうした作業をバンド内だけでやっていたが、新作ではMisha(協同でプロデュースと作曲をした)とDiego Farias(プリプロダクションの段階で協同作曲:VOLUMESというバンドに所属)といった外部からのインプットが多い。Nollyも良いサウンドを得るための(演奏に対する指摘を含む)貢献をしてくれた。
新作は、幅広い音楽要素がバランスよく有機的にまとめられたアルバムになっていると思う。

機材の話
(Axe-FX:Daniel Kline、Ibanz TAM100のシグネチャー・ギター、Strandbergギター、Godin Multiac Grand Concert 7のナイロンギター
「Physical Education」のチューニングは通常の8弦をD♭またはC♯に下げたもので(5弦ベースの音域に近い)、そのためにRick Tooneを用いている。スケールは30インチある。)

8弦ギターは「低音が出せる楽器」としても便利だけど、3オクターブに渡るアルペジオやコード・メロディの演奏など、できることはもっと多い。出会うギターキッズは(自分が同じくらい若かったときはスピードにしか興味がなかったのに)音楽教育のことなど深い理解を求める質問をしてくる。
progressiveな音楽はこの手の音楽理解を促進するのに良い素材でもあると思う。自分たちを聴いて新たな世代のギタリストが育っていく展開にあるのではないかと思う。

世界各地で行っているギター・クリニックは、自分の音楽がギター・プレイヤーに与えている衝撃を確認する良い機会であり、「インスパイアされた」と言われるのは最も素晴らしい反応だと感じる。自分が様々なプレイヤーからインスピレーションを受け取ってきたことを考えると、自分が他者にそうしたものを与えることができるのはとても良いことだと思う。

「超絶的なプレイヤーが既にたくさんいる状況で個性を示すのは難しい」というのは確かにその通りだが、音楽にはテクニック以上に大切なものがある。音楽は競争ではなく表現。誰もが他の誰にもできないことを出来うる。

競争は成長を促すが、競争に捉われすぎると自分を見失ってしまう。
心に訴える曲を書くということが忘れられがちだが、とても大事。

「ギター雑誌の表紙を飾る」資格のある素晴らしいプレイヤーは数多い。あまり名声に捉われることのないようにしている。

過去作(1stを例にとって)では、既存のブルース・スタイル(既に素晴らしいプレイヤーが沢山いる)などのような平凡なやり方を避け、自分が良いと思える要素だけをつぎ込んだ。だから今でも面白く聴ける。新作はそういうやり方を精製したもので、ギター奏法というものについての自分の考え方がどこにあるのかということが示されている。人々がそれをどう思うかが興味深い。


Tosin Abasiの選ぶ10枚のギター・アルバム(2014.5.31)
R&Bやゴスペル、いわゆるネオ・ソウルのギタリストを沢山聴いていて、それが異なる物の見方を示してくれる
『The Joy of Motion』では音数を減らし気味:単なるスケール練習ではないリリカルな作品
Yngwie MalmsteenやGreg Howe、John Petrucciなどには衝撃を受けた:作曲・メロディ・サウンド・総合的な創造性・楽器の演奏能力などの全てを網羅している

Steve Vai『Passion & Warfare』('90):始めに買ったギター中心で、リードだけでなくリフなど、作編曲もサウンド面も総合的に素晴らしい。

Yngwie Malmsteen『The Yngwie Malmsteen Collection』('91・ベスト盤):ネオクラだけでなくブルースも素晴らしい。絶大な影響を受けた。

Greg Howe『Introspection』('93):素晴らしいメロディック・シュレッダー。歌声と激テクを両立している。大きな影響を受けた。

DREAM THEATER『Awake』('94):激しいプログレメタルでありながらPINK FLOYDBEATLESのような(ポップな)こともできる。音楽的な深さは測り知れない。Petrucciのフレーズは些細なものでも素晴らしい。『Scenes from A Memory』も素晴らしいが、自分は『Awake』が最も好きだし、最も聴き込んでいる。

Guthrie Govan『Erotic Cakes』('06):曲も演奏も圧倒的
〈このアルバムはApple Musicにない〉

Allan Holdsworth『Secrets』('89):作品はどれも素晴らしいが、これが基本の一枚だと思う。自分が初めて聴いた作品でもある。ホールズワースの存在は世界の音楽にとっての祝福と言える。

Jimmy Herring『Lifeboat』('08):R&Bやブルース方面のプレイヤーだが、メロディの考え方は現代ジャズから来ているように思われる。ギタリストの間ではあまり語られないようだが、非常に素晴らしい。

Kurt Rosenwinkel『The Next Step』('01):現代のビバップをやっていると言われるギタリスト。和音の感覚は信じられないくらい凄く、作曲能力は極めて高い。明確な調性を避けるスタイルをとり、それを聴いて自分も、定型を超えたことをやりたいと動機付けられた。ジャズにのめり込むきっかけになったプレイヤー。

Adam Rogers『Apparitions』('05):クラシックからも影響を受けた現代ジャズギタリスト。彼の作品は全て聴く価値があるが、中でもこのアルバムは必聴だと思う。

Jonathan Kreisberg『Shadowless』('11):演奏も作曲も極めて素晴らしく、全てのギタリストに各々がやってきたことを見返させるだけのものがある。どの作品も聴く価値があるが、自分はこのアルバムが好き。最初から最後まで驚異的な作品。
〈このアルバムはApple Musicにない〉

プログレッシヴ・アンダーグラウンド・メタルのめくるめく世界:参考資料集【比較的メジャーなバンド・個人篇】(内容説明・抄訳更新中)

こちらの記事
の具体的な内容・抄訳です。


【比較的メジャーなバンド・個人】

QUEENSRHYCHE
Devin Townsend
WALTARI

(内容説明・抄訳のあるものは黒字にしています)


OPETHスウェーデン)》


Mikael Åkerfeldインタビュー(2014.8.22)

OPETHはいつもプログレッシヴな要素をすすんで前面に出してきた。どのアルバムでもそうで、『Pale Communion』(11th:'14年発表)はそうした漸進的研鑽の頂点にある作品なのだろうと思う。これはバンドとしての意識的な方向性なのだろうか。それとも、もっと本能的な何かが徐々に表れてきたということなのだろうか?〉

そうだね… バンドの経歴と作品を分析してみれば、それぞれの作品の間で起きた進歩とか、一連の作品がどういう関連性を持っているかということが確かに聴き取れるけれども、それは意図的になされたものではないんだよ。自分は、その時々に聴いているものとか、例えば「今日はJUDAS PRIESTの『Sad Wings of Destiny』が聴きたいな。うん!なんて素晴らしい作品なんだろう!」というような、ほとんどDNAみたいになっている(昔から聴き込んで“血肉化”している)ものに、間違いなく影響を受けている。作品の間で起きた進歩というのは、たとえ進歩的なものにしようと願っていたのだとしても、よく考えてなされたものではない。これは質問としてはとても単純なんだろうけど、答えるのはクソ難しいことなんだよ。

〈もう少し地に足の着いた話から始めるべきだったかな(笑)〉

(笑)そうだね、「そっちの天気はどうだい?」とか。
(註:電話もしくはメールインタビューなのだと思われる)

〈こうしたことはあなたの書く曲にハッキリ表れているから、OPETHの音楽がよりダイナミックなものに変化していくのは驚くべきことではない。意識的にしろ無意識的にしろ、何かに影響を受けると創るものにも影響が出るから、そうした影響がどのようにして創作物に浸透していくのかということを観察するのはとても面白いんだ。プログレッシヴ・ロックは、あなたが一番はじめにハマったものなのかな?それともだいぶ後で見つけたものなのかな?〉

うちは音楽一家じゃなかったし、ロックに関しては特に縁がなかった。THE BEATLESの『Abbey Road』('69年発表)- 彼らの最後の作品でかなりプログレッシヴな、間違いなく世界最高のレコードの一つ - だけはあったけど、プログレッシヴ・ロックは、基本的には、自分の手で見つけたものだったんだ。自分はヴァイナル(註:LPなど、塩化ビニール製レコードのこと)からCDに完全に切り替えたことがない。それどころか、CDメディアが出てきた頃はレコード店のヴァイナル売り場に行って、ヴァイナルをタダ同然で手に入れていたものだよ。その頃も今も自分はヴァイナルの方が好きだ。CDメディアが出た頃は、みんなヴァイナルのコレクションを手放していた。自分のような人間がそれを二束三文で買い漁っていたというわけだ。

自分はBLACK SABBATHの大ファンで、関連記事の切り抜きを集め、レコードやポスターなど、買えるものならなんでも揃えていた。このバンドに関するものならなんでも集め、カッコイイと思っていたんだ。SABBATHはルックスが良いと思っていたよ。LED ZEPPELINBLACK SABBATHはルックスが良かったし、当時は自分もそういう格好をしたいと思っていた。ラッパズボンを買って、ヒッピーみたいに見えるようにしていたんだ。そういうこともあって、正直に言えば、ヴァイナル・ショップに行ったらそういう格好をしたメンバーのいるバンドを探していた。YESのレコードを見つけたときは「おお、SABBATHみたいなアルバムカバーだな。長髪だし、カッコイイズボンを履いてる」と思ったから、2ドルかそこらでそれを買った。『Time And A Word』('70年発表)か何かの初期作品だったな。そしてこう思ったよ。「クソッ、大好きだよコレ。素晴らしい。」
このアルバムは1969年か1970年あたりに出たものだった。そして、その次に、「アルバムカバーに絶叫している顔が載っているこのバンドはなんだ?」というレコードに出会った。1969年に出たもので、自分はそれを聴いたことがなかったんだ。バンドの名前はKING CRIMSONと言った。(註:1st『In The Court of The Crimson King』のこと。)レコードは2ドルだったから、「いいだろう、これも買おう」となったんだ。こういう感じのことをどんどん繰り返していった。レコードを手に取ることから始めて、良いレコードを買うことで学んでいったんだ。メンバーが着ている服を見る必要はもうなかった(笑)レコードのジャケットを見て、芸術的だったり風変わりだったりするアートワークがあって、'71年頃に録音されたものだったら、たぶん良い作品なんだろう、というように。そうやってあらゆるものをタダ同然で手に入れていった。GENESIS、CAMEL、VAN DER GRAAF GENERATOR、といったバンドを発見していったんだ。こうしたことと並行して、同時代のバンドであるDREAM THEATERにも出会った。DREAM THEATERは自分が発見した先述のバンドに影響を受けていたし、自分は大ファンになった。だいたいこんな感じかな。

〈RUSHもそうしたバンドの中の一つだったのかな、と訊かなけれなならないな。〉

うん。でも、自分はRUSHのことをいつもハードロックバンドだと考えていた。プログレバンドだと見なしたことはないよ。彼らのレコードで最初に買ったのは『Moving Pictures』('81年発表)で、ポップな曲よりも「YYZ」の方に惹きつけられた。変な拍子(註:5拍子など)があったし、少し邪悪な感じもしたからだ。RUSHのそういう曲にはBLACK SABBATHを連想させる和音がある。そういう邪悪な和音も使っていたね。自分はもっと後にVOIVODも聴くようになるけど - これは別の話だね - RUSHは自分にとってはハードロックバンドなんだ。DEEP PURPLEみたいな。(プログレとは)ちょっと違うんだよね。

〈あなたの幅広いボーカルスタイルはあなたのトレードマークみたいになっていて、あなたは様々なプロジェクトでそれを示してきているけれども、最初にそれをやったのはどこなのかな?そのボーカルスタイルをいつ発見して、どうやって発展させてきたのだろう?〉

うーんとね、今日の夕飯はたまたま母親と一緒だったんだけど、彼女は(Mikaelのことを)とても誇りに思ってくれてるんだよ。以前は何度も「Mikael、ちゃんとした仕事に就きなさい」と言われたけれども、今では誇りに思ってくれているし、だいたいこんなふうに言ってくれる。「おまえは小さい頃からよく歌ってたよね。私と一緒に童謡を歌ってたりしてた。」で、自分が「そうだね」と返すと、「そうよ、子供らしく本当に高い声で歌ってた。本当に素晴らしかったけど、あるとき突然歌うのをやめてしまったよね。そして今まで殆ど歌うことがなかった」と言ってくるんだ。これは興味深いことだね。自分はシンガーになりたかったという記憶がなく、いつもギター・プレイヤーになりたいと思っていたから。自分はリードギター・プレイヤーになりたくて、勉強とか最初の仕事を放っぽり出して音楽や演奏に取り組んでいた。そして、練習をするよりもリフを書くことに多くの時間を費やしていた。
たしか13歳か14歳のときに、VAN HALENの曲名からとった(笑)「Eruption」という名前のバンドを結成した。VAN HALENはデカいバンドだったけど、彼らからの影響は全くなかったね。SACRED REICHみたいなブラック・スラッシュをやりたかった。このバンドは基本的には3人組だった。自分と友達2人。「誰が歌う?」と言い合って、友達2人が「そんなのごめんだ」と言ったから、それで自分が「わかった、それなら俺だな」ということになったんだ。自分は、バンドの中心的な存在になりたかった。リードギター・プレイヤーな上にシンガーでもある。カッコイイじゃないか。唯一の問題は、自分は歌えない、ということだった。歌う能力がなかったから。バンド初期のレパートリーはMISFITSやGlenn Danzigの曲だった。少なくとも自分達が選んだ曲においてはDanzigの声はバリトンの低音だったし叫んだりもしていなかったから、凄く歌いやすかったんだよ(笑)MISFITSの曲をやっているうちに、自分達は結果的にいろんなタイプのスクリーム(註:いわゆるデスヴォイスなど、歪んだ響きの歌い方のこと)をこなせるようになった。声を無理に使っていなかったから、良い叫び方を見つけることができたんだ。
OPETHを始めた時も、自分はシンガーではなかった。はじめはベース・プレイヤーで、他にシンガーがいたんだけど、彼が脱退してしまったから、また同じように「おまえが歌えよ」と言われて「わかった、リードシンガーをやるよ」ということになったんだ。そうこうして、デスメタル・スクリームができるということに気付いたんだ。
スクリームはそうやって身につけたんだけど、MORBID ANGELやDEATH、AUTOPSYやENTOMBEDなどを好む一方で、自分はクラウス・マイネ(SCORPIONS)やデイヴィッド・カヴァーデール(WHITESNAKE / ex. DEEP PURPLE)を崇拝していた。イアン・ギラン(DEEP PURPLE)やブルース・ディッキンソン(IRON MAIDEN)、ロニー・ディオ(DIO / ex. RAINBOW、BLACK SABBATH)も。そういうシンガーが自分の好みで、そういうふうに歌えるようになりたくて成長していったんだ。(OPETHの)最初の1枚では邪悪なパートと対比するものとしてこういう歌のパートを入れていて、次のアルバムではそういう歌のパートを増やし、その後はもっと増やしていく…というふうになっていった。16歳のときよりも良いリードシンガーになっているという自信があるよ。誇張抜きに。でも、そうなるためにはたくさん練習しなければならなかったんだよ。
人前で歌う姿を誇示するというのはとても思い切った行為だ。歌というのは、音楽における感情というものに、ギターなどと比べてもおそらく遥かに大きく影響するパートだからだ。感情を生み出すのはボーカル。自分はそれを磨いてきたんだ。他のシンガーを加入させるという選択肢もあったけれども、しばらくしたら自分でやりたくなった。シンガーになりたかったから、自分を励まし、自分は自分で思っている以上に良いシンガーなんだと信じ込むようにした。

〈バンドを長続きさせようとするにあたって大事なのは、外界の影響や雑音に惑わされず、ただやりたいことをそのままやる、ということだと思う。これはOPETHにも通じることだと思うし、実際OPETHは、特定のジャンルやファン層におもねることなく独自の創造的欲求を追求し続けてきている。OPETHサウンドの進化の背景にあるのは、(既存の)プログレッシヴ・ロックへの志向なのかな?それとも、創造性の停滞に抗うプログレッシヴ(進歩的)な創作姿勢や、より多様な要素を持ち込もうとする動きがあるということなのだろうか?〉

まったくもってその通り。(註:〈それとも〜〉以降への同意。)「プログレッシヴ」というのは自分にとってある種の自由をさす言葉だ。一方、その言葉を、特定のスタイルや音楽ジャンルを表すものとして使い(Mikaelの言うそれと)混同する人達もいる。そういうスタイルやジャンルも格好いいと思うけれども、自分にとっては、そして自分自身の音楽について話す場合は、“プログレッシヴ”というのはやりたいことをやる自由を感じさせてくれるものを指すんだ。自分を取り巻く状況はこんな感じ。で、自分たちの音源について誰かが「こんなのはクソだ」と言ってきたとしたら、その作品はそういう人々のためのものではないんだなと思う。ライヴではヘマをするかもしれないけど、音源は良いよ(笑)自分にとってプログレッシヴ・ロックというものは、ジャンルを自在に横断して、どこから来た要素なのかを問わず影響として取り込んでしまう自由なものなんだ。古めかしく聴こえてほしくはない。新しい感じのものでありたいんだよ。影響源の殆どが昔の音楽だというだけのことさ。

〈あなたはOPETH以外にもBLOODBATHやKATATONIA(註:こちらはライヴのサポートメンバーのみ)など無数のバンド・プロジェクトに参加し、今世紀のヘヴィ・ミュージックに大きな影響を与えてきた。あなたが最初にヘヴィ・ミュージックに関わったときから、このシーンはどのように進歩・発展してきたと思う?〉

正直言って、自分は回答者として適任とは思えない。自分のやりたいことにこだわり抜くタイプの人間だから。影響源の90%は60年代や70年代の音楽だし、バンドの活動を振り返ってみれば、多くの変化や出来事があった。ヨーロッパ、特にスカンジナビアでは、ブラックメタルのブームがあって、音楽史的にもこれは重要な時期だったと思うし、自分達もそのさなかにいた。しかし、興味深かったそうしたことも、数年もすれば変わっていってしまった。現在のヨーロッパ〜スカンジナビアにはある種のリバイバルシーンがある。自分が聴いて育った80年代のバンドに似たリバイバル・バンドがいて、それも格好良いとは思う。ただ、自分にとっては、あなたが先に(このインタビュー中の質問として)挙げたRUSHのように、あまり重要とは思えないものなんだ。
自分達は他のバンドのやっていることをちゃんと意識して見ているけれども、特定の流行とかシーン、それに類するものに乗らなければいけないと感じたことはない。自分達自身のことをやってきただけだし、今でもそうし続けていると思う。自分達自身にとって正しいと思えることから離れるのには興味がなく、そしてその“正しいこと”はその時々に応じて変化していく。『Deliverance』(6th:'02年発表)と並行して製作し対をなすアルバムとした『Damnation』(7th:'03年発表)は、それがまさにその時やるべきことなのだと思って作ったものだったし、その後様々な音楽的変遷を経て作った『Heritage』(10th:'11年発表)も、その時の自分達にとっての“正しいこと”だったんだ。これから新作(『Pale Communion』)が出るけれども、自分達はそれに思いっきり打ち込んでいて、自分達自身がやるべきことをやっている。そして、こういうことをやっているのが自分達だけだという状況も気に入っている。自分達と同じことをしているバンドは存在しないと思うし、同じようなディスコグラフィや進化の過程を経てきたバンドもいないと思う。自分達はただ自分達自身のことをやっているだけなんだ。

〈それは多くのOPETHファンにアピールすることだと思うよ、Mikael。バンドが長年かけてやってきたサウンドの変化を好まず・理解せず中傷する人々も必ず現れるわけだけれども。実験や変化にはちょっとしたリスクがつきまとう。特に、初期からOPETHのファンだったような層においては。〉

自分達はまだしっかりメタルシーンに属していると思うし(註:メタリックな要素を減らし70年代ロック(ハードロックとプログレッシヴロックの境目が曖昧だった頃のもの)に近いスタイルに寄ってきているとはいえメタルから離れているつもりもない、ということだと思われる)、メタルシーンはとても興味深いところだと思う。ただ、一方でとても恐ろしいこともある。メタルバンドがもはや実験というものをしようとしない、というのにはちょっとガッカリさせられるね。特にメタルシーンの中においては、これはとても奇妙なことに思える。メタルというのは反抗的な音楽形式だと思うんだけど、それに携わる人達はそれにやすやすと満足し安住してしまう。多くのバンドが結成され、(はじめは)貪欲でやる気があって、自分達の音やあらゆるものを用いて世界を征服してやろうとするんだけども、作品を3枚も作れば「よし、このサウンドのままであと10作品作ろう」というふうになる。自分達はそういうバンドとは一線を画し続けてきた。自分達の音楽の中でやったら面白いだろうなということを探し、古い音楽からも新しい音楽からも新鮮な影響を取り入れようとすることで、新たなやり方を追い求め続けているんだよ。自分はバンドを停滞させたくないし、安心してしまうのもイヤだ。ルールに従って演奏するのはイヤだし、外野の要望に影響を受けるのも好まない。ファンの意見に屈したくはないね。常に興味深く芸術的な本物でありたいんだ。1stアルバムでやったことのように、無邪気で実験精神に満ち、常に意欲をたぎらせていた19歳の頃の気分を保っていたい。バンドの一員でいて、バンドを長続きさせ、飽きるということがないようにするための唯一の秘訣は、自分自身にハッパをかけることだ。落ち着いてはいけないんだ。
バンドというものがある種のプロフェッショナルなあり方を続けていくのはとても簡単だと思う。ツアーをし、住まいを確保して、銀行に預金を貯める。スタッフを引き連れ、キャリアを築き上げる。貪欲であることとか、創造性あふれるアーティストでありたいという欲求は、バンドをこういう会社みたいなものとみなして市場調査をしたりしていくことと引き換えに失われるものだし、それは自分にとっては身の毛がよだつくらい恐ろしいことだ。OPETHが会社みたいなものになるのを見るくらいなら死んだ方がマシ。自分達のやっていることには確かにビジネスの側面もあるけれど、音楽がそういうクソなものに成り果てることはありえない。OPETHの音楽は、常にあるべきかたちの興味深いものであり続けているし、自分達をミュージシャンとしてもバンドひとまとまりとしても前進させ続けてくれている。OPETHを企業みたいなバンドとかトレードマークとしてみなすことは今後もないね。この業界にいれば、自分達のバンドをブランドとしか見なしていなくてそのブランドのために音楽をやっている、というようなクソマクドナルドみたいなヤツらが沢山いるのがわかるよ。メタルバンドでもそういうのが多い。

〈あなたがそうしたことについて情熱的でブレないということはとても良くわかった、Mikael。その上で興味深く思うことなんだけど、『Orchid』(1st:'95年発表)から『Pale Communion』(11th:'14年発表)に至る進化の過程において、あなた個人の音楽一般に対する関わり方はどんなふうにあり続けてきたと思う?〉

総合的に言えば、音楽というものは自分にとって一生の恋人みたいなものだ。それか、食べたり飲んだりすることのようなもの。うぬぼれているように聞こえるかもしれないけど、「人生において、自分が幸せになるために音楽というものは本当に必要なのか?」と考えたことが何度かある。プレイステーションのゲームをしたりしていても幸せを感じられるからね。「(音楽を作るんじゃなくて)ゲームをしたり、ただレコードを集めていたりするだけでもいいんじゃないか?」と考えてきたわけだ。でも、そう考え始めると間もなく「ええい、クソッタレ。スタジオに行くぞ。曲を書きたいからな。ギターを抱えて腰を下ろし、何かやりたいな」というふうに考えていることに気付く。いつもそうだったわけじゃないよ。4歳くらいの頃はサッカーやテニスをやっていた。けれども、自分が曲を書けるということに気付き、実際書き始めたら、そうすることが大好きなんだってわかったし、自分を解放してくれることなんだということもわかったんだ。これは、「自分は価値ある存在なんだ」という実感を初めて与えてくれたことでもある。率直に言って、自分は他のことはうまくできないんだ。曲を書くということが本当に大好きだし、自分の書いた曲を振り返ってみると、「クソッ、幸せだ。何もないところからこんな曲を書き上げたんだぞ」と思う。その上、この世界には「あなたの書いたこの曲が大好きです」と言ってくれる人達がいる。なんて素晴らしいんだろう。これこそが自分の必要としていることなんだ。とても良い気分にさせてもらえる。こうしたことを自分から切り離したとしたら、もう自分は自分でなくなってしまうね。自分をよく知ってくれている人達に「Mikaelについて考えたときまず思い浮かぶことは何?」と聞いたら、全員が音楽関連の何かを挙げるだろう。それが一番大事なことなんだ。自分の音楽は自分と同義の存在になってきているし、そしてこれはもう自分だけのものではない(他の人にとっても意義のある音楽なんだ)よ。
自分は音楽を消費し続けている。おそろしく膨大な量の音楽を。音楽を消費し、音楽を聴き、怒ったり荒れ狂ったり幸せだったりするその時々で音楽を愛する。音楽は、自分の人生の(過去の)その時々をあらわすものになってもいる。音楽は決断の後押しをしてくれるし、何かをしないようにしむけたり、するようにしむけたりすることもできる。様々な状況に導いてくれるし、自分を救ってくれさえしうる。音楽は自分にとって大事なものだから、音楽が好きでない人は自分と関係があるとは思えないし、そうした人に親近感を覚えることもできない。感じのいい人と話していても、「音楽には興味がないね。これは自分に限ったことじゃない。」なんて言われたら、(性別を問わず)その人と友達になることはできないだろう。音楽は自分にとって本当に大事なものなんだ。


Mikael Åkerfeldインタビュー(2015.5.8:川嶋未来
日本語記事。VOIVODやBATHORYの影響がとても大きいという話など、非常に興味深い内容です。



〈昨年数回開催されたバンド20周年記念公演は、あなたにとってどんな意味をもつものだった?〉

結局ふつうの小規模ツアーみたいなものになったよ。もともとそういうことをやるつもりはなかったんだ。当初はバーに集まって5人でパーティーみたいなことをしようと考えていたんだけど、最終的には大会場でライヴすることになった。とても楽しかったけれど、パブみたいなところで数曲やって済ますという最初の呑気なアイデアからはかけ離れた感じになったね。
20周年記念の何かをやったというよりは、単に良いライヴを数本やっただけのことだと思っている。

〈主に「デスメタル・ボーカルが入っていない」という理由から『Heritage』('11)を『Damnation』('03)と安直に比較する意見も多い。この比較は適切だと思う?〉

イエスでありノーでもある。(新譜『Heritage』と)『Damnation』との共通点は、スクリーム(叫び声)が入っていないということだけだ。他に似ているところはあまりないと思うよ。正直言って。
『Heritage』は(『Damnation』よりも)自分が発想の源として聴いている音楽に近いと思う。正直言って、どんなアルバムと比べられようが気にならないよ。『Damnation』と比べるのがわかりやすいんだろうけど、この2作の共通点は「スクリームがない」ということだけだと思う。

〈曲作りをしていてアルバムの全体像が見え始めたのはいつ頃だった?例えば、『Heritage』の曲を書いていて、このアルバムにスクリームは入らないということや、プログレッシヴ・ロック色の強い音になるだろうということがわかったのはいつ頃だったのかな?〉

当初はもっと現代的な音にするつもりだったんだ。『Watershed』(前作:'08)の続編という感じで。3声のハーモニーをずっとやりたいと思っていたんだよね。メタル版THE BYRDSというか(笑)でも、それはうまくいかなかった。何曲か書いてみたけど、自分にとって十分興味深い仕上がりにはならなかったんだ。
というわけで、それらを放棄してまたイチから曲を書き始めた。そうしてまずできたのが、新譜に収録された「The Lines in My Hand」だったんだ。これは本当にヘンな曲で、自分がこれまでに書いたどの曲とも違うふうになっている。
その曲を書いたら、やりたいことを何でもやれる自由な気分が増してきた。その頃になると、これはヘンなアルバムになるだろうなという予感がし出したし、一番エクストリームでヘヴィなメタルをやろうということにはあまり関心がなくなり、もっと他のことに興味が移っていた。つまり、この作品が超エクストリームなメタルアルバムにならないということは、かなり早い段階でわかっていたというわけだ。

〈このアルバムは、あなたがメタル以外の音楽から受けた影響を幅広く示すものになっている。たとえば「Folklore」にはPINK FLOYDデヴィッド・ギルモア(ギター)の影が窺われる、というふうに。あなたが大きな影響を受けたメタル以外のプレイヤーは誰だろう?〉

そうだね、ギタリストについて言うのなら、良いプレイヤーは本当に沢山いるよ。アコースティックでいうなら、バート・ヤンシュ(Bert Jansch:英国のフォークロックバンドPENTANGLE創立メンバーの一人)、ニック・ドレイクNick Drake)、ジャクソン・C・フランク(Jackson C. Frank:米国フォーク:先の2名にも影響を与える)など。ジェリー・ドナヒュー(Jerry Donahue:英国のフォークロックバンドFAIRPORT CONVENTIONに在籍)も大好きだ。
リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore:DEEP PURPLE〜RAINBOW〜BLACKMORE'S NIGHT)からは大きな影響を受け続けているよ。彼の高潔さは尊敬に値する。彼が今(BLACKMORE'S NIGHTで)やっているルネサンス音楽についてはそんなにファンではないけれども、自分の衝動に従って活動し続ける芸術家・音楽家は大好きだ。
他にも素晴らしいギタリストは沢山いる。ジョニ・ミッチェルJoni Mitchell:主にフォーク〜ジャズのフィールドで活動した20世紀を代表するロックミュージシャン)はギタリストとしてもピアニストとしても作曲家としても素晴らしい。彼女のあらゆる作品を聴き続けているよ。

リッチー・ブラックモアについていうと、ロニー・ジェイムス・ディオHR/HMを代表する超絶シンガーでRAINBOWにも参加)に捧げた「Slither」は、明らかにRAINBOW的な感触を持っている。この曲の方向性について、彼らの影響はどのくらい意識した?〉

何か曲を書こうとしてスタジオでダラダラしていたんだ。ストラトキャスター(ギター:リッチーが好んで使うモデル)を弾いていたら、在りし日(RAINBOW時代)のブラックモア的なサウンドが生まれた。それを続けた結果(この曲の)フレーズができた。とても格好良いと思えたよ。
この曲は完全にRAINBOWの模造品だけど、ディオが亡くなった(2010.5.16没)ことを考えれば、それは正しいことだと思える。まわりに絶大な影響を与えた彼へのある種のトリビュートになったわけだ。こういうダイナミックな曲は好きだし、それがアルバムに入るのは良いことだと思う。ふざけている一方で真剣でもある曲なんだ。

〈アルバムを作るにあたって何らかの計画を立てたりした?〉

そうだね、実際たくさんの計画を立てていた。リズムセクションの音を分厚くしたかったから、ベースギターの音を前面に出そうとした。殆どのメタルでは、ベースギターは基本的には存在感がない。ステレオ再生装置で低音域を強くすればやっと聞こえるようになる、という感じだ。
多くの曲では、リズムギターではシングルコイル(明るく透明感のある音を得やすい構造)のピックアップを使っている。なんでそうしたかは自分でもわからない。メサブギー(Mesa Boogie)タイプの厚いギターサウンドに飽きていたというのはある。このアルバムではそういうのとは真逆の方法でやりたかったし、この手の音楽においてそれは正しかったと思う。全ての要素が以前よりクリアに聴き取れるようになっているよ。
先に言ったように、自分は最近のメタルのプロダクションに飽き飽きしている。正直言って嫌いだし、ちょっと違ったことをやりたかったんだ。
ただ、ギターの種類について言うと、あらゆる類のものを使っている。PRS(Paul Reed Smith)ギターはたくさん使ったし、ストラトキャスターはもちろんテレキャスターも使っている。ギブソンも。良いギターの音がたくさん入っているよ。

〈アンプやエフェクトについては?〉

マーシャル800の2チャンネルのやつを使っている。友達から借りたんだ。とても良いアンプで、気に入ったから殆どの曲で使うことになった。クリーンな音が欲しいところではフェンダー・デラックス、たぶんツインリヴァーブのものを使った。これはスピーカーが壊れていたので、ラインを通して他の機材から出力した。
ギブソンのとても古いアンプも使っている。古いトランジスタみたいな感じで、誰かが上にクソをしたような見た目をしている(笑)だけど音は素晴らしいよ!ぞんざいに扱ったのにとてもスウィートな音を出してくれた。これは50年代に作られた機材に違いないと思う。アルバムの至る所で使っているよ。

〈ラインナップの変更というのはバンドの歴史につきものだ。その時々のメンバーが音に及ぼした影響はどれほどのものなのだろう?彼ら単独のインプット、またはあなたとの共作を通して。〉

自分は曲のデモを作るようにしている。基本的には、アルバムのデモ・バージョンを作るんだ。いろんな楽器を使って曲を作る。キーボードやドラムス、もちろんギターやベース、ボーカルも。自分(一人)で出来る限り良いものを作り上げようとするんだよ。他のメンバーを威圧したいわけ。「うわっ、これに勝つには相当良いものを持ってこなければならないな」というふうに思わせたいんだ。
そうなるとうまくいくんだよね。彼らが自身の持ち味をアルバムに持ち込んだり、そのアルバムを“彼ら自身のアルバム”にしようとすることで、先述のデモアルバムを超えるものが生まれるんだ。それが良いやり方なのかどうかはわからない。長い目で見たらどうなのかわからないけれども、このアルバムについて言えば、本当にうまく行ったと思う。

〈バンドで共演したギター・プレイヤーのうち、ギタリストとしてのあなたを刺激してくれた人はいた?〉

いや、いない。以前は今より「自分はギター・プレイヤーだ」という意識が強かったけれども、今では自分は(ギター・プレイヤーというより)ソングライターなのだと思っているし、フレドリック(Fredrik Akesson)にギターパートを譲っても何の問題もない。彼がそこで何かができると(Mikaelが)感じたならね。彼の方が上手くできるだろうパートについて争うつもりはないよ。
それはともかく、自分たち2人は強力なチームだと思っている。スタイルの違いをうまく補い合えているよ。このアルバムについて言うと、自分は全てのアコースティックギターを演奏したし、フレドリックは主に高速の刻みを担当し、その上でブルースやジャズなど何でもやってくれている。
自分たちは互いを刺激しあっていると思うけれども、だいたいの場合は、自分はただ求める結果に到達したいとだけ思っている。自分をギター・プレイヤーと考えてはいない。自分たちのやることについて、どうすればそれがうまくいくのかということの方を考えているんだ。

〈フレドリックのギターソロについて何か指示することはある?それとも、それぞれの曲に合うだろうフレーズをフレドリックが作るのかな?〉

自分がデモを作ったら(そしてそれをフレドリックに渡すとき)、たとえば「Slither」については、「こういう曲があるんだ。ここにブラックモアみたいなソロを入れてほしい」と言って、彼はその通りやってくれた。「Nepenthe」だったら「よし、アラン・ホールズワースAllan Holdsworth:この曲のソロはホールズワースから影響を受けたMESHUGGAHの「Organic Shadows」によく似ている)風でお願い」という感じ(笑)
でも、基本的には(こういうふうに)アイデアを示すだけだね。フレドリックは即興が非常に上手い。10回ソロをやったらその全てが違う仕上がりになるんだ。その中から曲に一番合うものを選ぼうとするんだけど、とても難しい。全部良いからね。最終的には、2人の合意のもと、一番合うものを選ぶんだけど。
ギター・プレイヤーの多くはソロのことしか考えない。曲のことを考えず、ただ早弾きしたがる。自分は曲のソロパートを味わい深い良いものにしたいし、その意味において、フレドリックとの作業はとても快適だ。彼は自分たちがやっていること(曲など)を理解してくれるからね。

〈多くのバンドは、標準的な音楽性から外れることをやるとファンを遠ざけてしまう危険を冒し、袋小路にはまり込んでしまうものだと思うんだけど、OPETHの場合は、創造的な方向性がどんなものであろうとそれをうまく提示できるようだ。OPETHという枠内で出来ないことはあるのだろうか?〉

OPETHはとても自由なバンドだよ。どんな方向性でもイケると思う。ただ、そぐわないだろうと思う方向性もある。レゲエ・アルバムとか(笑)グラインドコアのレコードは作ろうと思わないな。
自分は音楽から満足感を得たいんだ。要領を得ない音楽は好きじゃない。自分が作る音楽は、自分が耳にしたい音楽、自分が聴き込みたい音楽であってほしい。アルバムを(無為に・“お仕事”的に)生産しようとは思わないし、“史上最もブルータルでエクストリームなメタル”というようなことを言うつもりもない。そういう言い方は自分にとっては何の意味もないし、単なる言葉に過ぎない。感じ取れる音楽が好きなんだよ。(言葉で)説明しきることはできない、ただただ寄り添ってくれるような音楽が。
そういう音楽を提供できるうちは、そのこと以外の問題はない。自分がそういう音楽を作れなくなったら、バンドを続けることはできないだろうね。だから、全てのアルバムが“最後の作品”だ、と言うこともできる。

〈次の作品がどうなるかというアイデアはある?殆どのファンが「またスクリームを聴くことはできるのだろうか」と考えているはずなんだけど…〉

それは確約できないな。自分は直感に従って音楽を作るから。ただ、最近は、そういうタイプの歌い方にはあまり興味がないんだ。もう長いことやってきたし、これ以上発展させることもできないと感じてもいる。発展させられないことに関しては興味を失ってしまう質なんだ。
作曲能力やクリーンな歌い方(歪みを加えないメロディアスな歌唱スタイル)の技術は絶えず良くなり続けていて、自分にとってどんどん興味深いものになってきている。最もエクストリームでブルータルな歌い方はもうやってしまったし、既に過ぎ去ったことのように感じている。
ただ、これは自分たちにとってのルーツのようなものではある。そこに逆戻りするというのはイヤだけど、音楽が自然に求めるようになれば、再び使うことになるだろう。だから確約はできない。スクリームはこれ以上良くならないけどね。だからと言って前よりヘタになるということもないけど。


Mikael Åkerfeldインタビュー(2003.2.10)

《序文》
Mikael Åkerfeldがギターを弾き始めたのは1986年のことだった。それから間もなく、彼は最初のバンドERUPTIONを結成し、BATHORYやDEATHなどのカバーをやっていた。
David Isborgという友人がMikaelに紹介したMEFISTO(註:スウェーデンスラッシュメタル〜プレ・デスメタルにおける最も重要なバンドの一つ)のデモ『The Puzzle』では、デスメタル・ボーカルとアコースティックパート、そしてギターソロが巧みに融合されており、それが新たなバンドOPETH(Wilbur Smithの著作に出てくる月の都市「Opet」が語源)の誕生につながった。
OPETH(註:1990年結成)のメンバーは入れ替わってきているが、1991年に加入したPeter Lindgren(ギター)は今も在籍している。

OPETHのデビューアルバム『Orchid』は1994年に発表され、バンドは続く1996年の2ndアルバム『Morningrise』によりアンダーグラウンドシーンで初めて注目を集めることになった。続く3rdアルバムの録音に先んじて、バンドにMartin Lopez(ドラムス)とMartin Mendez(ベース)が加入した。Mendezには曲を覚える時間がなかったため同作のベースはÅkerfeldが弾いているのだが、その『My Arms Your Hearse』(1997年)は、音楽誌とファンの両方から“この時点での最高傑作だ”という評価を得た。

Candlelight Recordsとの契約を満了し、Peaceville Recordsと新たな契約を結んだのち、1999年の『Still Life』(4th)の製作が始まった。同作はバンドにとってその当時最も成功した作品となったが、彼らを新たな次元に押し上げたのは2001年の『Blackwater Park』(5th)だった。このアルバムのサウンドと発想の主な影響源となったのは、共同プロデューサーを務めたSteven Wilson(PORCUPINE TREE)だった。

昨年(2002年)、Åkerfeldの大胆な計画である“対となる2枚のアルバム”のうちの第一弾『Deliverance』(6th)が発表された。これはファンが待ち望んだ類のものだった。OPETHの歴史上最も売れた作品というだけでなく、全ての人に満場一致で受け入れられたものである、というのは言うまでもないことだろう。

《本編》
(このインタビュー記事の書き方はやや特殊で、記者が現場で行った質問が“会話の流れを説明する”短文に入れ替えられ、正確な質問内容がつかみづらくなっています。この稿では、その部分をできる限り質問文の形に寄せて訳すように努めています。)

オーストリアグラーツアーノルド・シュワルツェネッガーの故郷)で、MADDER MORTEMノルウェーのバンド)とのツアー中だったMikael Åkerfeldをつかまえ話を訊くことができた。〉

今日は(このツアーの)10回目のギグだね。そしてこれから4週間ツアーが続く。やることが沢山あるよ。でも、全てがとても上手くいっている。イタリアとスペインにも行くしフランスでも数回ギグをやる。みんな明らかに疲れてはいるよ。アメリカで数週間ツアーをやった後、このヨーロッパのツアーに出るまでの間に2日しか休みをとってないからね。デビュー時を除けばこれまでやってきた中で最も規模の大きいツアーで、来年までびっしり予定が埋まってる。異様なまでに忙しいよ。自分は怠け者だからなおさらそう思う!

OPETHの知名度や評価は少しずつ着実に増してきていたけれども、『Deliverance』の好評価はMikaelにとっても驚きだったのではないだろうか?〉

レビューは好評なものばかりだし、ファンも気に入ってくれているようだ。ライヴでもとても上手くやれているよ。関係すること全てがおそろしく上手くいっている。つい先日は、『Deliverance』がスウェーデングラミー賞における「ベスト・ハードロック」のカテゴリを受賞したんだ!スウェーデンのラジオ・アワードも獲得した。自分達のようなガレージ・バンドにとっては過分なことだね。そうしたことに関係するようなもの(音楽要素など)は我々のバックグラウンドにはないから、賞、特にこういう類のものをもらうというのは、とても奇妙なことに思える。自分達の本当の姿とは大きく異なることだし。

OPETHは「ガレージ・バンド」の枠を完全に越えているという意見も多いだろうけど、Mikaelは依然として「OPETHアンダーグラウンドなバンドだ」と強調している。〉

OPETHは間違いなくアンダーグラウンドなバンドだと思うし、スーパースターとかそういう類のものになろうと考えたことはない。自分達は音楽をやるのが好きなミュージシャン、というところだね。自惚れてはいないし、楽しく過ごして音楽をやりたいだけなんだ。こういうことを本当に長いことやってきたし、それ以上のことはあまり気にしない。ただ音楽をやりたいだけ。それが全てだ。ビジネス関係のことには興味がないし、OPETHOPETHらしくやれているかとかその他諸々のことは気にしない。楽しくやりたいだけだ。

〈『Deliverance』は当初2枚一組のアルバムの1枚目に予定されていたもののようだね。Mikaelのはじめの計画では、文字通り2枚組として発表されるはずだったとか。〉

『Damnation』の発売は延期され続けてるんだよね。現時点では5月に発売される予定だ。レコード会社は発表を遅らせ続けている。自分のアイデアは「『Deliverance』と同時発売する」というものだったんだけど、レコード会社はあいだに時間をおいてそれぞれのアルバムを十分に宣伝できるようにしたかったみたいだ。そうすれば両方の作品について別々にインタビューをやることができるし、両方のアルバムに注目を集めることができる、というわけ。『Damnation』はもともと3月に発売される予定だったと思うんだけど、我々のマネージャーは5月まで延期させたがった。『Deliverance』のツアーをやりすぎていて『Damnation』用のインタビューをする時間がとれていなかったからね。

〈音楽の歴史を遡って見ると、2枚組アルバムを発表するということは、レコードレーベルからするとある種の“大罪”となることが多い。彼らの考え方(マーケティング・売上・長持ちするか否かということなど)は「2枚のアルバムを同時に出すのは、聴衆からすると過剰に感じられることなのではないか」というものだ。一度に吞み込むには分量が多すぎるだろう、ということ。〉

自分もそう考えた。しかし、この2枚のアルバムの音は大きく異なっていて、別のバンドの作品のようにも思えるものになっている。同じような音楽が2時間も続くものではない。『Damnation』の長さは約40分で、我々の過去作のどれとも全く違う音楽性になっている。全然違うバンドみたいだよ。そういう(聴く側からすると過剰な内容だというような)ことは全く気にしていない。

〈前回『Blackwater Park』の発表直後にMikaelと話した時、スタジオ入りする前にバンド全員でやったリハーサルは3回だけだと言っていた。『Deliverance』や『Damnation』のためにやったリハーサルがそれより少ないと聞いて驚いたよ。〉

今回リハーサルしたのは1回だけだ。きわどく難しいパートもあるけど、スタジオ内で長い時間を費やしてやってのけた。妙な話に思えるかもしれないけど、『Still Life』の時からそういうやり方をし続けている。その時もスタジオ入りする前は1回しかリハーサルをしていない。スタジオ内でたくさんのことを作り出していくやり方に慣れているんだ。これは、曲素材がその作者にとって新鮮でなくなるのを防ぐためのやり方と言える。自分達はそれはもう音楽にのめり込んでいるから、自身をちょっと驚かせたいんだよね。アルバムが完成したら、自分達自身がそこで何をしたかは忘れてしまう。スタジオで何をやったかについてもね。これは、ファンが好きなバンドの新譜を手に入れるときのような(新鮮な)感覚だ。そうやって作業するのはとても面白い。失敗するリスクを背負うのもね。

〈大部分の音楽メディアは『Deliverance』を賞賛したけど、「それまでの路線から逸れて新しいことをしようとはしていない。コアなファンの支持を失いたくなかったからだろう」という批判も幾つかあった。〉

その通り。もちろん自分達にはおきまりのやり方というのがある。曲の書き方とかね。変化することによって良い結果につながるという要素を見つけられなければ、変化しようとは思わない。こういう音楽性を長いことやり続けていて、それが自分達の流儀になっている。IRON MAIDENがある種の流儀を持っているのと同じようにね。
けれども、『Damnation』では大幅なスタイル変更がなされている。その上で、こうも強調したい。そうしたスタイル変更は、このアルバムのためのものではあるが、OPETHの将来のためのものではない(恒久的なものではない)と言うことを。おそらくね。現時点では何とも言えないけど。『Damnation』に続くアルバムでは、何か全然違ったことをやるのかもしれない。『Deliverance』以降にやるヘヴィなアルバムということについて言うのなら、同じ人間が曲を書いて同じバンドが演奏するわけだから、(『Deliverance』とその新しいアルバムとの間に)いくつかの共通点はできるだろう。新しい曲を書くその時々に自分達がどんなものから影響を受けているか、ということによって、結果は違ってくるだろうね。

〈『Deliverance』がOPETHの古くからのファンにアピールするのは間違いない。しかしながら、アコースティック要素の多い『Damnation』がバンド史最大の売上をもたらす作品になって新たなファンを呼び込む、という可能性も、ないとは言えないんじゃないだろうか。〉

エクストリームメタルでない作品として宣伝されれば、新たな層にもアピールしてもっと売れることになるだろうと思う。『Deliverance』やそれ以前の作品ではあり得なかっただろう妙なインタビューを既に2つ受けているし。最近、イギリスの有力なブルース誌からインタビューされたよ。「それじゃ訊こう。OPETHはなんでブルースバンドになったのかな?」とか言われた。驚いたよ。自分は確かにブルースから影響を受けているけれども、『Damnation』はブルース・アルバムじゃないからね!そういうインタビューは、ラジオにかかる機会とかそれに類することが増えるよう貢献してくれるだろうと思う。『Damnation』を入り口にOPETHにハマってくれる人も多いだろうね。OPETHのファン層にはメタルをメインに聴かない人もいると思うんだよ。PORCUPINE TREEのファンでそれまでメタルを聴いたことがなかったような人が、今ではOPETHを好きになってくれていたりするようなこともある。それは単純に、StevenがOPETHのアルバムをプロデュースしてくれたことによる。PORCUPINE TREEのファンに話を聞いてみると、殆どの人がそれまでメタルを聴いたことがなかったと言う。ある種のメタルファンが言う「エクストリームメタルは音楽じゃない」というのは必ずしも正しくない、ということを示す話だね。

〈Stevenの影響は『Blackwater Park』よりも『Deliverance』に強く出ているようにみえる。Stevenはボーカルラインだけでなく器楽パートを作るのも手伝ってくれているのかな。〉

うん、その通り。共同作業をすることでどんどん特別なことができるようになっていると思う。『Blackwater Park』は彼がプロデュースした最初のOPETH作品で、自分が思うに、彼はOPETHに関わりすぎる(自分の色を加えすぎる)のを好まなかったんじゃないだろうか。でも、最近は、我々はお互いのことをよく知っているから、彼がスタジオに来たらすぐに共同作業を始めることができるようになった。彼が(『Deliverance』のために)スタジオに来てくれたとき、自分はとても疲れていた。そしてそこで、彼は大きな貢献をしてくれた。自分は予めボーカルラインの大部分を完成させていたんだけど、彼はそこに大量のボーカルハーモニーをつけてくれて、キーボードや変なエフェクトなども加えてくれた。(『Deliverance』では)『Blackwater Park』よりも関わってくれている度合いは大きいよ。ただ、『Damnation』では、彼はアルバム全編に関与している。

〈前回Mikaelは「アルバムを作るにあたって一番難しい部分はメロディアスなボーカルのパートで、デスメタルボーカルは“ラップのようなもの”だ」と言っていた。「『Deliverance』のクリーンボーカルはそれ以前の作品よりも明らかに良くなっているけれども、まだまだ努力すべきことはある」とも。〉

これはとても大きな挑戦なんだよね。まず、作品ごとに歌の出来を良くし続けたいということ。次に、全てのボーカルラインを完璧にしたいということ。ボーカル・ハーモニーについてもね。ボーカルを扱うくだりにきたら、無意識のうちに「ベストを尽くさなければならない」と身構えてしまう。スクリームをうまくやれることは自分でもわかっているけど、自分はロニー・ジェイムス・ディオではないから、歌録りの前にはいつもストレスを感じる。どんな成果が得られるかわからないし。その点、Stevenは本当に大きな貢献をしてくれる。彼と仕事するのはとても快適だね。

〈Stevenは『Blackwater Park』『Deliverance』『Damnation』の共同プロデューサーとしてクレジットされてるけど、担当した領域は、彼の能力が最大限に活かされる範囲に限られていたようだね。〉

デスメタルボーカルの録音には関与してないね。プロダクション全体に関わっているわけではないんだ。その3つのアルバム全てにおいて、彼は一度だけスタジオに来て、ドラムス・ギター・ベース全ての録音に立ち会っていた。『Damnation』の場合は、リードギターとクリーンボーカル、キーボードについても手助けしてくれたよ。

〈Mikaelは創作意欲の全てをOPETHだけに注ぎ込んでいるようだね。(BLOODBATHの『Resurrection Through Carnage』(2002)はKATATONIAのJonas Renskeがほぼ全ての素材を作ったため、それは含めない。)それを踏まえた上で、今度はStevenとMikaelが結成したプロジェクトについて話そう。〉

そのプロジェクトについてはずっと話し合っている。自分が次にやるのはたぶんそれだね。OPETHのこの2枚のアルバムの録音とそれに伴うツアーなどを全てこなした暁には、我々(OPETHメンバー)は各自の時間を十分とるべきだと思う。Stevenとのプロジェクトはそのタイミングでやる予定だ。Stevenには、PORCUPINE TREEの最新作(2002年の『In Absentia』)で他のメンバーが「ヘヴィすぎる」と考えたため採用されなかった曲が幾つかある。それを使って何かしらやることになるかもしれない。「Cut Ribbon」という曲とかね。Stevenはそれを自分と一緒にやりたいと言っている。まずそれから手をつけて、その後新しい素材を作ることになると思う。

〈そのコラボレーションを始動する前には、まだまだ大量のツアー予定が入っている。それが終わったら『Damnation』のためのツアーが始まるね。〉

その2つのツアーの間には2週間の休みがあって、そこで『Damnation』ツアーのためのリハーサルをやる予定だ。正直言って休みはあまりない。本当にこなせるかどうかわからないよ!(笑)アルバムを2枚作ると決めたおかげで仕事が物凄く多くなった。まず『Deliverance』のためのツアーが始まる。仕事がたくさん待ち受けているよ。『Damnation』ツアーではアルバムの全曲を演奏するし、過去曲のうちメロウなものも「Face of Melinda」「The Night And The Slilent Water」「Harvest」「To Bid You Farewell」とかね。キーボードプレイヤーも連れてくるつもり。『Damnation』にはヴィンテージ・キーボードが沢山入っているから。SPIRITUAL BEGGARSのPer Wibergと一緒にやる予定だよ。そんな感じで、メロウなものだけに絞ってやることになるだろう。言ってみれば、我々は2つのキャリアを並行して歩んでいる。エクストリームメタルバンドと、メロウな70年代プログレに影響を受けたバンド、という感じで。

〈そういう“並行したキャリア”はこれからもずっと続いていくもののようだ。〉

『Damnation』で起こったことと同じようなことが起きると思うんだよ。メインストリームの人々は、まず『Damnation』を聴き、それを気に入った後、我々が本当はエクストリームメタルバンドだと知ることになる。そして、『Deliverance』『Blackwater Park』などの過去作を買うに違いない。殆どの人がそちらも気に入ってくれることになると思うよ。ソフトなアルバムとヘヴィなアルバムを並行して作るやり方を変だと思う人もいるだろうけど、いろいろ考えてみた結果、これがとても賢いやり方だという結論に至ったんだ!(笑)単純に両方のスタイルが好きというだけのこと。それを混ぜるのに何の問題もない。問題だと思ったことがないし、OPETHのこれからの音楽について言えば、次に何が起こるかなんてわからないんだ。

Travis Smith(OPETHをはじめ数多のバンドのアートワークを担当)が『Deliverance』『Damnation』のカバーアートをやっている。この協働作業は、具体的なアイデアとともに始まった段階では、“両者にとって”明快なものでは全くなかったようだ。〉

両方のアルバムカバーについてのアイデアはこちらにあったんだ。だいたいそんなところだね。古い家具のある寝室の写真が欲しいということを彼に話した。とても暗くてメランコリックな写真が欲しかったんだ。それだけ伝えた上で彼が持ってきてくれた写真がカバーやブックレットに使われた。カバーに欲しい写真のざっくりしたアイデアだけを伝えて、裁量の余地をもたせたんだ。その上で、素晴らしい結果を出してくれた。自分は彼の視点が欲しかった。自分が与えた影響だけに基づいた視点をね!(笑)『Damnation』のカバーは『Deliverance』のそれにとてもよく似ているけど、これはもともと『Deliverance』のブックレットに使われる予定のものだった。とても良い写真だからブックレット用に留めるには勿体ないということで、カバーに使うことを決めたんだ。少し白くて明るいということを除けば『Deliverance』のカバーにとてもよく似ているね。

OPETHの歌詞やアルバムタイトルは神秘的なものばかりだけど、『Deliverance』『Damnation』というタイトルはこれまでのそれに比べ幾分直裁的な感じだね。〉

全くもってその通り。それぞれが物事の“陰”と“陽”のようなもの。それが当初のアイデアだった。オリジナルのアイデアは『Deliverance Part Ⅰ & Part Ⅱ』というもので、カバーも、片方の色調をとても暗く、もう片方をとても明るくするということを除けば、両方まったく同じようにするつもりだった。「Deliverance」という曲タイトルを思いついたとき、アルバムタイトルとしても良いと思った。この曲はこのアルバム全体の雰囲気を代表するものだ。『Damnation』は『Deliverance』と真逆なものにしたかった。友達の一人が『Deliverance』と正反対なものは何かと訊いてきたとき、それは『Damnation』だと即答したね。だいたいそんな感じ。よりメタル風なタイトル『Damnation』がメロウな方のアルバムについてるのも気に入ってる。

〈それから、『Blackwater Part』同様に、「The Master's Apprentices」(註:『Deliverance』5曲目)というタイトルは今は亡きグループ(註:同名のオーストラリア産バンド)に敬意を称すものになっているね。〉

うん。自分流のオーストラリアへのトリビュートだね。このバンドを愛しているから、何かの曲タイトルに冠したかった。彼らのアルバムはアナログ盤で3枚持っている。それを買って聴いていた頃、本当に良いバンド名だなと思っていたから、パクらせていただいたというわけだ。

〈この流れで、話は来るべきオーストラリア・ツアーの件に移る。〉

長いこと行きたかったけど私費では行けなかった場所のひとつなんだ。そこにツアーで行くというのは、バンドとして成し遂げてきた他の何よりも待ち望んできたことなんだよ。オーストラリアというのは…世界の果てみたいなもんだ!(笑)実際、OPETHを長い間待ち望んでくれているファンは多いわけだけど、オーストラリアから届くそういうメールは際立って多かった。今はパース(西オーストラリアの州都)を回ってるところで、とてもいい感じだよ。そこに行ったことがなかったことを叩くメールもこれまで沢山もらっていた。ギグそのものはこの先も良いものになると思うよ。なによりこのツアーは旅行者としての夢のようなものなんだ。この国を見て回りたいし人々にも会いたい。個人的には野生動物にも興味があるよ。サファリ観光にも行きたいね!(笑)これを特に見たいというのはない。全てを見たいから。壁を這いずる蜘蛛が周囲を観察するみたいに、全てのことに興味をそそられる。スケジュールが詰まっているから毎日飛び回ることになるね。Peter(Lindgren)はギグが全て終わったあと数日間オーストラリアに滞在することをもう決めたようだよ。自分はまだ決めていない。オーストラリア・ツアーの後に何が起こりどのくらいの時間が残るか次第だ。現地に行ったらベストを尽くさなければならないし、その上で数日余分に滞在できれば嬉しいね。メンバーはみなオーストラリアに期待しまくってるよ。