2015年・年間ベストアルバム

【2015年・年間ベストアルバム】

 
 
・2015年に発表されたアルバムの個人的ベスト20です。
 
・評価基準はこちらです。
個人的に特に「肌に合う」「繰り返し興味深く聴き込める」ものを優先して選んでいます。
 
・これはあくまで自分の考えなのですが、ひとさまに見せるべく公開するベスト記事では、あまり多くの作品を挙げるべきではないと思っています。自分がそういう記事を読む場合、30枚も50枚も(具体的な記述なしで)「順不同」で並べられてもどれに注目すればいいのか迷いますし、たとえ順位付けされていたとしても、そんなに多くの枚数に手を出すのも面倒ですから、せいぜい上位5〜10枚くらいにしか目が留まりません。
(この場合でいえば「11〜30位はそんなに面白くないんだな」と思ってしまうことさえあり得ます。)
たとえば一年に500枚くらい聴き通した上で「出色の作品30枚でその年を総括する」のならそれでもいいのですが、「自分はこんなに聴いている」という主張をしたいのならともかく、「どうしても聴いてほしい傑作をお知らせする」お薦め目的で書くならば、思い切って絞り込んだ少数精鋭を提示するほうが、読む側に伝わり印象に残りやすくなると思うのです。
以下の20枚は、そういう意図のもとで選ばれた傑作です。選ぶ方によっては「ベスト1」になる可能性も高いものばかりですし、機会があればぜひ聴いてみられることをお勧めいたします。もちろんここに入っていない傑作も多数存在します。他の方のベスト記事とあわせて参考にして頂けると幸いです。
 
・ランキングは暫定です。3週間ほどかけて細かく練りましたが、今後の聴き込み次第で入れ替わる可能性も高いです。
 
 
 
年間Best20
 
 
 
第20位:Maison book girl 『bath room』
 

 

bath room

bath room

 

 

 
「現代音楽とアイドルポップスの融合」を掲げるアイドルグループの初めての全国流通盤。音楽的に非常に優れたアルバムで、ポストロック〜マスロックやプログレメタルなどが好きな方はぜひ聴くべき傑作です。
 
作編曲から音作りまで大部分の作業を担当するプロデューサー・サクライケンタ('83年生まれ)は、各所のインタビューで「小学生の頃は姉の影響で渋谷系をよく聴いていた」「当時からハロプロのアイドルポップスは好きだった」「MTRで曲作りを始める一方でドラムスやギターの演奏もしていた」「17歳頃のとき現代音楽にハマり、特にスティーヴ・ライヒに大きな影響を受けた」と語っています。確かにライヒ的な音進行は多用されており、『18人の音楽家のための音楽』などで聴けるフレーズの絡め方やコード感をはっきり連想させる場面もあります。その一方で、Maison book girlの音楽では、そこに渋谷系や(ある種の)アイドルポップスに通じる音進行の“引っ掛かり感覚”が混ぜ合わされており、いわゆる現代音楽と一般的なアイドルポップスの両方に似つつもそのどちらにもならない味を確立しているのです。『bath room』の収録曲は全てがこうした音遣い感覚を(共通する“ダシ”として)持っていて、表情の異なる曲の数々が見事な統一感をもってまとまっています。アルバムの流れも非常によく、快適に聴き返し続けているうちに、先述のような音遣い感覚に慣れていない人もそれに対応する“回路”を開発され、どんどんハマっていく…というような優れた機能性が生まれているのです。一枚モノとして大変完成度の高い傑作です。
 
このアルバムの特に見事な点として、「変拍子の使い方が上手い」というものがあります。7拍子や5拍子が使われていること自体が賞賛される傾向もあるようですが、そういう変拍子を使うこと自体は簡単で、誰にでもできます。Maison book girlの音楽はその使い方が上手く、巧みな引っ掛かりを生むことができているのです。
例えば1〜2曲目の「bath room」は、パット・メセニー「First Circle」(こちらは11拍子)を連想させる7拍子の手拍子から始まるのですが、その上に加えられる様々なフレーズ・キメは手拍子のアクセントを絶妙に外しつつ絡むもので、多彩で巧みな引っ掛かりを生んでいきます。また、5曲目「snow irony」中間部の5拍子パートでは、10拍で1ループする主旋律を2拍遅れで輪唱するという(『Discipline』期のKING CRIMSONや90年代以降のマスロックに通じる)アレンジが施され、しかもそれが少しも小難しくなく仕上げられています。
このような巧みな変拍子構成の枠内で作られるフレーズ(音程の動き)も実に見事で、コードに対する効果的な“切れ込み”により、リズム面の捻りと併せ多様なアクセント付けをし、キャッチーな引っ掛かりを生んでいくのです。しかもそれら全てが非常に聴きやすい。歌モノポップスとして素晴らしい仕上がりと言えます。
ちょっと意地の悪いことを言うなら、こういう「聴きやすく美味しい変拍子」を提示することで、聴き手の「難しいものを乗りこなせる自分カコイイ」欲を絶妙にくすぐる効果も生まれているのだと思います。そういう点でも巧みな仕掛けがありますね。しかし、そんなこと関係なしに楽しめる優れた音楽です。
 
そしてその上で、このアルバムで最も素晴らしいのは、全編を貫く特別な雰囲気とそれを扱うバランス感覚でしょう。爽やかな翳りを湛える曲の音進行が“ありそうでない”独自の個性を持っていることに加え、ボーカルの声質(の活かし方)が本当に見事。“醒めてはいるが冷めてはいない”感じの抑えた情熱があり、暑苦しくなく聴き手に訴える力があるのです。こうした感じによく使われる「エモい」という言葉は、メタル畑での「泣き落とし」的なニュアンスを含む使われ方に先に馴染んだ自分にとっては少々抵抗のある表現なのですが、このアルバムの雰囲気や気分は(例えば初期ポストロックなどに通じる)良い意味での「エモい」感じに満ちていて、その言葉に素直に賛同しつつ、静かに潤う熱さに感じ入ることができます。こうした点でも素晴らしいバランス感覚と美意識に満ちた作品だと思います。
 
以上のように、Maison book girl『bath room』は、巧みで聴きやすい作編曲と、ボーカルをはじめとした抑えめで情熱的な雰囲気とが、32分という程よい尺のなかで見事な流れまとまりをもって提示される作品なのだと言えます。一枚を繰り返し聴き通すことでどんどんハマる。本当に素晴らしい「アルバム」です。
 
ところで、自分がこのアルバムを初めて聴いたとき「“定型化された時期以降のシンフォニックなポストロック+ファンタジー系のアニソン”という感じの音進行は個人的に苦手なはずなのに不思議と抵抗を感じないのはなぜだろう」と思ったのですが、インタビューでそちら方面の名前が殆ど挙がらないのをみると、そうしたものの影響は特になく、「ルーツ(ライヒなどの現代音楽)が同じなのでたまたま似てしまった」ということなのかもしれません。ある種のシーン(例えば90年代後半以降のお洒落なロックなど)によくある音遣い感覚を備えているのに、そちら方面の没個性な音楽とは一線を画す、優れたオリジナリティ(他では聴けない味わい)を勝ち得ている。こうした点でも稀な音楽なのではないかと思います。
パット・メセニーDON CABALLERO、GORDIAN KNOTやANIMALS AS LEADERSなどのファンも感服するだろう傑作。お薦めの一枚です。
 
 
 
第19位:SADIST 『Hyaena』
 

 

ハイエナ

ハイエナ

 

 

 
イタリアを代表するプログレッシヴ・デスメタルバンドの5年振りの新譜。このバンドの持ち味があらゆる点において理想的に活かされた大傑作で、個人的には彼らの最高傑作だと思っています。
 
SADIST('90年結成)は「デスメタルに本格的にキーボード/シンセサイザーを導入した最初のバンドの一つ」と言われますが、作編曲や演奏のスタイルは一般的な「デスメタル」「シンフォニックメタル」と大きく異なっており、他では聴けない独創的な作品を生み続けてきました。初期の傑作とされる『Tribe』('96年発表)では、70年代プログレッシヴ・ロックEL&PやYES、GOBLIN etc.)やRUSH、80年代後期のスラッシュメタルデスメタルなどの要素をベースに、“歌モノ”を重視するイタリア音楽の流儀、そして地中海(欧州〜中近東の中継地点)ならではの雑多な民族音楽の要素が巧みに組み合わされ、奇妙でキャッチーな音楽性が生まれています。地中海音楽と20世紀初頭のクラシック音楽バルトークストラヴィンスキーなど)をエクストリームメタルの枠内で闇鍋状に混ぜたようなスタイルはある種の“仮想の民族音楽”とも言えるもので、このバンドの音楽的方向性の主軸になっています。数年の活動休止を経てからの再結成('07)以降の作品ではそれがさらに突き詰められ、他に類のない個性が確立されていきました。
 
この『Hyaena』は前作『Season in Silence』('10年)から5年振りに発表された作品で、2〜3年の時間をかけて徹底的に作り込まれたというだけあって、アルバムの全編が完璧なバランスのもと美しくまとめ上げられています。どの曲も「他では聴けない」独特の強力なフレーズばかりで構成されており、複合拍子を連発する複雑なリズムアレンジ
(例えば4曲目「The Devil Riding The Evil Steed」における〈18+11拍子→8拍子→5拍子→6拍子→4拍子→7+8拍子→…〉など)
も、非常に滑らかで無理のない繋がりを持っています。全ての曲が独自のロジックで鍛え上げられた“美しい畸形”で、慣れて俯瞰できるようになると「これがベストの形なんだ」とわかり、繰り返し聴くほどに深い納得感が得られるのです。
また、そうした作編曲をかたちにする演奏も実に強力です。ジャズとハードコアを絶妙に混ぜた“跳ねる”アタック感を硬めのメタルサウンドのもとで表現したようなアンサンブルは(独特のヨレ方をするリードギターは慣れないと気になるかもしれませんが)ジャンルを問わず一流といえるものですし、卓越した発声技術を活かして奇妙な字余りフレーズを歌うボーカルも、(どことなくお茶目さを感じさせる)野獣のようなヤクザ声で音楽全体の優れた“顔”になっています。こうした演奏が“ファンタジックで土着的な”シンフォニックアレンジのもとで繰り出される音楽性は他では聴けないもので、ハマれば一生モノになるだけの味があります。負担なく何度でも聴き返せるアルバムの構成も、そうした味を快適に呑み込ませやすくすることに大きく貢献していると思われます。
 
デスメタル」と聞くと「わけのわからない重低音が轟き続けるうるさいだけの雑音」と思う方もいるかもしれませんが、SADISTの音楽は(主にボーカルの歪んだ声質から)便宜的に「デスメタル」とされているだけのもので(そもそもデスメタル自体が「うるさいだけの雑音」ではなく「非常に高度なアレンジからなる中低音シンフォニー」と言えるものなのですが)、音のイメージとしてはむしろ「硬めの音色を使った民族音楽寄りフュージョン+ビートミュージック」というのに近く、ジャズやプログレッシヴ・ロックのファンも楽しめるのではないかと思います。他にない独自の路線を開拓し続けている点でも大変興味深い音楽ですし、機会があればぜひ聴いてみることをお勧めします。
 
 
 
 
第18位:ももいろクローバーZ 『青春賦』
 

 

「青春賦」【通常盤】(CD Only)
 

 

 
ももクロの魅力としてよく言われる「全力」というキーワードがあります。「全力」で歌い踊る姿がなにより感動を呼ぶ、それがももクロの魅力なのだ、という話です。
これは確かに間違いではないのですが、個人的にはややピントがズレていると感じます。「全力」でやるパフォーマンスの“力強さ”よりも、むしろ、「全力であることを暑苦しく感じさせない」パフォーマンスの“質”こそが魅力の肝なのではないかと思うのです。
 
ももクロの重要な個性として「呑気だけど能天気ではない」というのがあると思います。力みすぎない飄々とした軽やかさがあるけれども、何も考えずヘラヘラしているわけではない。彼女たちなりに悩み、深刻に考えることもあった上で、それにとらわれ過ぎずにまっすぐ突き進んでいく。「屈託があるけど屈折してない」とでも言いましょうか。肩肘張らないのにエネルギーに満ちている、押し付けがましくないアツさがあって、出し惜しみせずに「全力」で行くところでもそれが暑苦しく感じられないのです。接する側に「何か重たい」というような心理的負担を一切かけず、さりげなく活力を与えて心を震わせてしまう。こういう絶妙の“力加減”があるからこそどんな相手の懐にもスッと入っていけるのでしょうし、テンションの高い人からも低い人からも丁度いい立ち位置にあって、その両者を取り込めてしまうのだと思うのです。ももクロがここまで広く強い支持を得ることができたのは、パフォーマンスの凄さはもちろんのこと、こうした人柄によるところが大きいのではないかと思います。
 
そして、こうした人柄は、動いているところを見なくても、録音されている声だけを聴いても伝わってくるものです。むやみやたらにスコーンと抜けたりしない(発声技術的な話でいうなら「頭頂部をひらいて高域のヌケをよくする」ようなことをあまりしていない)程よく“くぐもった”声質は、お行儀よく快活なJ-POP的発声とか、「私上手いでしょ?」というような自意識を力強く押し付けてくるR&B系ディーヴァの歌い上げなどとは異なる、どこか歌謡曲的な湿り気や“控え目”な落ち着きを感じさせます。そうした力加減が基本的なテンションとして維持されているから、どんなに力強く歌うところでも不躾で暑苦しい印象が生まれない。抑え気味な陰翳とまっすぐで衒いのない活力が自然に両立されているのです。
ももクロの楽曲について「別の上手い人が歌えばもっと良くなるのに」ということを言う人はわりと多いですが、フレージングの滑らかさというような「整った技術」に関して言えばその通りでも、上記のような人柄とか力加減について言えば、代わりになるものはありません。そして、音楽においては(少なくとも、完璧に整ったバッキング・トラックの上にのるリードボーカルに関して言うなら)そうした「味」の部分がなにより重要なのです。このメンバーの声質やパフォーマンス(そしてその源となる人柄)がなければ、ももクロの楽曲がこれほど“伝わる力”に満ちたものになることはなかったと思います。
 
このように、ももクロが成功したのはメンバーのキャラクタ・音楽的個性によるところが大きかったのではないかと思うのですが、運営側の音楽的ディレクションもそれと同じくらい大きな貢献をしているのではないかと思われます。幅広い音楽要素をつぎ込みめまぐるしく展開させる作編曲スタイルは「ジェットコースター的な」刺激と滋味の豊かさを両立するもので、小難しいことに興味がないライト層にも、細かく聴き込んで分析するのが好きなマニア層にも、ともに強く訴求する構造を勝ち得ています。
(この点RUSHあたりに通じるポジションにいるのではないかと思います。)
様々なジャンルを節操なく網羅する持ち曲も、そうして増やしていくうちに「何でもありなグループ」「どんなジャンルを追加しても方向性がブレない」という印象が生まれ、何をやっても(時間をかければ)受け入れられるようになっていく。こういう流れを作ることができたのも(この先の活動における自由度を確保できていることも含め)成功の大きな要因なのではないかと思います。
 
2015年に入ってから発表された3枚のシングル『夢の浮世に咲いてみな』(KISSとの共演盤)・『青春賦』・『『Z』の誓い』は、上記のような「何でもあり」な流れをよく表すものです。そしてその中でも『青春賦』(4曲入りCD版)は大変素晴らしい仕上がりで、1枚モノとしての構成の良さもあわせ、名盤と言っていい出来なのではないかと思います。
まず表題曲が良いです。発表直後に10回続けて聴き通した感想
にも書きましたが、「卒業式で歌われる合唱曲を、大学のアカペラサークルでよく用いられる“ジャズ〜ゴスペル的なコードワーク”(Donald Fagen〜TAKE 6あたりに通じるスタイル)でアレンジした感じ」の編曲を担当しているのが、まさにそのSTEELY DANDonald Fagenスタイルを得意とする国内屈指のアレンジャー冨田恵一で、キリンジの名曲「Drifter」に絶妙な“つまずき”を加えたような音進行により、「卒業」(ちょうどメンバーはそのあたりの年齢です)に伴う「爽やかな決意表明とそこに伴う困難」を表現しているのです。それに取り組み先述のような「屈託があるけど屈折してない」雰囲気を醸し出すパフォーマンスも見事で、このグループにしか表現できない素晴らしい味を生んでいると思います。
他の曲も良いものばかりです。グループの代表曲である「走れ!」の現編成ver.では、爽やかな原曲に程よい渋みと切実さが加わっていて、この歌詞を良い意味で“身の丈に合った”ものとして歌いこなせている感がありますし、残りの2曲も、ちょうど高校の卒業を控えた最年少メンバーをメインに据えつつ卒業済みの他のメンバーと対比させるなど、巧みな仕掛けで優れた表現力を生んでいる場面が多いです。アルバムとしての流れまとまりもとても良く、心震わされながら何度も聴き返してしまえる快適な居心地が備わっています。このグループのカタログにおいて出色の作品というだけでなく、日本のポピュラーミュージックシーン一般でみても傑作と言える内容なのではないかと思います。
機会があれば(「食わず嫌い」の流し聴きをせずに)ぜひ耳を傾けてみてほしい一枚です。
 
 
第17位:ARCTURUS『Arcturian』
 

 

Arcturian

Arcturian

 

 

 
ARCTURUSは「シンフォニック・ブラックメタル」の始祖の一つとされるバンドですが、型にハマった多くのそれとは一線を画す音楽性を持っています。
ノルウェー特有の“薄くこびりつく”引っ掛かり感覚(こちらの記事http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/03/27/050345参照)を音遣いの芯に置き、シンフォニック・ロックの壮麗なメロディ感覚と(アメリカのブルースにも通じる)鈍く引っ掛かる進行感を統合する。華やかに変化するリードメロディと(彩り豊かではあるけれども)意外と色の種類が変化しないモノトーンなコード感が両立されていて、展開がはっきりしている歌モノなのに“同じような雰囲気に浸り続ける”酩酊感を与えてくれるのです。きびきび流れる構成なのにアンビエントな聴き味がある音楽性は意外と稀なもので、歌モノポップスのファンにも電子音楽や70年代ジャーマンロックなどのファンにもアピールする懐の深さがあります。
また、エクストリームメタルが敬遠される大きな理由となっている「がなり声」「低域を強調した轟音」のような要素もほぼなく、(メタル的なエッジを確保しながらも)J-POPのファンにも抵抗なく受け入れられうる“うるさ過ぎない”音像が主になっています。北欧特有の底冷えする空気感と独特の親しみやすさを両立する音楽性は(マニアックながらも)とても聴きやすいもので、ブラックメタル特有の味わいや“気の長い”時間感覚を抵抗なく身につけられる素材としても好ましく、そうしたものの入門編として最適なバンドなのではないかと思います。
 
一度の解散・再結成を経て10年振りに発表された新譜『Arcturian』は、一言「完璧なアルバム」です。2nd『La Masquerade Infernale』の暗黒舞踏アヴァンギャルド・オペラ的な雰囲気が、4th『Sideshow Symphonies』で完成された先述のような“薄くこびりつく”音遣い感覚で強化された上で、3rd『The Sham Mirror』の洗練された“歌モノ”スタイルでまとめ上げられている、という感じの仕上がり。濃密な作り込みをさらりと聴かせる作編曲の語り口は殆ど理想的で、よく動く歌メロに注目しながら展開を追うだけで、独特の深い味わいにどんどん酔わされていきます。ノルウェー・シーンを代表する名人揃いの演奏も素晴らしく、それを快適に聴かせるサウンドプロダクション(若いプロデューサーによりダブステップ以降の電子音楽の要素が絶妙に組み込まれている)も極上です。アルバムの構成も実によく出来ていて、聴きやすく聴き込みがいのある内容に負担なく接し続けることができます。上記のような音遣い云々に興味がなくても、優れた歌ものロックアルバムとして楽しめる作品。気軽に手を出してみてほしい傑作です。
 
ブラックメタルやエクストリームメタル一般を好む方向けに言いますと、この『Arcturian』は、ARCTURUSのどの作品が好きなファンも納得できる出来だと思いますし、この手の音楽性では前人未到の境地に到達している作品なのではないかと思います。単にこのバンドの最高傑作(個人的な意見です)というだけでなく、HR/HMの歴史が生み出した一つの達成と言える傑作です。広く聴かれてほしいアルバムです。
 
 
 
 
 

 

ジパング

ジパング

 

 

 
「ジャジーなヒップホップ〜テックハウス調のトラックに意味不明な言葉を連発するラップがのる」というふうに紹介されることが多いポップ・ユニットの、5枚目のミニアルバム(過去作もミニアルバムのみ)です。主役を張るボーカルの個性も緻密なバックトラックの出来も素晴らしく、複雑な作り込みを何も考えず楽しめるように提供してしまう構成力はポップ・ミュージックとして理想的。全ての面において優れた傑作です。
 
アルバムを聴いてまず驚かされるのが1曲目の「シャクシャイン」でしょう。北海道の地名を連呼する高速アカペララップ(バッキングはパーカッションのみ)から始まるのですが、ストレートに16分音符を埋め続けるだけの譜割が次第に巧みなアクセント移動を交えるかたちに変化し、微妙にくぐもった和音を魅力的に聴かせる多重録音ラップパートを経て、それまでの展開からは予測がつかないタイプの和音を鳴らす高機動力のバックトラックが入ってきます。こうした多段階の曲調変化はどれも死角から切り込んで来るような巧みな“カマし”になっていて、極めて快適に身体に訴える優れたリズムアンサンブルとあわせ、とても楽しい驚きを与え続けてくれるのです。
このアルバムの収録曲はそれぞれ全てがこういう“カマし”を最低4つは備えていて、しかもその全てが異なるリズム・テンポ展開から成っています。そこに絡むバックトラックのリフなど(副旋律)の絡みも個性的で素晴らしく、「これがあれば一曲作れるよ」というような優れたアイデアが各曲に幾つも仕込まれているのです。また、そうしたアイデアの数々が惜しみなく滑らかに並べ繋ぎ合わされていくことにより、膨大な情報量を何も考えず聴き流せる快適な流れが生まれています。理屈抜きに“体で”楽しむことができ、腰を据えて聴き込めば興味深い構造を果てしなく味わい続けることができる。ノリ良く奥行きも凄い仕上がりは見事の一言です。
 
この音楽の“顔”となるのはやはり「主演・歌唱」コムアイのボーカルでしょう。少し鼻にかかった気だるい声質は一見“体温が低そう”にみえるものなのですが、だからと言ってテンションが低いわけでもなく、一音一音をしっかり踏みしめながら鈍く滑らかなトメハネを効かせる歌い回しは、独特のコシと勢いの良さを感じさせてくれます。ファニーな歌詞を連発していても「ただふざけているだけ」な印象が不思議となく、しれっと落ち着いていながらも戦闘的というような、腰の据わったしなやかさがあるのです。こうした“媚びない可愛らしさ”のあるキャラクタを“滑らかにこびりつく”フレージングとともに示してしまえる歌唱表現力は大変得難いもので、ラップなどにおける微妙な・絶妙な音程感も併せ、音楽全体に素晴らしい個性を加えていると思います。
また、音楽面の土台となるバックトラック(歌詞とあわせケンモチヒデフミが全て担当)も非常に強力です。先述のような緻密な構造を持っているだけでなく、それを具体的な出音に仕上げるにあたってのリズム処理能力・作り込み(コンマ秒のレベルで響きの干渉を調節することにより打ち込みで微細なグルーヴ変化を表現することなど)が非常に優れていて、丁寧に踏みしめながら繋がっていく“ベタ足の疾走感”を表情豊かに描き分けることができています。こうしたトラックに、微妙にヨレながら高機動にフロウするVoがのることにより、絶妙に“急かす”イキり感と安定感が両立されるのです。これはコードやフレーズなどの音遣い感覚についても言えます。「猪八戒」「ラー」「小野妹子」などといった曲で“中華風”“和風”の雰囲気を醸し出しながらも、そうした感じの曲調によくある定型的な進行をとることはなく、大枠としてはしっかり独自の捻りのあるものに仕上げてしまう。こうした“分かりやすさ”と“日和らなさ”のバランスが絶妙で、単純にノリたい人にもじっくり聴き込みたい人にもアピールする、非常に間口の広い作品を生む原動力になっているのではないかと思います。
 
こうしたことと関連して考えさせられるのが、「ポップミュージックの一線で音楽的挑戦をし尽くす」ということです。
ミュージック・マガジン2015年12月号のインタビューで、ケンモチヒデフミ氏は以下のように語っています。
僕らの音楽がポップだ、というのは一つの強みだと思うんです。世の中にはこんなにいい音楽があふれているのに、ポップじゃないという理由だけで多くの人たちに届いていないことが多いような気がします。だったらポップにやらないのはもったいないじゃないか、と。そこは意識してます。で、結果的にいい音楽が作れて、それが世に広まったら万々歳です。」
「僕は若い頃から音楽が好きで、好きすぎて周りが見えなくなっちゃうこともあった。誰も聴いてくれないようなマニアックなものをひとりで作っていた時期もあります。だけどもう濃い音楽はほどほどにしておいて(笑)、今はポップスを追求していきたい。その背中を押してくれたのがコムアイとDir.F(註:読みはディレクター・エフ:マネージャーや雑務全ての担当)なんです。ぼくはふたりに救ってもらったとおもっています。」
これは“音楽的に日和った”ということではなく、アウトプットのスタイルを変えたということだと思われます。まず自分のやりたいことをした上で、それを受け入れてもらえやすいようなかたちに整える。客に媚びて(≒客を舐めて)薄く手抜きしたものを出すのではなく、徹底的にアイデアを出しそれを詰め込んだ上で、聴き手が咀嚼しやすいように解きほぐしたかたちで提示するわけです。そうした“語り口”さえうまくできていれば、どれだけ趣味に走ろうが聴きやすくすることはでき、表現意欲と評価されたい欲の両方を満たすことができるようになります。アメリカのヒットチャートなどではこうした「ポップミュージックの一線で音楽的挑戦をし尽くす」気風が良い形で機能していて、(ポップミュージックの枠内で、という縛りはありますが)「実力のあるものこそが売れる」健全なやり方がある程度成立しています。水曜日のカンパネラが目指しているのもそういう方向性であり、そしてその素晴らしい成果が本作『ジパング』なのです。実際、本作はミュージック・マガジンの2016年1月号で発表された「年間ベストアルバム 歌謡曲/Jポップ部門」で1位を獲得していますし、各所で発表されている個人の年間ベスト記事でも選出されることが少なくありません。単純に楽しめる“機能性の高い音楽”として凄いだけでなく、しつこい聴き込みに耐える構造と他では聴けない個性を持っている。本当に優れた作品です。いろんな意味で“使える”傑作ですし、聴いてみる価値は非常に高いと思います。
 
 
 
 
第15位:SIGH 『Graveward』
 

 

Graveward

Graveward

 

 

 
SIGHは、日本が生み出した最高の音楽珍味の一つであり、ジャンルを問わずに聴かれるべき優れたバンドです。よく「アヴァンギャルドブラックメタル」と言われますが、音楽の成り立ちからみれば「アヴァンギャルド」でも「(現在の一般的な意味でいう)ブラックメタル」でもありません。演歌〜歌謡曲特有の音遣い感覚に膨大な音楽要素を溶かし込み、独自のやり方で料理したようなスタイルは、日本特有の音遣い感覚が生み出した究極の珍味のひとつであり、NWOBHMから初期スラッシュに連なるカルトメタルの最高進化形とみるべきでしょう。
 
SIGHの音楽は、世界各地の食材や技法に精通した料理人が、あくまで醤油にこだわった味付けに徹しているようなものです。現代音楽やフリージャズ、70〜80年代のジャーマンロックやノイズミュージック、アジア〜ユーラシア大陸民族音楽など、非常に豊かな音楽的語彙が巧みに溶かし込まれているのですが、基本となる下味はあくまで80年代クサレメタル(VENOM、MERCYFUL FATE〜KING DIAMOND、CELTIC FROSTや初期スラッシュ各種)であり、“アヴァンギャルド”な仕掛けは、単なるギミックでもないにしろ、メインの要素ではありません。高度な音楽技法を駆使しながらも、音楽史上における未踏の領域を探索し新たなセオリーを見出そうとするのではなく、既存の語法を誰もやっていないやり方で深く掘り下げるのを主眼とする。80年代クサレメタルを味わいの面でも作曲・音響技法の面でも最高度に深化させているバンドであり、その点において(良くも悪くも)大きな変化はしない音楽性を貫いているのです。
 
そして、そうしたクサレメタル的な音遣い感覚には、日本の演歌〜歌謡曲における音遣い感覚に通じるものがあります。70年代の英国ロック〜80年代のNWOBHMからブルース成分が希釈されていく過程で生まれたクサレメタルの音遣い感覚は、ブルース成分を吸収・定着させる以前の日本のポピュラー音楽、つまり演歌〜歌謡曲における音遣い感覚とかなり似た進行感を持っており、両者の食い合わせは非常に良いと言えます。SIGHの音楽においてはこうした成分が理想的なバランスをもって融合されており、それが豊かな音楽技法で巧みに捻られながら提示されていくのです。
(先に挙げた「現代音楽やフリージャズ、70〜80年代のジャーマンロックやノイズミュージック、アジア〜ユーラシア大陸民族音楽など」もブルース成分が薄めなものばかりで、こうした音遣い感覚との相性は抜群です。)
下味となる音遣い感覚を図太く貫きつつ、多彩な仕掛けで微妙な変化をつけ続ける。同じ味わいに浸らせながらも単調にせず飽きさせない構成が素晴らしく、慣れるとどんどん惹き込まれていきます。格好良いキメを連発するシンフォニックメタルの物理的刺激を心地よく感じ聴き込んでいるうちに、そうした音遣いに反応する“回路”が形成され、味わいの質を理解してハマり、離れられなくなっていくのです。本当に巧みな成り立ちをしている音楽性であり、このジャンルが生み出したものとしては最高の珍味のひとつと言えるでしょう。聴いたことのない方はぜひ体験してみてほしいです。
 
今年発表された新譜『Graveward』は、前作の洗練された構成から一転し、めまぐるしく展開する場面を増やした作品で、「MERCYFUL FATE〜KING DIAMONDにMASTER'S HAMMERを注入し、優れた演奏力でまとめ上げた」ような趣があります。
SIGHの過去作品で言えば『Hail Horror Hail』『Imaginary Sonicscape』『Hangman's Hymn』のどの作品のファンにもアピールしうる要素があり、膨大な情報量をすっきりまとめて聴かせてしまう作編曲が見事です。22年間在籍したギタリストが諸事情により交代して初めて作られた作品でもあるのですが、ヘタウマで定評のあった前任者とは異なる味を加えつつ技術レベルを大きく引き上げる演奏は素晴らしく、全体のまとまりをみても何も違和感がありません。ジャンル特有の深みある胡散臭さ(仏頂面のユーモア感覚)に満ちているのも好ましく、このバンドならではの高度な音楽性と「SクラスのB級」感がとても良いかたちで示されています。SIGHの新たな代表作と言える、非常に充実した作品です。
 
なお、国内盤と輸入盤はマスタリングが異なっており、新加入のギタリストが膨大な時間をかけてやりきったバージョンが採用されている国内盤の方が、各パートの抜き差しなどの音楽的な表現や音質の陰翳ほか、あらゆる面において優れた仕上がりになっていると思います。これからチェックされる方は、是非こちらを聴いてみることをお勧めします。
 
本作関連の情報としては下の記事が詳しいです。併せてご参照ください。
 
リーダー川嶋未来による作品解説(HMVコラム)
 
インタビュー(奥村裕司ブログ)
 
 
 
第14位:SLEATER KINNEY 『No Cities to Love』
 

 

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アメリカのインディー・ロックシーンを代表する名バンドの、実に9年振りの新譜です。いわゆるライオット・ガール(riot grrrlアンダーグラウンドハードコアパンクシーンにおける女性解放運動)との関係の深さや、社会的・政治的な話題を積極的に扱う歌詞などが注目されがちで、音楽的には単に「パンク寄りのガレージロック」としか言われないことが多いのですが、作編曲も演奏も極めて優れたバンドで、ギターリフを主軸としたアレンジの上手さとバンドアンサンブルの素晴らしさだけ見ても超一流と言える実力があります。上手いハードコアパンクやエクストリームメタルが好きな方にこそお薦めしたい大傑作です。
 
このアルバムを初めて聴いた時に個人的に連想させられたのは、超絶テクニカルグランジバンドTHE BEYONDでした。KING CRIMSONと英国ゴシックロックを混ぜ合わせて高速ハードコアパンクに落とし込んだようなスタイルを持つこのバンドには、日本のDOOM(一時期THE BEYONDを客入れBGMに使っていたこともあるらしいです)や後期CORONERに通じる汗臭く神秘的な雰囲気があり、知名度は低いですが、一部からいまだに熱狂的に支持されています。
(参考:山崎智之さんのホームページhttp://yamazaki666.com/beyond.htmlなど)
SLEATER KINNEYのこの新譜では、そうしたバンドに通じる個性的な音進行にニューウェーブ〜ポストパンクや90年代USオルタナSONIC YOUTHなど)の要素が注入されたという感じの音遣い感覚が、非常にうまく使いこなされています。
(成り立ちとしては「たまたまそういう感じになった」というだけで、特に影響関係はなさそうです。)
そうした味わい自体はとても複雑で簡単に解きほぐせないものなのですが、それを表現する曲の構成は実に明快で、連発される印象的なフレーズを追っているだけで何も考えず楽しめてしまいます。前面に出るメインリフが極めて強力なものばかりな上に、それを肉付けする副旋律やドラムスのアレンジもどこまでも見事で、複層にわたる徹底的な作り込みをすっきり呑み込ませてしまうのです。
 
また、それを形にする演奏も素晴らしく、個性的で分厚い鳴りを一音一音丁寧に噛み合わせていくアンサンブルは、このバンド以外では聴けない極上の味を確立しています。
(5曲目「A New Wave」18秒あたりからの〈ベース(風ギター)+ドラムス+ボーカルだけになる所〉前後はその好例です。)
ツインギター+ドラムス、基本的にはベースレスという編成は「低域の鳴りが薄い」「ささくれ立った音色が悪目立ちしやすい」ものになりがちなのですが、SLEATER KINNEYの場合はその活かし方が非常に上手く、「隙間感覚と柔らかい包容力を併せ持ちながらも日和らない」というような、しなやかで逞しい絶妙の力加減が生まれています。「激しく主張しながらも視野狭窄に陥らない」ユーモラスな力強さがある佇まいも好ましく(YESやRUSHを連想させるメインボーカルの声質もそこに大きく貢献していると思われます)、「このバンドならどんな曲を演奏してもたまらなく良い味が出るだろう」と思わせる極上の演奏表現力があります。その上で曲が素晴らしいですし、アルバムの構成も非常に良く、何度でも快適に聴き返せます。微妙なつかみどころのなさが“素敵な謎”を残し続けるようなところも含め、完璧な作品と言っていいと思います。
 
個人的に特に印象に残るのは8曲目「Bury Our Friends」でしょうか。KING CRIMSON「Easy Money」を連想させるイントロからIN FLAMES(の『Reroute to Remain』あたり)を連想させるセクションにつながっていく音遣い感覚は、オーストリアプログレッシヴ・デスメタル(と言われつつ実は初期エモ〜激情ハードコアに近い)バンドDISHARMONIC ORCHESTRAの『Pleasuredome』を連想させるものがあります。他の曲のポストパンク寄りの音進行の方が“気恥ずかしく思わされずに”素直に浸れるものではあるのですが、アルバム終盤において非常に良い存在感を出していると思います。
 
本作は各媒体の年間ベスト記事でもかなり良い評価を得ていて、いわゆるインディー・ロックシーンではよく知られているアルバムなのですが、ハードコアパンクやメタルを主に聴く人からすると殆ど出会う機会がない作品で、個人的にはそれがとても勿体なく思えてしまいます。リフ主体のヘヴィ・ロックとしてだけみても超一流の傑作。広く聴かれるべきアルバムです。
 
 
 
 
第13位:THE END 『0』
 

 

0 (ゼロ)

0 (ゼロ)

 

 

 
日本を代表する名ボーカリスト遠藤ミチロウによる「最後のバンド」の1stアルバム。ミチロウさんが絶大な影響を受けたTHE DOORSのカバーのみで構成されています。
(ミチロウさん以外のメンバーは、ナポレオン山岸(ギター:ex. ザ・ファントムギフト)、西村雄介(ベース:ex. STALIN)、関根真理(ドラムス:渋さ知らズ))
これが信じられないくらい凄い内容で、他人の曲だけを演奏しているのに、この人達にしか出せない表現力が最高のかたちで発揮されています。ミチロウさんの出自であるパンク〜ハードコア方面のファンだけでなく、70年代ハードロックやドゥーム〜ストーナーロックを好む方にこそ聴いてほしい、驚異的な大傑作です。
 
このアルバムに収められたカバーでは、原曲の歌詞(英語)のごく一部を残しつつ、大部分でミチロウさんの独自解釈による日本語詞が採用されています。その日本語詞は(4曲目「Alabama Song」を除き)原詞と全く意味が異なるものばかりなのですが、ニュアンスの根本はしっかり捉えられていて、「完全に別物だが本質は通じている」ものを、この人にしかできないやり方でモノにしてしまえています。
そして、それを形にするボーカルが凄すぎます。たとえば最後の「The End」(映画『地獄の黙示録』でも有名な、THE DOORSを代表する名曲)の長い語りでは、最大のキメフレーズを除き完全に独自のものに作り替えられた内容を、他の人には絶対に出せない空気感(“冷たく甘い霧に汗が混じっている”ような感じ)とともに、優れた響きと驚異的なダイナミクスコントロールをもって表現してしまえています。この語りは、例えば大槻ケンヂの「GURU」(『アンダーグラウンドサーチライ』版)における一世一代の名演と比べても同等以上の、乾坤一擲の表現力に満ちたもので、遠藤ミチロウという不世出のボーカリストの超絶的な歌唱表現力(音程ではなく、音色や力加減のコントロール能力)が余すことなく示された名演です。こうした表現力は他の収録曲でも充分に発揮されていて、様々な雰囲気が表情豊かに描き分けられています。このボーカルが聴けるというだけでも稀有な傑作と言えます。
 
そしてこのアルバムが凄いのは、他のパートも驚異的に素晴らしいということです。一聴した時点では「DOORSのカバーなのにオルガンが入っていないとは何事か」と思わされるのですが、聴いていくうちに、シンプルながらツボを心得たフレーズ構成、そして何より信じられないくらい凄い音響表現力に惹き込まれていきます。
このアルバムにおいては、初期DOORSの“夜の底で町の灯りに神経を焼かれる”ような醒めた感覚と、BLACK SABBATHの1stにおける“深い霧の中で朦朧とする”ような不健康な鎮静感とが、完璧な良い所取りで表現されています。60年代末〜70年代初頭の限られた名盤にしかないあの空気感、多くのドゥーム〜ストーナーロックバンドが再現しようとして成し得なかったサウンドが、このTHE END『0』においては殆ど理想的なかたちで実現されているのです。(こんな音、私は他で聴いたことがありません。)しかもそこに遠藤ミチロウの超絶的なボーカルがのる。つくづく信じられない傑作です。
 
THE DOORSの名曲群は、アンダーグラウンドシーンのミュージシャン(灰野敬二大槻ケンヂなども絶大な影響を受けています)にとって気安く手のつけられない、ある種の“聖域”と言っていいものなのですが、全曲そのDOORSのカバーで通したこのアルバムは、オリジナルの薫りを想起させながらも独自の強力な表現力を発揮し、原曲に勝るとも劣らない格を示しているもので、難しい試みに完全に成功していると言っていいのではないかと思います。
原曲のニュアンスや雰囲気を掴むことで、音進行や歌詞などを(敬意を表し概形をなぞりつつ)“自分のもの”に変えてしまいながらも、本質を損なわず、原曲にもない唯一無二の表現力を生んでしまう。この驚異的な作品を聴いていると、音楽における「カバー」という行為は、単なる「真似」ではなく「換骨奪胎」(元の作品の趣意に沿いながら新たなものを加え表現すること)であるべきなんだ、と強く思わされます。“リスペクト”だけでなく、“乗り越えてやる”という気迫に満ちている。本当に凄い作品です。
 
なお、以上のような描写をみて「インパクト重視の作品で繰り返し聴くと慣れてつまらなくなっていくのでは」と思う方もおられるかもしれませんが、そんな心配は全く不要です。淡々と流れていく演奏は豊かな滋味に満ちていて、落ち着いて吟味できるようになればなるほど深く染み入ってきます。一枚通して浮きすぎず沈みすぎず流れていくバランス感覚は、THE DOORSの原曲自体が持つ性質とも言えますが、それ以上にミチロウさんの“シリアスかつユーモラスな”声があってこそのものなのでしょう。原曲の絶望一直線な感じが薄まり、柔らかい逞しさ、そう簡単には諦めてやらないぞというふてぶてしさが加わっています。そうした雰囲気に浸ることにより、一枚を通して心地よく“フラットに揺れる”ことができる。本当に得難い個性のある声・歌ですし、このアルバム全体が、ミチロウさんのそうした味わいが見事に活かされた作品だと言えます。いろんな方に聴いてみてほしい大傑作です。
 
 
 
第12位:ONEOHTRIX POINT NEVER 『Garden of Delete』
 

 

Garden of Delete

Garden of Delete

 

 

 
ブライアン・イーノの正当後継者」「エイフェックス・ツインに匹敵する才能」などと言われ、現代の電子音楽シーンで特に注目されている人物、ダニエル・ロパティン。彼の変名であり最近はバンド的な形態に変化しつつもあるというユニットの、約2年振りのアルバムです。極めて高い評価を得た前作『R Plus Seven』におけるアンビエント要素の多い作風から一転し、「ハイパーグランジ/サイバーメタル」と本人が形容するような、攻撃的な曲調の多い作品になっています。
 
このアルバムについては本人のインタビューで非常に詳しく語られており、
音楽その他のバックグラウンドや製作にあたっての意図などはこのあたりの記事
を読んでいただくのが良いと思われます。ここでは、そうした記事では触れられていないこのアルバムの「聴き方のコツ」について簡単に書いておこうと思います。
 
このアルバムはとても注目されている一方で「いまいちピンとこない」という感想が非常に多い作品で、駄作扱いされることは少ないのですが、持ち上げる人も奥歯に物が挟まったような微妙な触れ方をしている場合が殆どです。この作品に収められた楽曲は、和声やリズム構成・音響構築などあらゆる面において独特の成り立ちをしており、他の音楽を聴くことによって得られた経験値や聴き方が通用しにくくなっています。「この作品そのものを繰り返し聴かないと勘所をつかむことができない」ため、何回か触れただけで結論を出そうとする人からは微妙な評価しか得られないことが多いわけです。その一方で、繰り返し聴いてうまく勘所をつかむことができれば、他の音楽にはない音進行や音響の感覚に惹き込まれ、独特の雰囲気を素直に楽しめるようになります。そういうこともあってか、良くも悪くも「聴き込んだ回数によって評価が分かれる」度合いの大きい作品になっているのだと思います。
 
私はこのアルバムを現時点で40回ほど聴き通していますが、わりとはっきりした手応えが得られたのはだいたい10回ほど聴いた頃、たまたま大きめの音量でスピーカーで再生したときのことでした。控えめの音量で聴いていた時は主旋律ばかりが印象に残り、それを肉付けするフレーズなどを聴き流していたため全体の構造をうまく把握できなかったのですが、大きめの音量で聴いた途端、そうしたフレーズの動きや音色がはっきり見えてきて、各パートの絡み方やアレンジ全体の成り立ちが体でつかめるようになっていったのです。このアルバムの音響はいわゆるインダストリアルメタルをツルツルに磨き上げたようなものになっていて、少し聴き流しただけだと「ささくれ立った質感を出すための効果音にすぎないだろう」と思ってしまいがちなノイズ的音色も沢山入っているのですが、実はそういう音色も一つ一つがはっきりした音程を持っていて、緻密なシンフォニーの構成音として不可欠に機能しています。これは音響面についても言えることで、一聴しただけだと「ノイジーな効果音」としか思えないような音色も、主旋律をはじめとする他のパートの音色と干渉することにより、優れた“響きの快感”を与えてくれるようになっているのです。このアルバムに収録されている曲は全てがそういう効果を狙った上で作られていて、そういう効果の勘所、“アンサンブルの結節点”とも言うべき“響きのツボ”は、大きめの音量で聴かないと見えづらくなっています。(一度掴んでしまえば小さめの音量でも反応できるようになります。)そうした聴き方をしたことがあるか否かで大きく評価が分かれてしまう作品でもあると思われます。
(なお、イヤホンやヘッドホンで聴く場合は、サウンド全体を俯瞰するというよりも一部の要素に注目する聴き方になってしまいがちなので、パート間の響きの干渉に注意が向きにくくなる傾向があると思われます。できれば「スピーカーで大音量で聴く」のが良いでしょう。)
 
このような「大きな音で聴かないと勘所がわからない」ことがさらなる説得力を持って伝わってきたのが、12月の頭に行われた来日公演でした。
(参考:直後のライヴレポ
日本を代表するPAマスターのひとりzAkさんの貢献もあってか音響は極上で(客入れBGMとして流されていたKode 9『Nothing』からして異常に美しい鳴りをしていて驚きました)、電子音楽ならではのクリアな解像度とヘヴィロック的な“生の”爆発的パワー感が完璧以上に両立され、新譜の曲の緻密な構造とサウンド構成が、実に“直感的にわかりやすい”かたちで示されていたのです。
この公式レポhttp://bit.ly/1TKyHDMにおける「音の粒が形になって目に見える」という表現が大袈裟にきこえないようなサウンドでした。)
このライヴの後に新譜を聴いてみると、細部の音色やフレーズの動きが非常によく掴めるようになっていて、「生演奏を体験するとその音楽に対応する“回路”が開発されスタジオ音源も格段に楽しめるようになる」効果を強く実感することができました。
(この点、昨年の個人的年間ベストアルバム第5位に選んだmats/morgan『shack tati』に通じるものを感じました。音楽的にも共通する部分が多いと思います。)
新譜の評価が比較的分かれる傾向があるのは、こうした体験をしている人とそうでない人との間での“手応えを感じている”度合いが異なるというのも大きいのではないかと思います。「ライヴに行け」というのはなかなか難しいですが、できればスピーカーで大音量で聴いてみてほしい作品です。
 
ところで、このアルバムが「なんとなくピンと来ない」ものとして扱われることが多いのは、アルバムの曲順によるところも大きいのではないかと思われます。冒頭に挙げたAMPのインタビューでは「ポップソングとして独立した曲を作りつつ、それらを並べて統一感をもつアルバムを作りたかった」という意味の発言があり、実際それは成功しているのですが、アルバムの曲順通りになんとなく聴いていてもすぐにはハッキリした手応えを得にくいと思うのです。そんな感じで実際うまく吞みこめないという方にお勧めしたいのが「来日公演のセットリストどおりに聴く」ことです。アルバムの曲番号でいうと〈9・4・6・11・8・2・10・12〉の順に聴くことで、比較的インパクトのある印象的な場面を手際よく続けて味わうことができ、アルバム全体の雰囲気や流れの勘所を直感的につかむことができるようになると思います。ぜひ試してみることをお勧めします。
 
個人的にこのアルバムが一番しっくりくるのは「風呂から上がって寝床につく時の、少し疲れながらも深くリラックスしている状態」です。そういう状態で聴いて完全に素直に聴き入れるという体験をしたら、そうでない状態のときもうまく楽しめる度合いが確実に増しました。
気分や体調によって聴こえ方が大きく変わる音楽というのはたくさんあって、そういうものをうまく吞み込むためには、様々な条件のもとで何度も試してみるのが大事だったりします。「肌に合わないし聴き込む必要を感じない」という人はこだわらず放っぽり出していい作品だと思いますが、「よくわからないけど何か引っ掛かる」という方は、様々なシチュエーションで折にふれ聴き返してみるのがいいのではないかと思います。そうする価値のある個性的な傑作です。
 
 
 
第11位:ツチヤニボンド『3』
 

 

3

3

 

 

 
高野山の自宅で自営業を営む音楽マニア土屋貴雅が率いる超絶ミクスチュアバンドの、実に4年ぶりとなる3rdフルアルバムです。他のメンバーもこちらの「無人島 俺の10枚」http://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1510131014/で語られているように重度の音楽マニア揃いで、優れた技術と幅広いバックグラウンドを活かし、複雑で豊かな音楽性に貢献しています。
 
先に「ミクスチュア」と書きましたが、ツチヤニボンドの音楽は、例えば90年代アメリカのロックシーンにおける「ミクスチャー・ロック(ファンク〜ヒップホップとヘヴィロックを組み合わせたもの)のような比較的安直なものとは訳が違います。古今東西の音楽のエッセンスを吸収し、原型を留めないレベルまで噛み砕いて闇鍋状に混ぜ合わせることで、「何からできているのかわからないが半端なく旨くて飲みやすい、いろんな素材が溶けかかった形で浮いているスープ」のようなものに仕上げてしまうのです。そうしたやり方から生まれる楽曲は、どこかで聴いたことのあるような要素を残しながらも全体の輪郭や下味は他のどこにもないかたちになっていて、同じバンドの曲なのにはっきり「これとこれは似ている」と言えるものがありません。「1バンド1ジャンル」という言葉がありますが、このバンドの場合は「1曲1ジャンル」という趣すらあります。ただ、だからと言って「方向性が散漫で落ち着いて浸れない」こともありません。様々な音楽要素を消化し混ぜ合わせるセンスには一貫したものがあり、どの曲においてもそれが共通する土台となっているため、ばらばらの曲調が無節操に並べられているように見えなくもないアルバムも、「いろんな料理が手を替え品を替え出てくるが“ダシ”はほぼ同じで根本的な味は似ている」というふうに、一定の感覚のもと快適に聴き入ることができるのです。本作『3』はこのバンドのそうした持ち味がさらに磨き上げられた傑作で、くるくる変わる曲調を疑問に思わずすっきり聴き通せるようになっています。約50分を全く長く感じさせない構成も見事で、気軽に聴き返していくうちに複雑な味わいがどんどん“体で理解”されていきます。単純に“歌モノ”としても素晴らしい、非常に優れたポップ・ミュージックです。
 
たとえば1曲目「ヘッドホンディスコ」では、4拍子8小節で1ループするファンク風メインリフにのせて、微妙にアクセントを外しながらよろめく歌メロが披露されます。その2層だけが絡む(フレーズ自体はやや複雑だが構造としてはシンプルな)場面がしばし続いたのち、展開部のインストパートではいわゆるポストパンクに通じる奇妙なコード感が加わり、GONGなどを連想させるタイプのサイケデリックなエフェクトが嫌味なく施されていきます。この曲は先述のメインリフ(息が長く休符も多用するため「休まずビートを取り続ける」ようにしないと正しくリズムを把握できない)を誤解して「あぶらだこのようだ」などと言われることもあるのですが、インタビュー記事では「パリ在住の日本人電子音楽ツジコノリコから強くインスパイアされて作った曲」と解説されていたりします。上っ面を聴いて「何々から影響を受けている」と判断するのが殆ど不可能な音楽であり、このバンドのそうした特性がとても良いかたちで発揮されている名曲と言えます。
他の曲も(スタイルは大きく異なるものの)そういう持ち味が楽しめるものばかりになっています。4曲目「Wait」は叙情的なラテン音楽STEELY DAN『Gaucho』収録曲を混ぜたような趣がありますし、6曲目「フラッシュバック」はミルトン・ナシメント「The Call」をブライアン・イーノ『鏡面界』やハロルド・バッド『夢のパビリオン』に浸したようなアンビエント・ポップスになっています。7曲目「スターシップ ガール」はジミ・ヘンドリクス『Electric Ladyland』のサイケデリックな大曲をブラジリアン・ポップスに落とし込んだような感じもしますし、8曲目「20世紀青少年」では、アメリカの60年代サイケや70年代初頭のブラジルあたりで聴けるいなたいロックサウンドが、細かいニュアンスと豪快なノリを両立した超絶技巧アンサンブルで個性的に再解釈されていきます。10曲目「悲しみでいっぱい」はこのバンドを指してよく言われる「はっぴいえんど・ミーツ・トロピカリズモ」という形容が珍しくよく合う曲調です。というふうに、各曲が全く異なるスタイルをとっているのですが、その下味となる感覚は一貫しているため、アルバム一枚を通して一定の音遣い感覚に退屈せず浸っていくことができるのです。ぜひ聴いてハマってみてほしい傑作です。
 
なお、こうした音楽性をかたちにする演奏も非常に強力です。卓越したリズム処理能力のもと緻密な“間”の表現をこなせるメンバーばかりが集まっており、バンド全体で“訛り”“揺らぎ”を巧みに描き分けることのできるアンサンブルは、ティポグラフィカディアンジェロといった優れた先達と比べても何ら見劣りしない味があります。しかも、ツチヤニボンドの場合は、ビートを正確に捉えることにより生まれる整った感じと、絶妙に“分厚くはみ出す”響きが生み出すドッシリした(軽く流れていってしまわない)質感があり、ジャズやブラックミュージックの(滑らかさが前面に出る)アンサンブルでは出せないガッチリした手応えを楽しませてくれます。これは、ロック特有の“汗をかく”グルーヴを最高の技術で仕上げたもので、個人的に時々強く感じる「滑らかでしかも絶妙に引っ掛かるリズム処理が聴きたい」「その上で“分厚く溢れる”手応えのある響きが欲しい」という生理的欲求を見事に満たしてくれるのです。こういうものは実は滅多にありません。例えば初期BLACK SABBATHはこういう場合ヨレ気味のリズム処理が気になってダメですし、LED ZEPPELINなども(全体の分厚い手応えは良いですが)もっと足元が定まっていてほしいと思えます。その点SPEED, GLUE & SHIKI『Eve』などは素晴らしいのですが、ドラムスの尖った鳴りがリラックスすることを許してくれないため、腹に来る極上の手応えに酔いしれながらも、“ちょうどいいところに収まる”ことができきらずに微妙な不満が残ってしまうのです。ツチヤニボンド『3』における演奏はこうした贅沢な欲求を全ての面において満たしてくれるもので、逞しくかつ柔らかい質感も、滑らかで奥行きのあるリズム表現も、落ち着きと刺激を絶妙のバランスで与え続けてくれます。
(先のインタビュー記事などでも言及されている「基本的には一発録音」「SHELLAC『Dude Incredible』やBECK『Morning Phase』を全体のサウンドイメージの参考にした」というやり方が良い効果を上げていると感じます。)
このような点からみても非常に得難い作品で、“体が求める”優れた聴き味をもつアルバムになっていると思います。
 
私がツチヤニボンドを初めて聴いたのは今年の10/4に青山・月観ル君想フで開催された「トーキョー×ミナス」というイベントでした。前情報一切なしで観たツチヤニボンドは先述のような音楽性と演奏表現力を(スタジオ音源と同等以上のクオリティで)発揮していて、今から思い返せば「貴重なものを観ることができて良かった」と感じるのですが、現場では正直ピンと来ない部分もかなりあった気がします。演奏表現力に関してはその場でも凄さがよくわかったのですが、「作編曲に関しては、素材は文句なしだがこう仕上げるのがベストかどうか首をかしげるものも幾つかある」などと直後の感想に書いているとおり、曲の構造をその場で把握し俯瞰できなかった場面も沢山ありました。このイベントではむしろ最初に出てきたキセルの素晴らしさが鮮明に感じられたのですが、それと並んで印象的だったのが、レオナルド・マルケス(ブラジル・ミナスからのゲスト)のサポートメンバーとして出演した土屋貴雅でした。マルケスのライヴは増村和彦(解散した「森は生きている」の旧メンバーで、ツチヤニボンド『3』とこの日のライヴにはパーカッション類で参加)のドラムスと土屋貴雅のベースを加えて行われたのですが、このベースが大変上手く奇妙なもので、ミナス音楽特有の浮遊感あるコード進行を変なかたちにねじ曲げるフレージング、そして重い響きを的確に打ち込むタイトなタッチにより、アンサンブルの低域を完璧に引き締める素晴らしい演奏をしていたと思います。ここで初めてこの人を観た私はてっきり本職のベーシストなんだろうと思っていたのですが、続くツチヤニボンドで殆どボーカルのみ(時々ギターも演奏)で通すのを見て、なんとなく妙な気分になる一方で、こういう技術やリズム感覚がボーカルのやり方にも反映されているのだな、と感じたのでした。
こうした一連のステージにおいて示されていた“なんか妙だけど奥行きがあって面白い”感じ、飄々とした佇まいで韜晦し続けるような様子は、スタジオ音源にもしっかり表れているように思います。ライヴをやること自体かなり少ないようなのですが、機会があればぜひ観ていただきたいですね。音源とライヴをあわせて体験することで一層興味深く楽しめるようになるバンド。オススメです。
 
 
 
第10位:TAME IMPALA 『Currents』
 

 

カレンツ

カレンツ

 

 

 
「オーストラリア出身の5人組サイケデリックロック・バンド」と紹介されることが多いですが、実質的にはリーダーであるケヴィン・パーカーの一人多重録音ユニットです。各所で高い評価を受けた『Lonerism』('12年発表)以来3年振りとなる3rdアルバムで、ケヴィンがマスタリング以外ほぼ全ての作業(作編曲・全パートの録音とプログラミング・録音やミキシングなど)をこなしています。それまでは前面に出ていなかったメインストリームのポップミュージック(80年代のポップスやR&Bなど)を愛する音楽嗜好がためらいなく押し出された作風で、きらびやかな楽しさと得体の知れない苦みが非常に口当たりの良いポップ・サウンドのもと自然に両立されています。聴き返すほどに独特の味わいに酔わされていく傑作です。
 
(これは本筋と直接関係ありませんが、一口に「サイケ」と言ってもその指し示すものは多岐に渡ります。主なものを挙げるだけでも
HAWKWIND
GONG
テキサスサイケ(13TH FLOOR ELEVATORS等この枠内でも多様)
アシッドフォーク(ほとんど“1人1ジャンル”)
中期BEATLES
BEACH BOYS
などがあり、一般的に「サイケ」と言われるものは、こうしたもののどれかに該当している(しかしルーツやスタイルは異なる)ものを(「何やら歪んでいて不健康」という音響の印象から)雑に一括りにしていることが殆どです。
TAME IMPALAの本作の場合は、このうち60年代後半のアメリカものに通じる要素が多く、それをシューゲイザーやヒップホップなどを通過した最近のプロダクション感覚で料理している、という感じです。)
 
ケヴィン・パーカーの音楽嗜好や本作の製作背景などは、この紹介&インタビュー記事
に詳しいです。SUPERTRAMPを主な影響源とし、中期THE BEATLES(『Revolver』あたり)やPINK FLOYDANIMAL COLLECTIVE、そしてMY BLOODY VALENTINEのような“いかにもサイケ”なものを好む一方で、ブリトニー・スピアーズカイリー・ミノーグのような「過剰にメロディアスな音楽」も愛するケヴィンは、「キノコを食ったときにTHE BEE GEESを聴いた」経験がきっかけになって本作の路線を決めたといいます。ボーカルの声質・歌い回しもあって時にTHE BEACH BOYSを強く連想させる音遣い感覚(これはANIMAL COLLECTIVEからの間接的な影響なのかもしれませんが)に、70年代後半以降のトロピカル・フュージョンの薫りが加えられ、その上で80年代のメジャーなポップスに通じる大仰なフレーズも頻繁に用いられる。という感じの作風は、そうした既存のものをわりかしはっきり想起させながらも、それら特有の印象的な要素をそのまま持ってきて生硬い“雑味”にてしまうことはなく、巧みな消化・再解釈により独自の優れた個性を生むことができています。60〜70年代の無骨なロックグルーヴにも最近の高機動なビートミュージックにも寄らない“緩やかに跳ね続ける”リズム構造も好ましく、少し醒めた気だるい感じとノリの良さが見事に両立されているのです。
 
こうした配合・バランス感覚、そして独特の歪んだ音響により生まれる“くぐもった多幸感”は、たとえば80年代ポップスの煌びやかな世界に素直に憧れつつ、そこに完全には馴染みきれないもどかしさがある…というような、複雑な気分を伺わせるものになっています。BEACH BOYS的なエヴァーグリーンな感じに憧れつつ(オリジナルにもあっただろう)厭世観を増して眺め、一歩引きつつ離れられない、素直にのめり込めない、アンビバレントな思い入れを強く発揮している…というような趣。こういう屈折した思い入れをそれとなくはっきり漂わせる雰囲気は、あからさまではないが切実な、独特の“念の強さ”を感じさせるものになっているのです。
 
このような複雑な味わいを聴きやすいポップスのフォーマットで親しみやすく呑み込ませてしまう本作は、「彼岸のパーティー・ミュージック」「三途の川のビーチミュージック」とでも言えそうなものになっています。たとえば1曲目、リードシングルとなった「Let It Happen」は、歌詞だけ見れば「自分の内面や周囲で静かに起こりつつあることに気付き、成り行きに身を任せよう」というくらいの当たり障りのない内容にとれるのですが、これに合わせて作られたMVでは「心臓発作で臨死体験をしているうちに、救助活動が間に合わず“向こう側”へ引き込まれていく」という物語が描かれています。楽しく聴き流すことができる一方で、よく目を凝らしてみると何やら仄暗くそら恐ろしい深淵がある。こうした「複雑な気分を気安く呑み込ませてしまえる」という意味でも、優れたポップミュージック・ソウルミュージックと言える作品なのではないかと思います。聴き込むほどに様々な表情が見えてくるアルバムです。
 
自分がこのバンドの名前を知ったのは、CYNICのポール・マスヴィダルがインタビューで
「『Kindly Bent to Free Us』('14年発表・3rd)の製作時に『Lonerism』をよく聴いていた。60年代のBEATLES系統のサイケデリック風味があり、それは自分の出自に近いものだと思う」
と言っていたのを見たときでした。
(参考:
そう言われてみると確かに、CYNICの近作で濃厚に表現されている「深い苦みを湛えつつささやかな僥倖を慈しむ」ようなゴスペル〜ソウルミュージック的な感覚は、TAME IMPALAの先述のような雰囲気表現に通じるものがあると感じます。
こうした点でも非常に興味深い作品ですし、いわゆるインディーロックなどを好む層に限らず広く聴かれてほしい傑作だと思います。
 
 
 
 
 
 
 
第9位:3776 『3776を聴かない理由があるとすれば』
 

 

3776を聴かない理由があるとすれば

3776を聴かない理由があるとすれば

 

 

 
3776(みななろ)は「富士山のご当地アイドル」。山師的な活動を続けてきて音楽プロデューサーに落ち着いた奇才・石田彰
(詳しくはこちらのインタビュー
参照)
が成り行きで生み出したこのユニット初のフルアルバムで、「標高3776mの富士山を3776秒(=62分56秒)で登る」というコンセプトが土台になっています。これが驚異的な作品で、ポストパンク〜現代音楽を連想させる複雑なコード感覚を親しみやすいアイドルポップスの型に落とし込んだ名曲の数々、そして何よりアルバム一枚を通しての強靭な構成力により、多くの(アイドルに興味のない)音楽ファンに衝撃を与えています。変で聴きやすいものを好む方はぜひチェックしてみるべき大傑作と言えます。
 
このアルバム、何も知らずに聴いた人からは「XTCPUBLIC IMAGE LIMITEDTHIS HEATなどを彷彿とさせる」と言われることが多いのですが、このアルバムが作られた頃、プロデューサー石田彰はそうしたものは殆ど聴いたことがなかったようです。
石田氏の音楽的影響源について最も詳しく語られているのは、本作の制作よりも前に雑誌『MARQUEE』 Vol.103(2014.6.30発行)に掲載されたインタビューでしょう。非常に重要な情報なので、少し長いですが、冒頭の該当部分をまとめて引用させていただくことにします。
 
 
〈とにかく石田さんの音楽遍歴を、まず知りたいです。〉
「音楽遍歴はそんなに面白い話じゃないです。高校までは、ヒット曲・アニメ主題歌(小学校)、西洋クラシック(中学校)、おニャン子クラブ(高校)みたいな感じで音楽を聴いてました。高校の後半で和洋ロック(当時バンドブーム)聴き始めて、自分も音楽をやりたくなった、っていう、ありがちなパターンです。大学に入って、ギター買って、軽音入ってバンド始めるんですが、美大だったこともあってか、周囲の友人が、いろんな音楽に対しコアなんですよね。ブルース好きで黒人ばりのすごいギター弾く人、プログレからジャズから何からかじって様々な楽器をこなす人、現代音楽に詳しくいろいろ教えてくれる人、スタジオミュージシャンの目線でニューミュージックを語る人、本当にドラッグやってるサイケデリックな人、テクノ好きで絶えず新しいCDを買って聴かせてくれる人…。この頃に音楽的に受けた影響ってのは計り知れないですね。でもバンドはそんなにたいしたことやってなかった。ギターも始めたばっかりで、ギタリストとしてのバンド参加は難しかったので、サイケバンドのボーカル&ギターやってました。詞も書いてましたね。三上寛とかジャックスとかあぶらだことか、そういう世界ですよ。そのうち、MTRというのを知って、宅録っていうか、アレンジに興味持ち始めて、そんな中、アイドル音楽が好きだということに気づいたりして、勝手に研究してました。20代なかばで一旦あきらめたというか、音楽どっぷりの生活からは抜け出ます。その後も、ちょこちょこ遊びでは音楽はやってましたが、TEAM MⅡ(註:富士宮市制70周年を記念し1年間限定で結成されたアイドルグループで、3776の原型となった)からです。改めて本格的に音楽をやり始めたのは」
〈石田さんの好きなアルバムもしくは曲を10作おしえてください。〉
「この答えが一番難しかったです。自分の音楽の聴き方が、広く浅く、って感じなんですよね。今回は「石田彰、過去を振り返る10曲」と、勝手に基準作って10曲選ぶことにします。リアルタイムで発表された音楽に限る、という縛りも勝手に付け加えて…。
01:高井麻巳子 / テンダー・レイン(from『私のままで…』)1988年
02:U2 / Where The Streets Have No Name(from『The Joshua Tree』)1987年
03:Pizzicato Five / サンキュー(from『女性上位時代』)1991年
04:ネタンダーズ / やらせてもらっています(from『子供は判ってくれない』)1998年
05:The Orb(from『U.F.Orb』)1992年
06:スチャダラパー / スチャダランゲージ - 質問 : あれは何だ?(from『タワーリングナンセンス』)1991年
07:くるり / あやか市の動物園(はっぴいえんどのカバー)(from『HAPPY END PARADE〜tribute to はっぴいえんど』)2002年
08:J.S. Bach(田部井辰雄) / シャコンヌ(from『シャコンヌ / 田部井辰雄ギターコンサート)2007年
10:Perfume / ポリリズム(from『GAME』)2008年
〈以下略・引用おわり〉
 
 
こうした発言を見ると、基本的には意外なまでにオーソドックスなポップミュージックを好んでおり、そこに“浅く広く”豊かな要素を無節操に投入していく、というのが音楽的な方向性になっているのではないかと思えてきます。
「意外なまでに」と書いたのは、少なくとも個人的には、一聴した時点では上のような要素を殆ど読み取ることができなかったからです。私がこのアルバムを始めて聴いた時の感想は「チャクラ(板倉文小川美潮による超絶テクニカルニューウェーブポップス)とFKA Twigsの間にあるような音楽」または「フランク・ザッパ「グレゴリー・ペッカリーの冒険」に通じるような現代音楽的コード感を聴きやすいポップスのフォーマットに巧みに落とし込んでいる」というようなものでした。「知的に屈折した音楽家があえてポップミュージックのフィールドで勝負している」という感じに思えてしまったのでした。
XTCやPIL、コーネリアスFANTASMA』などとよく比較されるのを見ると、同じように感じる音楽ファンも多いのではないかと思います。)
しかし実際は「まずアイドルポップスが先にあって、その上でいろんな要素を取り入れてやりたいことをやっている」ということのようです。ザッパ「グレゴリー・ペッカリー」を連想させるような要素があるのは実際に「現代音楽にハマっていた時期がありそういう要素を活用している」(つまり、ポストパンク的なコード感覚をXTCなどからでなくそのルーツである現代音楽から直接吸収していた)からであり、トータル3776秒の長さを曲間なしで滑らかに繋げきってしまうのも、その現代音楽やThe Orbのようなアンビエントテクノから得た“長いスパンで解決する”気の長い時間感覚の賜物なのでしょう。そうした(一般的なポップスからみれば特殊な)要素を、聴きやすく親しみやすいアイドルポップスのフォーマットのもとすっきりまとめてしまう、というような構成力とアレンジセンスは驚異的に見事なもので、ジャンルを問わず超一流といえる完成度があります。多くの音楽ファンを驚かせ高い評価を得ているのも当然と言える出来なのです。
 
こうした各曲の出来の良さに加え、本作では「3776」という数字を様々に活用した細かい仕掛けが実にうまく施されています。
まず、本作には単独で成り立つ12の楽曲に加え「Introduction」「Interval」(A〜Fの6つ)「Ending」の計8つの幕間的トラックがあるのですが、この幕間的トラックは全てBPM60に設定されていて、1秒にちょうど1ビート(4分音符)が刻まれるようになっています。そして、その幕間的トラックでは1ビートにつき「26、27、28、29、30…」「1445、1446、1447、1448…」「3773、3774、3775、3776!」というふうに、富士山の標高(メートル単位)がひとつひとつ読み上げられていきます。例えば、アルバムが始まってから1448秒あたりの時間が含まれる「Interval C」ではその時間に合わせて「1448」あたりの数字が読み上げられるようになっているわけです。数字が増していくに従って1秒で読みきるのがどんどん難しくなっていくため(「いち」と「せんよんひゃくよんじゅうはち」とでは後者の方が相当の早口を要求される)、読み上げる側も次第に余裕がなくなり口調が変わっていく。そういう感じが「山頂に近づくにつれて疲れや高揚からテンションが変わっていく」様子を見事に表していて、思いつきのコンセプトに留まらない優れた表現力を発揮しているのです。
また、12曲目「生徒の本業」では、〈3+3→3+7→3+7→3+6〉という“3776拍子”が一曲を通して展開され続けます。これはともすれば小難しいだけのつまらないものになってしまいかねない仕掛けなのですが、そこに乗せられる語り・歌メロの譜割(パターンは2組)が非常に巧みなこともあって、変則的な引っ掛かりと爽快な疾走感を両立した、とても聴き味の良いトラックに仕上がっています。こうした「最初にコンセプトありき」の音楽的アイデアを“頭でっかち”にならずに使いこなしてしまえるアレンジセンスが素晴らしく、複雑な構造を理屈抜きに楽しめる優れた音楽が生まれているのです。
他にも、2曲目「登らない理由があるとすれば」の3分52秒や4分22秒あたりからさりげなく連発される7拍子のオブリガード(基本となる4拍子に対するポリリズム)とか、8曲目「日本全国どこでも富士山」のシンプルながら非常に効果的なバッキングなど、聴き込むほどに面白さが増す緻密な作り込みが満載です。そうした仕掛けを「聴き込んでも聴き流しても楽しめる」語り口はポップスとして理想的と言えるもので、続けて3回聴き通してもモタレない不思議な聴き味の良さに大きく貢献していると思います。あらゆる面において驚異的な構造を持った作品です。
 
そして忘れてはならないのが、3776に残った唯一のメンバーであるアイドル「井出ちよの」の素晴らしいパフォーマンスでしょう。「普通のアイドルならこうする」という定石的パフォーマンスを微妙に意識しながらも概ね無視したような歌い回しは、人を食ったようなふてぶてしさがありながらも決して小賢しくならない奇妙な存在感を持っています。親しみ深い感じを発しながらも客に決して媚びることのない独特の雰囲気もあわせ、音楽全体に非常に個性的な深みを加えているのです。先に書いた「チャクラ(小川美潮)とFKA Twigsの間にあるような音楽」という印象も、この井出ちよののキャラクタから来た部分がかなりある気がします。あどけなさよりも老成した感じがあり、それでいて“頭が固い”様子がなく、飄々とした“天然”の嫌味ない図々しさにも満ちている。巧みに声色を使い分けて豊かな表情を描き出しながらも、あざとくわざとらしい印象が生まれない。というような、単に「芸達者」と言って片付けられない得難いキャラクタは、「将来確実に大人物になる」と思わせる“何か”があります。
先述のような高度で個性的な音楽に放り込まれてもそれと同等以上に渡り合う存在感が素晴らしく、この人材があってこそ(そしてそれをプロデューサー石田彰がここまで活かせたからこそ)こうしたアルバムができたのだ、ということなのかもしれません。音楽もボーカルも「一般的なアイドルを意識しながらそこから自然に逸脱してしまう」個性を持っているからこそこんな作品が生まれてしまった、と言うこともできそうです。
 
以上のように、『3776を聴かない理由があるとすれば』は、「プロデューサーがやりたい放題やる場としてのアイドルポップス」そして「それに負けない主役としてのアイドル」という(ここ数年でかなり多くなってきた)組み合わせが、そうしたスタイルを自分で求めながらも知らず知らずのうちにはみ出てしまう個性的な逸材たちによって達成されてしまった、突然変異的な大傑作なのだと言えるのです。各所で注目されているのも当然の内容なので、機会があればぜひ聴いてみることをお勧めします。
 
 
 
第8位:Kendrick Lamar『To Pimp A Butterfly』
 

 

トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

  • アーティスト: ケンドリック・ラマー,ジェイムズ・フォンテレロイ,ラプソディー,ジョージ・クリントン,ビラル,ロナルド・アイズレー,K.ダックワーズ,D.パーキンス,マシュー・サミュエルズ,T.マーティン,C.スミス
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2015/05/20
  • メディア: CD
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2015年グラミー賞の「最優秀ラップ楽曲」「最優秀ラップパフォーマンス」部門を受賞し、名実ともに現在のヒップホップシーンを代表するラッパー・Kendrick Lamarの3rdアルバムです。これは本当に驚異的な傑作で、歌詞云々を無視して作編曲と演奏〜アンサンブルだけをみても、あらゆるジャンルの代表的な名盤に勝るとも劣らない圧倒的な格があります。ヒップホップ(〜ブラックミュージック一般)に偏見や抵抗感のある人にこそ聴いてほしい作品です。
 
本作においては、たとえばFLYING LOTUSの『You're Dead!』(Kendrickも客演)で聴けるような、初期SOFT MACHINEや電化マイルス(Miles Davisのエレクトリック楽器導入期)〜初期WEATHER REPORTなどに通じる、60年代末から70年代初頭にかけてのジャズやプログレッシヴロックを意識した音進行が、独自のやり方で柔らかく解きほぐされ、引っ掛かりと滑らかな浸透性を両立した、非常に魅力的なものに仕上げられています。Lil LouisやMOODYMANNのような(上記のジャズからトロピカルなフュージョンに繋がっていくあたりの音遣い感覚を活かした)薫り高いハウスを連想させるパートもあり、ゆったりした流れを保ちながら檄を飛ばし続けるバランス感覚は驚異的です。79分の収録時間を全くダレさせない、程よい緊張感を保った居心地の良さがあり、戦闘的でスムースな雰囲気にどこまでも快適に浸ることができるのです。複雑でしかも効果的なリズムアイデアも素晴らしく、それをかたちにする演奏〜アンサンブルも、“訛り”“揺らぎ”を巧みにコントロールする見事なものばかり。そしてそれをのりこなすKendrickのラップは最高で、歌詞を一切聴き取れなくても楽しめるどこまでも“音楽的”なフレージングは音楽全体の顔として完璧です。
このアルバムは、アメリカの社会問題(昨年7・8月に起きた白人警官による黒人暴行事件ほか)に反応した濃密な歌詞世界も勿論すごいのですが、そんなものを一切聴き取れなくても楽しめる圧倒的な音楽的クオリティがあって、ヒップホップやファンク(特に、James Brownのワンコード・ファンクに連なるモノトーンの音進行)に抵抗のある人も、驚くほどすんなり惹き込まれてしまえる作品になっていると思います。ジャズやプログレッシヴロックのファンにもぜひ聴いてみてほしい、最高の「ブラックミュージック入門篇」と言える傑作です。
 
たとえば先に挙げたFLYING LOTUS『Until The Quiet Comes』のライナーノートでは、「最近はGENTLE GIANT、SOFT MACHINEの『Volume Two』、CANなどを聴いている。良いものなら何だって聴く。」という発言が紹介されています。そもそも「ロック(白人音楽)はブルースなどの黒人音楽のパクリだ」というよく言われる話と同じくらい黒人音楽も白人音楽からの影響を受けているのですが
Miles DavisやSly Stone、P-FUNK、PRINCEなどの時代からそういう傾向がありましたし、KRAFTWERKYMOに連なるジャーマンロック〜ニューウェーブテクノポップのラインが土台の一翼を担っているヒップホップなどは良い例です)、ここ数年、上記のような(ビートの効いたものに限らない)高度な白人音楽を掘り下げ自分達のものにしてしまう、という黒人音楽からの動きが、どんどん面白い結果を出すようになってきている感があります。Kendrick Lamarの3rdアルバムはその最大の好例と言える作品で、あらゆるジャンルのファンが(流行り云々関係なく)聴いてみるべき大傑作なのだと思います。
 
こうしたこともあってか、本作は各所の「年間ベストアルバム」記事で第1位を取ることが最も多い作品になりました。音楽的に極めてクオリティが高く、ブラックミュージックのコアなファンからも普段ロックなどしか聴かない人からも抵抗なく惚れ込めるものになっていることに加え、緻密に作り込まれた歌詞世界も非常に強力で、“文学的”“社会的”に優れた(≒わかりやすく高尚な)ものを一段高く見る層からも好まれる要素が多い。つまり、どのようなポジションからみても「安心して持ち上げられる」作品になっているわけで、2015年に最も注目されるアルバムになったのは当然の成り行きなのでしょう。しかしもちろん、先に述べたように“本当の意味で優れた”作品であり、個人的には、実力に見合った評価をされている大傑作なのだと思います。ハイプ的な扱いをされている場面も少なからずあるでしょうが、そんなことを気にせず聴いてみてほしいアルバムです。
 
なお、本作の国内盤には、膨大な歌詞(輸入盤には掲載されていない・ブックレット16ページ分)、そして「どのパートを誰が歌っているか」の詳しいクレジットが、丁寧な日本語訳(ブックレット20ページ分)とともに完全掲載されていて、作品を理解するための大きな助けになってくれます。これは大変な労作。買うならこちらの方が遥かにお得です。
 
 
 
第7位:ゆるめるモ! 『YOU ARE THE WORLD』
 

 

YOU ARE THE WORLD

YOU ARE THE WORLD

 

 

 
自称「脱力系ニューウェイヴ・アイドル」の2ndフルアルバム。作編曲、サウンドプロダクション、バックトラックやバンドの演奏、そしてボーカルの稀有な歌唱表現力など、全ての面において優れた作品です。アイドルやJ-POPのファンはもちろん、60年代末〜70年代前半の“本物”のサイケデリック音楽(名ディスクガイドの誉れ高い『レコード・コレクターズ 2002年7月号 サイケデリック・サウンズ特集』で扱われているようなもの)を好む方などにも聴いてほしい、不世出の大傑作。強くお薦めしたいアルバムです。
 
「“君がいない世界は世界じゃない”をコンセプトに、ニューウェイヴに加え、ドリルンベース、ハード・ミニマルテクノ、80年代ポップ、トロピカル・パンク、オルタナハードコア・パンク、エレクトロなど、なんでもありの17曲を収録」と喧伝される本作の音楽性については、プロデューサー田家大知のインタビュー
に非常に詳しいので、具体的な説明や種明かしに関してはそちらに譲ります。
ここでは、そうした楽曲の凄さよりも、ゆるめるモ!メンバーの音楽的な表現力の得難さについて、簡単に記しておきたいと思います。
 
ゆるめるモ!の音楽について考えるとき、個人的にまず思い浮かぶのは、アメリカ・イリノイ州出身の偉大なるアシッドフォークミュージシャン、ピーター・アイヴァース(Peter Ivers)です。
ブルースやフォークなどを独自のセンスで混ぜ合わせ、“自分では普通にやっているはずなのに何か変なものができてしまう”というようなナチュラルな畸形音楽を生み出していた彼の作品には、
「世間の“普通”に馴染めない苛立ちを常に漂わせつつ、そういう自分を特に悲観せず受け入れ、くよくよせず生きている」
「ヒリヒリした焦燥感と深い落ち着きが何の違和感もなく自然に両立されている」
というような、独特の得難い力加減があります。個人的には、ゆるめるモ!のメンバーの佇まいやボーカルにも、それに通じる(その上で微妙に異なる)深い味わいが感じられるのです。
 
これに関連して挙げたいのが、今年の3/28に新宿PIT INNで行われた「JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段」です。
これは、日本を代表するノイズバンド「非常階段」とそちら方面と深い交流を持つ超絶サックス奏者・坂田明らによる「JAZZ非常階段」に、ゆるめるモ!のメンバー(この時は4人)が加わって演奏する、というイベントで、始まるまでは、前年の4/22に同会場で行われた「JAZZ非常階段+JAZZBiS階段」(BiSメンバーのうち2名が参加)の素晴らしい成果に味をしめた二番煎じのような企画と思われていました。しかし、これが想像を遥かに上回る極上の内容で、JAZZBiS階段以上の優れた音楽的相性と、ゆるめるモ!メンバーの持つ優れた表現力が、実にわかりやすいかたちで示されていたのです。
 
JAZZBiS階段では、ベテラン揃いのJAZZ非常階段メンバー(非常階段の4人・坂田明大友良英)の「“効率の良いやり方”を知り尽くしているために微妙に型にはまってしまうこともなくはない」演奏を、BiSメンバー(ファーストサマーウイカヒラノノゾミ:それぞれ絶叫&ドラムス・ノイズ卓を演奏)の「定石を知らないからこそ出てくる新鮮な発想」、そして「過度な自己主張をしようとしない“節度ある”姿勢」が絶妙に刺激し、互いに探りあいながら微妙な緊張感を生んでいく雰囲気も含め、素晴らしい音楽的成果を生んでいました。
これに対しJAZZめるモ!階段では、そうした探りあい感が全くなく、様々な組み合わせで入れ替わり立ち替り行われていくセット全体が、ゆるめるモ!特有の脱力感に引き寄せられ、自然に溶かしほぐされ一体化していたのです。自分は後にも先にもこんなに気取りのないノイズを聴いたことはありません。“柔らかい爆音の法悦境”という趣さえありました。
「JAZZ非常階段+JAZZめるモ!階段」は、たとえば〈美川俊治(非常階段・インキャパシタンツ)+ようなぴ(ゆるめるモ!)〉の純粋ノイズセッション(帯域の分担と自然な構成力が抜群に見事でした)など、計14種類の組み合わせがどれも非常に充実した内容だったのですが、その中でも特に素晴らしかったのが、アンコールで行われた全員セッション「解体的交歓3」でした。阿部薫高柳昌行らによる日本のフリージャズの名演「解体的交感」に敬意を表したタイトルのもと行われたこのセッションは、一見すると行き当たりばったりのダラダラした展開に見えなくもないものだったのですが、そこにはノイズというもの一般にありがちな「狂気(の演出)」や「切迫感」というものが微塵もなく、肩肘張らない脱力感が全体を自然に支配しており、独特の力加減を保ちながら終始“緊張感を保ちつつ深く落ち着く”ものになっていたのです。自分から仕掛けようとしないモ!メンバーに対しJOJO広重さん(非常階段のリーダーにしてこの企画の主催者)が優しく煽りかける場面も多かったのですが(ギターの弦を触らせたり目の前で手をヒラヒラさせたり)、そうやって面倒を見ているようでいて、その実モ!メンバーのペースに取り込まれているという感じがありました。
 
JAZZBiS階段が「尖ったノイズに水気を加えて少し溶かした」ものだったとすれば、JAZZめるモ!階段は「完全に煮込まれ溶かされた」という感じがありました。既に積極的に共演を重ね、あらかじめ息を合わせた上でのこの企画だったというのもありましたが、それにしてもこの「解体的交歓」は、ゆるめるモ!の持ち味の凄さ、そして非常階段メンバーとの相性の良さをつくづく実感させられる素晴らしい演奏になっていたと思います。なにしろ、「どこにも向かおうとしていないのに、他の誰にも辿り着けないところに確実に突き進んでいる」というような圧倒的な説得力があるのです。最後の“なんとなくハケていく”ところでも無理矢理感が全くなく、これがあるべき終わり方なんだという納得が得られる。これも、先述のピーター・アイヴァースのような「ヒリヒリした焦燥感と深い落ち着きが何の違和感もなく自然に両立されている」感じを柔らかくしたような、ゆるめるモ!メンバーにしか出せない味わいがあったからこそ可能になった演奏なのだと思います。そういう得難い雰囲気・人間性が非常にわかりやすいかたちで示されていた、本当に素晴らしいライヴでした。
(補足すると、JOJO広重さんもご自身のブログhttp://www.kt.rim.or.jp/~jojo_h/ar/p_culmn/kokoronouta/jojo13.htmlピーター・アイヴァースに対する思い入れを表明しています。こうした点でも両者に通じるところはあったのではないかと思います。
なお、先の「ゆるめるモ!ピーター・アイヴァースには通じる感覚がある」という印象に関しては、
のように広重さんご自身に同意して頂けました。)
 
ゆるめるモ!メンバーのこのような味わいは、ライヴで動いている姿を観たりしなくても、歌声を聴くだけではっきり感じ取ることができます。ゆるめるモ!というと(はじめに挙げたインタビューなどでも示されているように)作編曲など音楽性の凄さ面白さばかりが語られがちですが、このメンバーのボーカルがなければこの味は絶対に出ないわけで、個人的にはむしろこちらの方が得難いのではないかと思えます。
そして、そういう観点を得た上でゆるめるモ!の音楽を聴くと、高度で豊かなポップス(“普通”の視点を持つ大人だからこそ作れるもの)を本物のサイケミュージシャンが乗りこなす、まことに稀有なバランスを持つ音楽だということが伝わってくるのです。楽曲の構造だけ見ると割とストレートに泣きを入れてくる場所も多いのですが、その楽曲もそこにのる歌詞も安易な“泣き落とし”に流れない素晴らしいバランス感覚を持っている上に、それに対し「思い入れを持ちつつ、なりふりかまわずにのめり込むのではなく、一歩引きながらもそっと寄り添う」感じで歌うボーカルに独特の“節度”があるためか、感情が昂り盛り上がる場面でも「暑苦しい」「いやらしい」と感じられることがありません。無理やりゆるくするのではなく、自然に脱力させてしまう。「それとなく感化する」影響力を持ちながら、気負いなく真摯に、静かに潤った声で歌う。他人の曲や歌詞を程よい思い入れを持って歌うことで初めて生まれる絶妙な距離感と、先述のような「緊張感を保ちつつ深く落ち着く」得難い味わいが、本当に素晴らしい深みを生み出しているのです。こんな音楽は他に殆どありません。ぜひ体験してみてほしい、心の底から推せる作品です。
 
ゆるめるモ!のような素晴らしい音楽を聴いていると、いわゆる「アイドル」というものが、「水商売の延長」というような商業的な在り方というよりも、ロックとかパンクとかいうような表現方法としてのスタイル、つまり「比較的意識的に選択するもの」として確立されつつあることを実感します。「アイドルという形式ならどんな音楽性でも受け入れる」客が増えてきたことにより、「アイドル・ポップスという枠内で音楽的にやりたいことをやり尽くす」プロデューサーと、「客に媚びずにストレートな自己表現をし通そうとする」アイドルがともに増えてきて、その両者がうまく組み合わされることにより理想的な音楽的達成がなされるのです。特に「客に媚びない表現」が受け入れられるようになってきたことは大事です。「客に媚びる」というのは「こういうことすれば満足するでしょ」という安易でお決まりなパターンを示して手を抜くということであり、それはつまり「客を舐める」ということに等しいからです。「客に媚びない」姿勢とそこから生まれる「媚びないカワイさ」(誰のためでもない自分のためのものとしてのカワイさ・または結果としてたまたまそうなった自然発生的なカワイさ)を示し、それが当然のように受け入れられるようになってきたことで、「アイドル」というスタイルからしか生まれない、他の一流のものと比べても全く遜色のない優れた表現が、目に見えてたくさん生み出されるようになる。ゆるめるモ!はそうしたシーンが生み出した最大の成功例のひとつであり、理想的な在り方をしているユニットなのではないかと思います。ぜひこのまま突き進み、素晴らしい作品を生み続けていただきたいと願います。
 
本作『YOU ARE THE WORLD』はトータル74分ほどもある長尺のアルバムなのですが、その構成は実質的には「2〜3枚のミニアルバムを続けて再生している」ような感じのもので、しかもその流れ繋がりが非常に滑らかなので、全編をダレず疲れずに快適に聴き通すことができてしまいます。凄まじい勢いを発する展開が多く、緩急の起伏もわりと多いのに、その並べ方が巧みだからなのか、過剰に“振り回される”感じはなく、余計なことを考えずに浸りきってしまえるのです。特に中盤(7〜12曲目)と終盤(13〜16曲目)の流れは素晴らしく、それら全てを引き受けて盛り上がる最終曲「ONLY YOU」も見事というほかありません。これだけの長さがあるのに“尻上がりに良くなり続ける”ことができている点でも稀有なアルバム。自信を持ってお薦めできる、掛け値なしの大傑作です。
 
 
 
 
第6位:Phew 『ニューワールド』
 

 

ニューワールド

ニューワールド

 

 

 
日本におけるオリジナル・パンク・ロッカーの一人であり、坂本龍一やCANメンバーなどとの共演でも知られるPhewが、2年ほど前から続けてきた“エレクトロニクス弾き語り”の成果をまとめたアルバムです。これが驚異的な作品で、昨年発表された3枚の傑作CD-Rで試みられていた電子音響が、コンパクトに洗練された“歌モノ”スタイルに落とし込まれ、奇怪なアイデアをとても聴きやすく味わうことができるようになっています。こうしたジャンルに馴染みのない人にこそ聴いてみてほしい、アヴァンギャルド・ポップスの大傑作です。
 
電子音楽はずっと好きだったけど、自分でやると考えたことはなかった」というPhewさんがこのスタイルをとることになったのは、2011年の春にヴィンテージなリズムボックス(Whippany社の「Rhythm Master」)を安く手に入れたことがきっかけだったようです。
(発言内容はele-kingのインタビューhttp://www.ele-king.net/interviews/004902/と『ミュージック・マガジン 2016年1月号』から引用:以下同様)
「80年代の音は嫌いだけど、60〜70年代のリズムボックスの音は大好きだった。それを実際に手に入れたことが大きかった」
「歌がそのときの体調によって声が変わるように、アナログシンセは場所や天候などによって毎回音が変わり、思った通りの音が出てくれないのが面白い。また、アナログの機材は自分の指先から繋がっている感じがあって、身体と直結している音を自由にできる、ダンスみたいな感覚がある」
というふうに2013年から「アナログ機材+歌」形式のライヴを始めたPhewさんは、その流れで3枚のCD-R作品『Phew 1』『Phew 2』『Phew 3』
(それぞれ約24分・31分・21分)を作り、2014年に発表します。「シンセサイザーでこんな音が出ちゃったっていうくらいの、メモみたいなもの」というこの作品群は、明快なメロディ/フレーズや定型ビートといったものが少ないアンビエント〜インダストリアル寄りの作風なのですが、音色を選び組み合わせる“響きの感覚”や、それを長いスパンで並べ構成していく“時間感覚”が非常に優れているためか、抽象的で掴み所のない展開ばかりなのに全くダレずに聴き浸ってしまうことができます。本作『ニューワールド』は、そのCD-R作品でなされた様々な試行錯誤を活かしつつ(アイデアそのものに直接的な繋がりはないようですが)、著しく洗練された“歌モノ”のスタイルに磨き上げたアルバムで、先に述べたような“響きの感覚”や“時間感覚”を非常に快適に味わえるようになっています。
 
音楽一般を語るときに割とよく言われる話として、「音楽の三要素はメロディ・リズム・ハーモニーである」というものがあります。メロディ(音程の並び)とリズム(一定の長さを持つ音の並び)がハーモニー(複数の音程が干渉することによって生まれる和声)を伴い繋がっていくことで音楽の構造が成り立つ、という話です。しかし、これはあくまで譜面上(「楽譜に記された記号で構造を把握する」西洋音楽的な考え方)での話であって、実際に音を出して表現されるものとしての音楽について言えば、その「三要素」よりもまず先に“響き”というものがあります。声や楽器が出す音の音色(音響構成)こそが音楽の肉質を決めるものであり、メロディやリズム、ハーモニーが全くなかったとしても、音色の変化やその構成が巧みであれば、ある種の考えや論理を提示する表現としての音楽は立派に成り立つのです。
(逆に言えば、メロディやリズム、ハーモニーの構造がいかに強固だったとしても、響きの使い分けができなければ、音楽の表現力は貧弱になってしまいます。)
こうした考え方を突き詰めてかたちにしているのがいわゆるノイズ・ミュージックです。MERZBOWや非常階段などの音源・ライヴでは、はっきりしたメロディも決まったテンポもない音色の数々が不規則に垂れ流されていくのですが、そうした「三要素」を一切気にせず音響や音量の推移に注目していくと、明晰で表情豊かな“力加減の表現”がなされていることが見えてきます。こうしたスタイルは先の「三要素」を意識的に排除した上で奥深い表現力を生み出そうとするもので、「三要素」があることによってどうしても生まれてしまう情緒的な印象を避けつつ、響きそのものの滋味や快感に直接アプローチすることができるやり方なのだと言えます。先に挙げたPhewのCD-R作品群も、そうしたノイズミュージックほど徹底して「三要素」を排除してはいないものの、アナログ機材の豊かで個性的な響きをいかに扱い“力加減”を描き分けていくか、ということに主な力点が置かれていると思われます。そしてそれが非常に優れた成果を生んでいるのです。
 
そのようなCD-R作品群を経て製作された本作『ニューワールド』は、先述のようなスタイルに慣れていない状態で聴くと少々とっつきにくい印象のある作品なのですが、抽象的な展開が殆どを占めていたCD-R作品群と比べて聴くと「非常にわかりやすい構成がなされている」ことがすぐにわかるアルバムになっています。音進行や音響は一般的に馴染みの薄い奇怪なものばかりなのですが、明確な「三要素」を伴うフレーズは非常に印象的なものばかりで、しかもそれらがとても上手く描き分けられ、絶妙のバランスのもとうまく対比されているのです。
「サウンド・デザインをDOWSERの長嶌寛幸さんにお願いしたのがすごく大きいと思います。私がメモ代わりに録音した、わけのわからない混沌とした塊を、聴きやすく整理できたのは彼のお陰です。あらかじめ曲の構成を考えて、好きなようにどんどん録っていった音源を長嶌さんに渡して、編集とミックスをやってもらう」
というふうにして作られた本作は、Phewさんの卓越した“響きの感覚”で選ばれた極上の音色の数々が、それこそコニー・プランクばりの完璧なサウンドプロダクションのもとまとめられた仕上がりになっています。一つ一つの音色が非常に良い上に、それらが干渉して生み出される“響きのハーモニー”が驚異的に素晴らしく、理屈抜きに体に訴えかけてくる音響的快感があるのです。ヴィンテージ・エレクトロニクスの楽しさを最高の形で示してくれる音楽であり、生理的な機能性だけをみても極めて優れた作品です。
そして、そうした音響的快感に惹きつけられて繰り返し聴いていくうちに、奇怪なフレーズの数々がどのように機能しているかということも体で掴めてきて、各曲の“論理的に明晰”と言っていいような優れた構成が見えてくるのです。一見すると敷居が高そうに思えるけれども、構成は非常に洗練されていて聴きやすく、独特の味わいに対応する“回路”が、何度も聴き返すうちにすぐに形成されていく。こうしたスタイルに馴染みのない聴き手を引きずり込み同時に“教育”していく感染力が凄まじく、こうした語り口の上手さや機能性は、ポップ・ミュージックとして理想的なものなのではないかと思います。
 
 音楽性(Phewさんご自身は「パンク電子ロック音楽」と形容)を他の何かに喩えるなら、たとえば
「THE POP MUSICやEP-4のようなニューウェーブ〜ポストパンクの“コンクリート・ジャングル”感をDREXCIYAのような深海エレクトロと混ぜ、LIAISON DANGEREUSESのようなスタイルに落とし込んだ」
と言えなくもない感じはあるのですが、そうしたものに通じるところがありながらも、フレーズやコード感などの音遣いも、リズム〜グルーヴ処理も、個性的に洗練された独自の構造を勝ち得ています。何かの安易な猿真似にはならず、他のどんなものとも並べて語れるものでもない。そうしたこともあってか、他の音楽を聴くことによって身についた“音楽の聴き方”が通用しない部分も多く、「この作品そのものを繰り返し聴くことで“聴き方”を身につける必要がある」ようなところもあるのですが、この作品の場合、その「固有の“聴き方”を身につけさせる力」が非常に優れているため、何度か聴き返すうちに急速になじんでしまうことができます。自分の道を突き進み日和らずやりたいことをやり尽くした上で、できるだけ分かりやすく咀嚼しやすい形に解きほぐしまとめあげるという「他人に理解させようとする」意志があり、それが素晴らしい仕上がりに結びついている。あらゆる面で充実した、アヴァンギャルド・ポップスの大傑作です。
 
なお、このアルバム、一聴した時点では「怖がらせようとしていないのに強烈に怖い」印象を抱かされてしまうような暗い雰囲気があるのですが
「こ、これは怖い。音楽を聴いてここまで恐怖を感じるのもそうない。死ぬ間際に流れる音楽はこんな感じじゃなかろうか」と言っています)、
繰り返し聴いていくと、第一印象で強く残るそうした暗さ恐ろしさは一面にすぎないものなのだとわかります。先述のCD-R作品群は確かにこのような暗く危険な雰囲気が主になっているのですが、それと比べると本作の雰囲気はだいぶ落ち着いていて、けっこう分かりやすく“カマし”を入れてくる外連味ある展開などもあってか、強面なだけでない、お茶目で可愛らしい側面もあるということがちゃんと伝わってくるのです。淡々としているのに非常に不穏で、“薄暗がりに得体の知れないものが静かに潜んでいる”感じがあるのですが、これは聴き手を怖がらせるためのポーズというよりむしろ“自然な佇まい”なのでしょう。光の殆ど差し込まない深海から出発し、静謐でゆったりした緊張感に身を浸しつつ、無理せずゆったり浮かび上がっていく感じ。「浜辺の歌」(有名な唱歌のカバーですが“これしかない”というくらい上手く収まっています)で締めるアルバムの構成も、そうした印象に大きく貢献しています。音楽そのものの驚異的な強度だけでなく、このような唯一無二の雰囲気・人間的深みがはっきり伝わってくるという点でも、得難く優れた傑作なのだと言えます。
 
Phewさんの(オリジナルアルバムとしては実に20年振りとなる)ソロ新譜『ニューワールド』は、以上のように、「第一印象のインパクト」「聴き込むことで得られる旨み」の双方において傑出した、個性的で聴きやすいポップ・ミュージックの大傑作になっています。単純に“身体が悦ぶ”音響的快感だけみても相当のものですし、「誰かに見せるためでなく何より“自分のために”トガッている」在り方を親しみやすく示してくれているという点でも稀にみる作品です。こうしたスタイルに馴染みのない方にも強くお薦めしたい、とてもカッコいい音楽です。
 
 
 
 
 
 
 
 
第5位:DHG(DØDHEIMSGARD)『A Umbra Omega』
 

 

A Umbra Omega

A Umbra Omega

 

 

 
ノルウェーブラックメタルシーンを代表する奇才Vicotnik(ex. VED BUENS ENDE・〈CODE〉)のリーダーバンド。8年ぶりの新譜です。いわゆるアヴァンギャルドブラックメタルのシーンが生み出した一つの到達点と言えるアルバムで、万人にお薦めできるものではありませんが、変なものが好きな方にはぜひ聴いてみてほしい大傑作です。
 
DØDHEIMSGARD('94年結成)は作品ごとに大きな方向転換を繰り返してきたバンドです。
初期はDARKTHRONEに通じるプリミティブ・ブラックメタル(1st・'95年)やBATHORYなどを意識したと思しき荒々しいブラック・スラッシュ(2nd・'96年)といった(当時のシーンからすれば)割とオーソドックスなスタイルをとっていたのですが(その中で強力な個性を示していました)、シンフォニック爆走ブラックメタルの名作とされるEP『Satanic Art』('98年)の翌年に発表した3rd『666 International』で一気に奇怪な音楽性を確立することになりました。
この作品にはCarl-Michael Eide(別名Czral:VIRUS / ex. VED BUENS ENDE)やSvein Egil Hatlevik(別名Zweizz:FLEURETY)といったノルウェー・シーンを代表する天才奇才が大集合しており、ブラックメタル特有の音遣い感覚をインダストリアル(非メタル含む)要素などでミュータント化したような個性的な仕上がりに貢献しています。
(VicotnikはSveinとのデュオAPHRODISIACでインダストリアル〜ノイズ的な作品を発表しています。)
そうしたメンバーが(おクスリの助けを借りたりもしつつ)創意を尽くした同作は、アヴァンギャルドブラックメタルを代表する名盤(迷盤)であり、ボーカルAldrahnの脱力感溢れる不思議な歌い回しも含め、他の何かでは替えのきかない味を持つ作品です。
この8年後に発表された4th『Supervillain Outcast』('07年)は、3rdのスタイルを引き継ぎつつ様々なアイデアを試す短めのトラック(15曲)の集合体になっており、音遣いの熟成度やサウンドプロダクションの出来は前作を上回っているのですが、アルバム全体の流れまとまりという点では少しパッとせず(前作はその点完璧だった)、今ひとつ冴えない印象を持つ作品になってしまっていました。そうしたこともあってか、バンドは本格的な活動を停止。Vicotnikは、イギリスのブラックメタル風バンド〈CODE〉(これも非常に個性的で強力なバンドです)への参加('02〜'10年)など、他での活動を主としていくことになったのでした。
 
本作はそうした流れを経たVicotnikが久しぶりに発表した作品であり、その個性的な音楽性が最も良いかたちで示された大傑作です。『666 International』をVED BUENS ENDEやVIRUSの音遣い感覚で強化したようなスタイルなのですが、そこにはVIRUS(というかCarl-Michael)の音楽に常につきまとうKING CRIMSON〜VOIVOD的な要素が一切なく、VED BUENS ENDEのクラシック〜現代音楽成分を最高度に熟成させた感じの仕上がりになっているのです。収録曲は(冒頭の1分ほどのイントロ曲を除き)全て10〜15分の長尺(×5)で占められており、その長さを全くダレさせず快適に浸らせる構成が実に見事。奇怪に入り組んだ世界観を直観的に理解させ惹き込んでしまう力に満ちています。『666 International』では完全にはこなれていなかった感のあるAldrahnのボーカル(Vicotnikによれば「独自の解釈力では比肩する者のいない凄いシンガーで、ノルウェー・シーンを代表する一人」とのこと)も、曲に完璧に合った素晴らしい表現力を発揮しており、音楽全体の説得力を大きく高めています。こうしたスタイルの音楽に慣れていない方がいきなり聴いた場合は取っつき辛く思えるかもしれませんが、VED BUENS ENDEやVIRUS、〈CODE〉などに少しでも惹かれるもののある方はぜひ聴いてみてほしい大傑作です。
 
このアルバム、現時点では(そもそも知名度が低いことに加え、聴いた方からも)あまり芳しい評価を得られていないようなのですが、個人的には今まで聴いてきたあらゆるブラックメタル関連作品の中で最も好きな一枚ですし、作品の深み・それを伝える巧みな語り口という点でも、ジャンルを問わず最高級の傑作なのではないかと思います。できれば広く評価されてほしいアルバムです。
 
《参考》ここで出てきた各バンドについてはこちら
で詳述しています。よろしければ併せてご参照ください。
 
 
 
第4位:鈴木慶一 『Records and Memories』
 

 

Records and Memories

Records and Memories

 

 

 
日本を代表するロックバンド・ムーンライダーズのリーダーであり、はちみつぱいTHE BEATNIKS、Controversial Spark、No Lie-Senseなど、様々なバンド/ユニットで高度かつ個性的なポップミュージックを作り続ける名ミュージシャン・鈴木慶一。音楽活動45年周年という節目に生み出した、実質的には初の完全単独プロデュースとなるソロアルバムです。これが本当に素晴らしい作品で、微妙な異物感を伴いながら滑らかに進行する聴き味は他に類を見ません。非常に聴きやすく、繰り返し聴くほどになじんでいき、さりげなく染み入る個性的な味わいに離れがたく惹き込まれていく。どれだけ聴いても聴き減らない、奇妙で快適なポップミュージックの大傑作です。
 
「“『SUZUKI白書』から24年ぶり”と謳っていますが、実は完全にセルフプロデュースしたといえるのはこのアルバムが初めてかもしれない」
「結局はバンド体質なんだもん。だから集団でものをつくっていくのが好きなんだ。」
という本作では、意識的に“誤解”“偶然”を生み出すための工夫がなされていたようです。
 
「誤解の面白さってのは絶対あるんだよね。バンドやってると、こちらが口で言ったことをメンバーが誤解して違うフレーズを弾いたりする。それが面白い。でもソロの場合は、その誤解を自分で作らなきゃいけない。「無垢と漠漣、チンケとお洒落」の“漠漣(ばくれん)”なんて、歌詞をキーボードで打ち間違えて出てきたの。見事に変換してくれるからね。だって、何か打ち込まないとそれは表れてこないじゃない?頭の中で考えていても、そんな誤変換は生まれにくい。言語検索して歌詞を作っていくのはBEATNIKSの『M.R.I.』(2001年)ぐらいから始めたんだけど、今は目の劣化で打ち間違いがあるから、さらに発展性がある(笑)。老化、劣化を逆手にとってだね(笑)。」
鈴木慶一45周年記念ライヴ(2015.12.20)で販売されたパンフレット掲載のインタビューから引用)
 
「ギターが予想もつかない形で入ってきたり、ドラムが予想もつかないものになったりするのがバンドのおもしろさであり、大変なところでもある。人によっては自分でアレンジしたそのままのパターンを生に置き換える人もいるけど、私は偶然がおもしろけりゃいいと思っている。ソロでは偶然を生み出しにくいんですが、いちばん生み出せるのは歌詞を作るときかな。キーボードのBとNとMをまちがえる。OとPをまちがえる。それでちがう文字が出てくる。あれ。これおもしろい文字になったなと。それで調べていって、丸ビルハート団が出てきたりするわけだ」
(『ミュージック・マガジン 2016年1月号』掲載のインタビューから引用)
 
「(“シナトラ”という仮題がついていた「My Ways」について)私はあんなギターを普通は弾かないからね。これはAORな音にしようと。これを作ったときの裏話があって、これはディランの新譜のスタンダード・カヴァー集(註:フランク・シナトラの曲のみからなるカバーアルバム)を小さい音で聴きながら、別の曲を作るというやり方なの(笑)。なかなかいいんですよ。隣でビートルズが聴こえているとき曲を作ったことがかつてあったけど、何なのか忘れちゃった。これは確実に、確信犯的にディランの新譜を小さくかけながら、キーボードで作っています。そっちを小さい音量でかけているから、こっちはもう少し大きな音量で弾いているんだよね。つまり情報が分断する。ディランも分断されるわけ。それで誤解して曲を作る。」
ele-kingのインタビューから引用)
 
バンドと違って全てを一人でコントロールできるソロ活動では、ともすれば“意外性”のない(作り手自身からすれば)無難でつまらないものに落ち着いてしまう可能性があります。特に、慶一さんのような「一歩引いた裏方的ポジションから実力をふるう」タイプ(45周年記念ライヴで披露された9通りのバンド/デュオ編成でもそれがよく示されていました)はこうしたことを好まないようで、上に引用したような“誤解”“偶然”を積極的に生み出す工夫を重ね、本作を構築していったとのことです。
 
そうして生まれた本作では、非常に滑らかな聴き味と微妙な異物感が絶妙に両立されています。フレーズ〜コード、リズム、歌詞など、曲を構成する要素はどれも“正統的”と言っていいくらいすっきり解きほぐされた進行感を持っているのですが、仄かな違和感を醸し出す微細な“躓き”が随所に仕込まれていて、「何も考えずに呑み込んでしまえるけれどもどこか気になるものが残る」ようになっているのです。こうした音楽性を雑にまとめるなら「THE BANDとCAMBERWELL NOWを混ぜて大正歌謡に寄せた」という感じでしょうか。イギリス(〜ヨーロッパ)音楽とアメリカ音楽の音遣い感覚がとろとろに煮込まれ溶かし合わされて、それが日本の歌謡曲などにしか出せない味付けのもと仕上げられている。クラシカルで程よくブルージーな“引っ掛かり”を持つ洗練された作編曲をもとに、微妙にささくれ立ったインダストリアルノイズなどを自然に絡めることで、「スムースなミルクに細かいガラスの破片が混ぜ合わされている」ような口当たりが生まれているのです。これは歌詞についても言えることで、先に引用した「誤変換や検察ワードから予想外の言葉を選んでいく」手法により「意味がちゃんと通っているのにどこか変」な印象が出来ています。整った理性を伺わせながらも奇妙にねじれている作風は、一見無害そうな装いをしているし実際あからさまな悪意を持っていなさそうなものではあるのですが、その実とても危険で蠱惑的な表現力に満ちています。言うなれば「一般常識に精通したアウトサイダー・アート」。こんなものは滅多にありません。“普通”の音楽が好きな人にも変なものが好きな人にもお薦めできる、奇妙なポップミュージックの大傑作です。
 
このような音楽性は、45年の活動を通しその時々の“最新の音楽”を貪欲に吸収し続ける慶一さんの“枯れない”センスがあってこそ生まれたものでもあるのでしょう。
たとえば、この「鈴木慶一のお気に入り音源10選」(2015.12.11の記事)
では、ボブ・ディランTHE BEATLESと並び、フロ・モリッシー、青葉市子、DENGUE FEVER、タイヨンダイ・ブラクストンとBATTLES、ダニエル・クオン、本日休演、アクセル・クリヒエールなど、現在のシーンを引っ張る実力者ばかりが挙げられています。
また、この45周年記念ライヴレポート
でも触れられているように、森は生きている(今年解散)やOGRE YOU ASSHOLEなどのライヴにも積極的に足を運び、初期のceroをプロデュースしたりカメラ=万年筆やスカートのメンバーと作品を作ったりするなど(そういえば昨年5月に行われたNo Lie -Sense単独公演のゲストはアーバンギャルドでした)、若手のミュージシャンと積極的に共演を重ね、常に新しい滋味を吸収して自身の音楽性に反映させる姿勢が貫かれているのです。こうした姿は、マイルス・デイビスの「俺は若いミュージシャンに教えながら学ぶ。そうやって新しいエネルギーを得るんだ」という在り方に通じるものがあります。
そもそも本作は
「2013年の後半に作ってあったエレクトロニカ的な(あまり歌がない)アルバムをスタッフに聞いてもらったら、歌があったほうがいいと言われたので作り直した」
という経緯で生まれたもののようですし、こうした成り立ちからして「45年のキャリアを持つベテランミュージシャンが手癖で作った」ようなものではないことがわかると思います。そしてそれでいて、若手のミュージシャンにはない膨大な知識と、70年代のはじめからシーンの最前線に接し続けてきた圧倒的な経験値がある。そういうバックグラウンドど“枯れない”センスが活かされた本作は、単に「混沌とした音楽要素を非常に巧みにまとめ上げる構造がすごい」だけでなく、落ち着きと稚気を独特のバランスで併せもつこの人特有の魅力に溢れたものになっています。うかつにイジると恐ろしい目にあいそうな(うそ寒い闇を感じさせる)ひねくれた佇まいと、それでいて底抜けに暖かく、端から見ると気恥ずかしくなるくらい素直な叙情とが、控えめな落ち着きをもって違和感なく両立されている、という感じでしょうか。いわゆるカンタベリー系のアヴァン・ポップに通じる“偏屈な親しみやすさ”が、素晴らしく豊かな音楽性のもと、実に望ましいかたちで描かれているのです。
(この点、No Lie-Senseの大傑作1stやSLAPP HAPPYなどに通じるものも感じられます。)
このような点でも本当に素晴らしく、汲めども尽きせぬ魅力に満ちた作品になっていると思います。
 
などなど、鈴木慶一さんの(実質初めての完全単独プロデュースとなる)新譜『Records and Memories』は、一般的なソロ作品からは生まれない“意外性”と、ソロ作品でしか表現できない統一感を併せ持った、コントロールとエラーを高度に両立したアルバムなのだと言えます。作編曲・演奏・サウンドプロダクション(権藤知彦さんが驚異的に見事な仕事をしています)がどれも極めて素晴らしい仕上がりだということに加え、「派手ではないけれどもこの上なく着心地のいい肌着」「仄かに暖かい宵闇に優しく包まれるような居心地」という趣の聴き味・雰囲気も、他では体験できない滋味に満ちています。一撃で強烈なインパクトを放つわけではないけれども、一聴めからしっかり引っ掛かり、聴くほどに染み込み肌に合い、どんどん離れがたくなっていく。全ての音楽ファンにお薦めしたい、個性的なポップミュージックの大傑作です。
 
なお、本作の録音メンバーは「マージナル・タウン・クライヤーズ」と名付けられ、今後もバンド活動を行っていく予定があるようです。
(慶一さんの「結局はバンド体質なんだもん」という在り方がよく表れている展開だと思います。)
先の45周年記念ライヴでも非常に良いパフォーマンスをしていましたし、本作が気に入った方はぜひ観てみることをお勧めいたします。
 
 
 
第3位:Thighpaulsandra 『The Golden Communion』
 

 

The Golden Communion

The Golden Communion

 

 

 
COIL(インダストリアルミュージックの歴史を代表する蠱惑的なグループ)後期の“音楽面”での支柱であり、ジュリアン・コープSPIRITUALIZEDとの仕事でも知られるマルチミュージシャン、ティム・ルイス(Timothy Lewis:1958.6.19〜)による、実に8年振りの新譜です。CD2枚組(LP3枚組)約2時間に渡り西洋音楽の歴史を総括するような内容で、膨大で奇妙なアイデアの数々が驚異的に優れた構成力によりすっきりまとめ上げられています。「この長さのアルバムとしては史上最高の一つなのではないだろうか」というくらい素晴らしい作品なので、できるだけ広く聴かれてほしいところです。
 
ティム・ルイスは音楽一家の息子として生まれ(祖父は指揮者、母はオペラシンガーだったとのこと)、テレビのない家でクラシック音楽以外を聴くことを禁じられて育ったといいます。
(このあたりのこともあわせて、以下で述べる情報は全てこの2つのインタビュー
に準拠しています。)
両親はコンサート通いにも非常に熱心だったとのことで、カーディフウェールズの首都)大学で開催されたものには作曲家が何であれ頻繁に行っていた模様。ティム少年もそれに連れて行かれていたのですが、そうしたコンサート(ほとんどはモーツァルトブラームス)の中にはルチアーノ・ベリオカールハインツ・シュトックハウゼン、ジョルジ・リゲティのようないわゆる現代音楽寄りのものもありました。両親がそれを(ちゃんと聴き通しながらも)「門がキーキー言うような音楽だ」と吐き捨てていた一方で、ティム少年はわけもわからず惹きつけられていたと言います。「音楽の趣味を押し付ける両親への反抗がまずあったのだろうが、それをきっかけに現代音楽には完全にハマってしまった」ようで、寄宿学校を卒業する頃には膨大なレコードコレクションができていたとのことです。
(「シュトックハウゼンは集められるだけ集めたし、エドガー・ヴァレーズやベリオ、ピエール・シェフェールなどもあった。」)
また、その寄宿学校では、親の目から離れられたのをいいことにポップミュージックを聴きあさっていたのですが、周囲の学生が聴いていたKING CRIMSONの1st('69年発表:その頃は11歳)やジャズをきっかけに、CURVED AIR『Phantatmagoria』(3rd:'72年発表)のような現代音楽寄りのプログレッシヴ・ロックにも惹きつけられていきます。
こうした経緯を経ることにより「シュトックハウゼンからTHE BEACH BOYS、Gina Gまで、ありとあらゆる類のレコードを持っている」というような音楽マニアに育ったティム・ルイスは、現代音楽やアカデミックな電子音楽を入口として、シンセサイザーの演奏・取扱いにものめり込んでいきます。1979年に最初のシンセサイザーRolland SH5で729ポンドしたとのこと)を買ったティムは、精神病棟の看護師としての訓練を受け、実際に勤務を続けていたようですが、それと並行して1983年からはスタジオエンジニア・プロデューサーとしてのキャリアを歩み始めます。1986年から勤めていたLocoスタジオではジュリアン・コープと出会い、優れた音楽的素養を認められて長く協同作業(1993〜2004年)することになりましたし、その後1997年にはSPIRITUALIZEDに加入(〜2008年)。また、その同年にCOILのジョン・バランス(Geff)と出会い意気投合。Geffが2004年に亡くなってCOILが解散するまで、バンドの一員として素晴らしい活躍をしていくことになりました。
 
ティム・ルイスがこのように重宝されるのは、広大な音楽的バックグラウンドと確かな楽理に裏付けられたアレンジ能力、そしてシンセサイザーの(音響操作も含む)扱いに長けた優れた演奏能力によるところが大きいようです。特にCOILでは、細部の作り込みに異常な才能を発揮する“偉大なる音楽の素人”ピーター・クリストファーソン(Sleazy)および、そのSleazyを独特のやり方で誰よりも上手く方向付けできるGeffの2人が得意とする「ミクロの視点」(ティムはこうしたことに絶大な影響を受けたといいます)と、音楽全体の構造や構成を俯瞰的にみてまとめるのを得意とするティムの「マクロの視点」(SleazyとGeffはこうした能力者と一緒に作業したことがなかったようです)は、非常に相性が良かったようで、互いにないものを補完しあう絶妙の組み合わせにより、それ以前にはなかった傑作を生んでいくことになったのでした。
 
そうしたティムの持ち味が全面的に発揮されるのがソロプロジェクトThighpaulsandraなのですが、8年振りに発表されたこの新譜が完成するまでには様々な困難があったようです。同時期になされていたElizabeth FraserやCOCTEAU TWINSとの仕事も遅延の原因になったようですが、それ以上に大きな理由となったのが、Geff(2004年)、Sleazy(2010年)、そして母親の死だったといいます。
実はこのアルバム、2003年から(他の作品と並行して)製作が開始されていて、GeffとSleazyも深く関わっていたようです。「COILのために作られたけれどもCOILの美学にはそぐわないからとりあえず保管しておいた」アイデアも援用して作られた本作は、2008年の時点で一度完成しており、当初は2枚組ではなく1枚モノとして発表される予定でした。しかし、そこにはCOILに非常に近いスタイルの曲が少なからず収録されていて、ティムはそれを良しとしなかったと言います。COILの一員だったことを誇りに思いつつ「COILに限らず自分以外の何者にもなろうとしたくはなく、そのやり方を真似したくはなかった」というティムは、「これはCOILの未発表音源だというようなものを作るのは違うだろう」と考えました。その結果、COILを連想させる曲は全て廃棄し、新たなものを創り付け加えたのでした。
加えて言えば、そうでない曲に関しても大きな改変がなされているようです。たとえば、2枚目の最後を飾る大曲「The More I Know Men, The Better I Like Dogs」は2008年の時点で既に存在していたのですが、「長すぎるからもっと短くすべきだ」と考え実際短くしていくなかで「ここに幾つか付け加えるべきことがあるな」と思い直し、結果として約27分のアルバムバージョンに仕上げられたと言います。
 
アルバムの完成形を想定して製作するようなことはない。計画は一切持たず、聴き手のことも意識せず、自分のやりたいようにやる」というティムが気にするのは、「何か一つのジャンルの基準に照らして適切かということではなく、別々の2つの要素を並べてしっくりくるかということ」のようです。
「音楽を作るときは、2つのアイデアを粉々に砕いて混ぜ合わせ、うまく調和させようとする。それは歌詞についても言える。カットアップ(文字の書かれた紙を実際に切って並べ替える手法)をしたりして、できたものが良かったら写真を撮ってそれを使う」という発言に表れているように、ティム・ルイスの作風は、既存のジャンルを一切意識せずイチから新しい何かを構築していくというよりも、既存のジャンルを強く意識した上で並立し、それらを解体した上で組み合わせるという、形式にとらわれつつそこから脱しようとするものになっています。
「自分はポップミュージックが大好きで、膨大なコレクションも持っている。そして、様々なスタイルを並列させるやり方が好きだ。そういうことを理解していないレビューもあるけれど、本作では、不明瞭なパート(註:ミュージックコンクレート〜ノイズ〜アンビエントな展開をさすのだと思われます)もポップミュージック的なパートも同じくらい作り込まれている。どちらの方がより好きということはない」
という発言どおり、このアルバムでは西洋音楽の歴史が生み出したありとあらゆるスタイル・要素が切り刻まれて組み合わされ、混沌とした奇妙な響きが生まれています。しかし、だからと言ってとっ散らかったわけのわからないものになっているかというとそんなことはなく、2枚組の全体を俯瞰してみると非常に美しい均整がとれていて、マクロの視点からもミクロの視点からも完成させた作品になっていることがわかるのです。一聴した時点ではピンとこないかもしれませんが、何度も聴き返しているうちに“時間の流れ方”や“全体を貫く音遣い感覚”が体でつかめ、深く納得し、心地よく浸りきることができるようになる。個人的には4回続けて聴き通しても(つまり約8時間連続で流していても)負担に感じられません。異常に鮮明に磨き抜かれた音響の快感も含め、あらゆる点で優れた驚異的な傑作と言えるのです。
 
上記のインタビューでは、こうした曲の数々が具体的にどのようにして作られたかも明かされています。
たとえば、1枚目の最後に配置された大曲「The Golden Communion」については、
「まずストリングス・カルテットのパートから作曲した。しかるのち、スタジオに入って全ての電子音楽パートを作った後、ストリングスパートの一部をソフトウェアで変容させ、それを録音した上で、録音テープを切り刻み順番を入れ替えて新たな音源を構築した。その上で、音源をMIDI信号に変換する別のソフトウェアを持ってきて、その信号を使ってシンセサイザーを演奏できるようにした」
「中間部のジャズロック的なセクションは、ミュージック・コンクレートとストリングスからなるこの楽曲の世界では耳当たりの良すぎるものに感じられたから、「自分にとっては必ずしも不快ではないが聴き手にとっては少し不快なものにしたい」と考えた。そうして「展開上まったく予想外でありつつ完全に合うジャンルはなんだろう?」と考えた結果、L.A.風のスムースなフュージョンフェンダー・ローズの無調ソロを乗せるというアイデアが浮かんだ。それに再びミュージック・コンクレートのパートを繋げ、ストリングスセクションのぬかるんだバージョンに突入し終わっていくようにした」
と言っています。
(なお、インタビュアーに「ジャズロックのパートはフランク・ザッパと似ている」と言われたティムは、
「確かにザッパの大ファンで、1978年以降の全ての単独公演を観ている」
「この曲の中で唯一ボーカルが入るジャズロックのパート(20分10秒あたりから)などは、実際“おお、ちょっとザッパみたいだな”と感じた」
と答えています。)
具体的な言及をしていない他の曲も緻密で個性的な作り込みがなされているものばかりで、コード〜フレーズといった譜面的な構造(同一フレーズの反復に頼る場面が少なく殆ど常に変化し続ける)も、いわゆる非楽音(ノイズ)を美しく活かす音響も、聴けば聴くほどその強度と理屈抜きの心地よさに惹き込まれていくのです。
 
などなど、本作『The Golden Communion』は幾らでも小難しい話ができてしまう作品なのですが、その一方で、異常に美しい響きと面白い構造を理屈抜きに楽しんでしまえるものにもなっています。個人的な印象ですが、KING CRIMSON「Starless and Bibleblack」(アルバムでなく曲の方)や『Three of A Perfect Pair』後半のインダストリアルノイズ的な曲調を、優美なクラシック音楽〜現代音楽で鍛え上げ、仄暗く蠱惑的な世界を生み出した、というような趣もあり、そちら方面が好きな方には堪えられない美味なのではないかとも思います。
少々刺激的なアートワークなどもあわせ、決して敷居が低いとは言えない作品ではあるのですが、一度入って慣れてしまえばこれほど没入できるものもありません。アンビエントな音楽がイケる方やプログレッシヴ・ロックのファンなど、気の長さに自信のある方には強くお薦めしたい大傑作です。
 
 
 
 
 
第2位:Jim O'rourke『Simple Songs』
 

 

シンプル・ソングズ

シンプル・ソングズ

 

 

 
ジム・オルークの(単独名義としては)6年振りの新譜にして『Insignificance』('01年発表)以来実に14年振りの歌入りアルバムです。この14年というのは実際に制作にかかった時間のようで、'13年に行われたTime Out Tokyoのインタビュー(http://www.timeout.jp/s/ja/tokyo/feature/7388)には「12年かかってしまった新しい歌のアルバムがもうすぐ完成する」「5曲はすでに録音済みで、でもまだ完成はしていません」という発言があります。その時点でバンドのメンバー(山本達久・石橋英子・須藤俊昭)は既に固まっており、気の合う達人たちと時間を気にせず納得いくものを作りあげてきたのだということが窺い知れます。そうした感じは実際に作品に反映されていて、極めて緻密に作り込まれているのに窮屈にまとめられた印象がなく、同じ部屋の中でそっと寄り添ってくれているような親密さと、ダイナミックに弾け広がっていくようなスケール感とが、無理なく自然に両立されています。
 
その点、全てのパートを一人多重録音で作り上げた前作『The Visitor』('09年発表)の密室感に通じるものがあるのですが、アメリカ音楽的な要素が前面に出ていたそちらに比べ、本作『Simple Songs』では、60〜70年代のイギリス音楽に通じる風合いが強まっています。初期GENESIS(ボーカルの声質もあって連想させられる場面が多い)や初期SOFT MACHINEのような、いわゆるサイケデリックポップからプログレッシヴロックが生まれてくるあたりの、不定形で混沌とした豊かさを持つスタイル。それがFrank Zappaやミニマル寄り現代音楽の(ブルース的な引っ掛かりの薄めな)進行感と混ぜ合わされ、両者の中間あたりの音遣い感覚に仕上げられているのです。
(上記インタビューでLED ZEPPELIN『Presence』を「完璧な、最高に完成されたアルバム」と言っているように、もともと英国ロックの味わいも深く吸収してきているのだと思われます。)
そうした音遣い感覚は「フォークをベースにしたポストロックの味わいを70年代英国ロックに寄せた」ようなものでもあり、そしてそうした味わいが、極めて滑らかに流れていきながらもしっかり印象に残りこびりつく、さりげなくよく“立った”フレーズにより表現されています。ミニマル音楽〜ポストロック特有の、長いスパンで解決していく“気の長い”時間感覚が、コンパクトに洗練された強力な歌モノにより、ゆったりした居心地のよさを保ちながら形にされる。このような聴き味を生み出す作編曲・演奏が本当に素晴らしく、「いつどのような場面が現れるか」の配置が絶妙ということもあって、何度繰り返し聴いてもモタれない、しかも聴けば聴くほど味が出て酔わされるという、最高に快適な音楽体験をさせてもらえるのです。この手の音遣い感覚に馴染みのない人でも、滑らかに流れていく居心地の良い構成に浸っているだけで、いつの間にかそれを味わうための“回路”が形成されていき、深く惹きつけられ離れられなくなってしまう。こんなによくできた(それでいて作為を全く感じさせない)アルバムはそうあるものではありません。
(先のインタビュー文末にあるジムの『Presence』評「細部にこだわっていないようで、ものすごくこだわっている。それなのにあたかも即席でつくられたかのように聴こえる」がそのまま当てはまるように思います。)
ぜひ手にとってみて、何度か聞いてみることをお勧めします。
 
かくいう私も、聴き始めてから数回はピンときませんでした。本作を買った直後に選んだ「残す100枚」記事(http://closedeyevisuals.hatenablog.com/entry/2015/07/02/120531)からも落としていましたし、まさかここまで急激に惹きつけられるとは思っていませんでした。ふとしたきっかけで勘所をつかんだら最後、みるみるうちになじんでいき、さりげなく盛り上がる展開に心震わされるようになる。5曲目「These Hands」の静かでしみじみとした音響(カントリー〜アンビエント音楽の要素が巧みに溶かし込まれている)などは聴いているだけで“腰が砕ける”思いがしますし、アルバム全編を通して深く感動させられるにもかかわらず、過剰に感情を動かされて気疲れするということがありません。絶妙の具合で浸り続けられる、本当に素晴らしい作品。個人的に“一生の友”となる予感が十分ある一枚ですし、これからも楽しく聴き込んでいきたいです。 
 
《参考》
このアルバムの完全再現ライヴを含む2days公演のレポート
 
 
 
第1位:cali≠gari『12』
 

 

12(狂信盤)

12(狂信盤)

 

 

 
cali≠gariというのは本当に凄いバンドで、作詞作曲・演奏表現力のすべてにおいて替えのきかない味と実力をもっています。
完璧な発声と絶妙に突き放した歌い回しが心地よいボーカルに、タッチは雑なものの卓越したリズム処理能力と音遣い感覚で唯一無二の個性を誇るギター、そして世界的にも超一流の技術&フレージングセンスが素晴らしいベース。そうしたメンバーが集まってできるアンサンブルは、メタル的な安定感(ベース)とニューウェーブ的な隙間感覚(ギター)を両立しハードコアパンクの瞬発力で強化したような質感をもっており、しなやかな機動力の味で替わりになるものはありません。
音楽性も実に強力です。広く豊かな音楽的バックグラウンド(ニューウェーブ〜ハードコア〜オルタナティヴ、ジャーマンロック〜テクノ〜クラブミュージック、歌謡曲〜J-POPなど)を活かした自在な曲想が、各メンバーの個性的なセンスにより細かく巧みにひねられる。オーソドックスなコード進行をするところでも複雑な陰翳を生んでしまうアレンジ能力は驚異的で、このバンドにしか作れないタイプの名曲を数多く生み出しています。
 
本作『12』は、長く在籍していたドラマーが諸事情(主に技術的限界?)により脱退したことをうけ、4人の卓越したサポートドラマーを招いて製作された作品で、残ったメンバー3人の技術や個性が制限を受けることなく発揮され、素晴らしい結果を生んでいます。各曲のスタイルはバラバラなのですが、それがうまく並べられることにより出来るアルバム全体としての“かたち”がとても良く、程よい隙間(=想像の余地)を伴いながら滑らかに流れまとまる構成が絶妙です。緩急のバランスが非常に良く、ほどよい勢いを保ちながら息切れせず走り抜くことができています。強力な疾走感とゆったり浸れる居心地のよさが両立されており、複雑な作り込みをすっきり呑み込ませてしまう作編曲・演奏の良さもあって、もたれず何度でも聴き返してしまえる一枚になっています。アルバムとして理想的な成り立ちをした、掛け値なしの大傑作です。
 
ところで、このアルバムが「もたれず何度でも聴き返してしまえる」ようになっているのは、cali≠gariというバンド特有の“さばけた親しみやすさ”によるところも大きいのではないかと思います。聴き手に安易な感動を提供したり馴れ馴れしく手を差し伸べたりすることはなく、むしろ“客をあしらう”感じでクールに突き放す。しかし全く取りつく島がないわけでもなく、微妙な温度感を保ちながら側にいてくれる。仏頂面になりながらそれとなく寄り添っていてくれるような付き合いの良さがあって、聴き手との間に絶妙な距離感を保ち続けてくれるのです。先述の「オーソドックスなコード進行をするところでも複雑な陰翳を生んでしまうアレンジセンス」はそうしたバランス感覚の賜物で、本作で言えば終盤の「フィラメント」「あの人はもう来ない」「さよならだけが人生さ」など、何も考えずストレートにやったら鼻につくものになってしまう曲調に、そうした素直な叙情が上滑りしないだけの裏付けを与えています。このような“節度”を感じさせる人当たりはまことに得難いもので(60〜70年代の優れた音楽に通じるものでもあります)、cali≠gariの音楽の魅力である“べたつかない湿り気”の大事な源になっているのだと思います。こういう点でも素晴らしい味のある作品です。
 
こうした絶妙の距離感や“さばけた親しみやすさ”は、このバンドの音楽嗜好が非常に良い意味で“ポップ”だからこそ生まれているものなのかもしれません。
たとえばドイツのEBM(エレクトリック・ボディ・ミュージック)やインダストリアル〜ノイズミュージック、裸のラリーズのようなアンダーグラウンドな音楽も好み、背伸びせず身の丈に合ったものとして楽しめる感覚を持ち合わせていながらも、そうしたスタイルを前面に押し出してしまうことはなく、そちら方面の音響的旨みや時間感覚などを活かした上で、あくまで洗練された“歌モノ”のフォーマットで勝負する。これは単なる「売るため」の戦略ではありません。バンド自身がそういうポップミュージックを衒いなく愛しているからそういうスタイルが選ばれるのであって、バンド自身がやりたいことを素直に形にした結果、そういう“歌モノ”のフォーマットに落ち着くわけなのです。
(これはBUCK-TICKのような優れた先達に通じる在り方で、cali≠gariのメンバーがそちら方面のシーンから学んだものは、こういう点でも非常に多いと思われます。)
『12』では、過去作でも様々なかたちで試みられてきた「複雑で多様なエッセンスを洗練された“歌モノ”のフォーマットに落とし込む」手法がこの上なく素晴らしい成果を生んでいます。ロック周縁音楽(70年代後半以降)のほぼ全てを網羅する豊かな音楽的エッセンスが、このバンドにしかできないやり方で複雑に混ぜ合わされ、得体の知れないスープ状のものに解きほぐされた上で、余計なことを考えずに呑み込んでしまえる“食べやすい”ポップミュージックの形に落とし込まれている。聴きやすさと奥の深さが極めて高いレベルで両立されていて、快適に聴き通してしまえるのにいくら聴き込んでも味わいきれない豊かな奥行きがあるのです。こうした点でも実に稀有な作品なのだと思います。
 
唯一無二の魅力をもつバンドの持ち味が最高のかたちで発揮された大傑作。広く聴かれてほしいアルバムです。
 
 
《参考》本作発売前後のインタビュー記事です。具体的な情報についてはこちらをご参照ください。