年間ベストアルバムの選定基準(「アルバム」というものについての個人的な評価基準)

年間ベストアルバムの選定について、個人的な評価基準と意見をまとめておきます。


【基本的な考え方】

選定の基準をひとことで言えば
「どれだけ繰り返し聴けるか」
その度合いを感覚的に比べ、ランキングにしています。

「その年の音楽シーンにとっての重要度」とか「多くの人が良いと思えそうな内容」というようなことは一切鑑みません。「自分がどれだけ長く深く付き合い続けられるものか」ということのみを意識して選ぶよう心掛けています。
言い換えれば、「そのアルバムをどれだけ心底良いと思えたか」「一時の刺激や昂奮にとらわれず、どれだけ良いと思い続けられたか」。「そのアルバムからどれだけのものを得続けられているか」とも言えます。要は、自分にとってそのアルバムがどれだけ大事な相手であるか、どれだけの価値を認め続けられるものであるかということです。

このような個人選出のランキングが誰かのためのオススメになるならば、そこに選出されるラインナップは、余計な考えを極力排したものでなければなりません。「こいつわかってるな」と思われたいがために世間(メジャー・マイナー問わず)の評価が高いものを並べるとか、それとは逆に「自分はどうしようもなく惹かれるけど世間的にはダサい」から選出を控えてしまうとか。そういう自意識が生まれるのは自然なことですし、そういう考えが見え隠れするランキングも見方によっては味わい深いものになります。しかし、「その選者“自身”が作品から感じた価値」の多寡が純粋に比較されるためには、そうした意識(“政治的意識”とも言えましょうか)はどうしても邪魔になりますし、そうした意識と基本的には無関係な他者にとっては、ランキングの純度を損なうものになってしまいます。「シーンのお勉強」とか「流行を押さえる」などの目的のない人にとっては、そうした自意識のないランキングの方が参考になるはずなのです。
「自分のセンスを誇るためのチョイス」というものは、その人個人のセンスが純粋に炸裂しているものにはなりません。「センスを発揮する」ことより「センスを評価してもらう」ことが主眼となるため、まわりに「こいつセンスいいな」と思わせるための目配せがどうしても伴ってしまい、作品の評価に雑味が加わります。
思い入れの足りない“中途半端に客観的”な文章はつまらないですし、そうなる要因は極力取り除かれるべきです。まず自分の主観を突き詰め、それが主観だということを自覚した上で、ヘタに客観的であろうという下心を出さず、雑味を加えずに、他者に伝わり受け入れていただけるように洗練し提示する。「自分にも他者にも誠実で在る」のが最も大事なのだと思います。
こうした考えのもと、評価・選出をするようつとめています。

したがって、「今年の音楽シーンの総括」にはなりません。あくまで「自分の1年の総括」です。それをふまえて読んでいただければ、幸甚の至りです。


【評価の方法】

10回以上聴き通したアルバムから

・耐聴性
・代替不可能性
・個人的に肌に合う度合

の高いものを選んでいます。


〈最低でも10回聴き通すということ〉

10回というのは、初めて聴いた時の
昂奮がさめて冷静な判断を下せるようになる時期の目安です。また、初めて接した不慣れなものに対する“回路”を形成し、準備を整えた上で正当な判断を下せるようになる時期の目安とも言えます。慣れ親しんだ類のものにしろ、そうでないものにしろ、適切な距離感をもって落ち着いた評価をくだせるようになるためには、それなりの時間と回数が必要なのです。

個人的に、アルバムに対する“第一印象”が固まるのは、そのアルバムを3回聴き通したときだと考えます。
これは、「どれだけ長く深く付き合い続けられるか」ということを重視する立場からの考えです。ひとつのアルバムを3回聴いて「わかった」と思う人からすれば、“第一印象”というのは1回目を聴き通した時点での印象でしょう。しかし、30回聴き通しても完全に「わかった」と考えないようにする人からみれば、2回目を聴き始めた時点ですぐに揺らいでしまうような“一聴した時点での印象”は、入り口にすら入っていない、せいぜい敷居をまたいだ瞬間というくらいのものです。

これを「同じ職場で仕事をしていく同僚」にたとえてみます。出会った初日は顔を見つめる機会もなかなかないものですが、一緒にいるうちに姿や性格をじっくりみる余裕もできてきて、一ヶ月も経つうちにはだいたいどんな人間かわかるようになってきます。外面のよい八方美人がボロを出しはじめたり、無愛想でビジネスライクに思える人が意外に好ましい人間味をもらしたりするものです。そして、その後も長く接していくことで、様々なものが見えてきて、メンバーのあいだに成熟した関係性が生まれます。ほどよい距離感をとってうまく付き合い続けられるようになるわけです。
音楽でもこれと同じようなことが言えます。一聴して「わかった」というのは外面を全てだと思ってしまうのと同じです。長く付き合っていくことを前提に考えるならば、“第一印象”を固めるだけでもある程度の時間が要りますし、それをときほぐしてうまい付き合い方をつかんでいくためには、それなりの十分な期間が必要になります。

こうした意味において、「3回」という回数は、入り口に立つ準備を整えるために最低限必要な数なのだと思います。
まず1回目でそのアルバムが「どんなものなのか」ということ(スタイルや空気感など、おおまかな方向性)を知り、それをふまえた2回目で全体のマクロな流れを俯瞰できるようになり、その上での3回目でミクロな吟味ができるようになる。そうすることで初めて、そのアルバム特有の「過ごし方」がつかめるようになってくるのです。

個人的に、アルバム(ひいては音楽一般)を吟味し理解するということは、その中での「過ごし方」をつかむことだと考えます。
仮に、「一聴しただけで全てのパートを記譜できる把握能力」があったとしても、その音楽全体がどういう雰囲気や時間感覚のもとに流れていくのかすぐにつかむことはできません。
たとえば、スティーヴ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽』やマニュエル・ゲッチングの『E2-E4』、SLEEPの『Dopesmoker』のような音楽は、ごく少数のフレーズが約60分という長尺のなかで緩やかに並列され変化していくものです。そうしたフレーズのひとつひとつが微妙な違いをもって描き分けられていくさま(ミクロの感覚)や、それらがどのような緩急・ペース配分のもとで繋がっていくのかという流れ(マクロの感覚)は、一聴しただけでつかむことは困難です。特に後者のような俯瞰の視点は、「こういうものなのだ」ということを知った上で繰り返し接しないと、なかなか得られるものではありません。
これは、こうした長尺の音楽に限った話ではありません。BEATLESの「Tommorrow Never Knows」やMASSACRE(フレッド・フリスのほう)の『Killing Time』、ムーンライダーズの『マニア・マニエラ』収録曲などのような“実験的なポップス”は、一度「過ごし方」を身につけてしまいさえすれば、明快にときほぐされた構造を気軽に楽しむことができますが、初対面の段階では「なんだかよくわからない味がする」という印象が先立ちがちです。

また、多くのブルースや60年代くらいまでのR&B〜ソウルミュージック、LED ZEPPELINBLACK SABBATHJUDAS PRIESTやDISCHARGEなど、各ジャンルの先達となる音楽は、それが発表された時代では一般に「わかりやすく刺激的なもの」としてとられていたわけですが、それ以降の時代における刺激(クリアな音質とか重さや速さなど)の基準からみると、そういう部分では「たいしたことがない」ととられてしまいがちです。
先達として名を残す優れた音楽は、実はそのようなわかりやすい刺激よりも「繰り返し聴き込むことでつかめる深い味わい」のために高い評価を得ているものです。そうした音楽は、発表当時は、そもそもが「わかりやすく刺激的なもの」と思われていたため、多くの人を簡単に惹きつけ、そうした深い味わいに触れるところまでうまく導くことができていました。しかし、「わかりやすく刺激的なもの」とは考えない後の時代の感覚からみると、聴き込むためのモチベーションを得にくいため、そうした深い味わいに辿りつく機会が少なくなってしまいがちです。音楽の価値判断において「古い」か「新しい」かを鑑みるのはまったくナンセンスなことだと思いますが(個人的な意見です)、「新しい」と感じられるものがその新鮮な刺激によって興味を惹きやすい一方で、「古い」と感じられるものが表面的な“地味さ”から聴き込まれる機会を失いやすい、ということは間違いなくあります。その両方をバイアスなしに比較するためには、それなりの時間をかけて聴き込むことが不可欠になるのです。

よく「音楽は時間芸術である」と言われます。各パートの響きやその干渉によって生み出される質感・空気感は、一定の時間をかけて緩急を伴いながら変化し、抽象的な雰囲気をかもしだしていきます。時間の経過とともに移ろい広がっていくそうした感覚こそが、音楽の醍醐味のひとつであり、「アルバム」というまとまりをもつパッケージを通して表現されるものなのです。
音楽を吟味するということは、(作編曲の構造や演奏の状態を理解した上で)このような雰囲気や時間感覚を体で感じとっていくということであり、そのためには、先述のように、何度も聴き返して「過ごし方」を身につけることが必要になります。
季節(気温や湿度)や気分によって聴こえ方も当然変わりますから、その時々によって音楽の異なる側面にアクセスできるようになります。「群盲象を評す」と言いますが、時間をかけることにより、ひとりの人間がこれを行い、様々な印象を得ることで、理解を広げ深めることができるのです。
したがって、できれば1年以上付き合った上で“判断”するのが望ましいわけですが、「年末に発表する」場合、全ての作品について十分な時間を確保することは難しくなります。
というわけで、「年末に発表する」ランキングは、あくまで暫定のものとみていただけると幸いです。
その上で、半年後と1年後にも「修正版」をあげることで、理解の深化や評価の変わりようを反映させたいと考えます。


〈評価基準〉

「アルバム」という一枚のパッケージとしての成り立ち、かたちや効き目がどれだけ優れているかということを、おおまかにわけて3つの要素について吟味しています。
「良い曲が多いか少ないか」というようなことは問いません。いわゆる名曲がなくても、一枚全体を通して生まれるものが特別であれば、それは傑出した作品です。
要は「アルバムとしてどうなのか」ということです。


・耐聴性

「何度でも聴けるアルバムか否か」ということです。

優れた作品では、「わかりやすさ」と「わかりにくさ」が絶妙なバランスで両立されています。
ただ単に良い曲を並べたというだけでなく、一枚を通しての滑らかな(そして微妙な引っ掛かりを残した)流れがあって、緩急の構成やペース配分も好ましい。明晰な論理展開と、全体を俯瞰した上で見えてくる“かたち”のよさが両立されると、アルバム全体を「不必要な」負担なく快適に聴き通してしまうことができます。
そしてその上で、何度聴いても簡単に「わかった気になる」ことのできない曖昧さが備わっていると、「すっきり聴き通せてしまうけれど不思議な余韻が残る」という効果が得られます。論理性と抽象性が高度に両立されることで、複雑なニュアンスを容易に飲み込ませ、絶妙に気になる後味をもたせることができるのです。
親しみやすさと素敵な謎を併せもつことにより、気軽に聴こうと思わせる(存在を思い出させて「聴こう」と思わせる)求心力が得られます。
「名盤」と言われるアルバムの多くは、このように、しつこい聴き込みを誘発する優れた構造と、しつこい聴き込みに耐えきる奥行き、そして「ちょうどいい後口」が両立されています。
こうした成り立ちを分析することは、「アルバムを聴き通す」にあたっての楽しみのひとつと言えます。


・代替不可能性

「他では得られない味があるか否か」ということです。
パラメタが大きいかどうかということよりも、他にないパラメタがあるかどうかを重視しています。

これは音楽に限らずあらゆるものについて言えることだと思います。かわりになるものがあるならば、それに触れる必要はないのです。
先の「耐聴性」がアルバムとしての成り立ちの美しさ(パッケージとしての出来の良さ)を表すものとすれば、この「代替不可能性」はその中味の特別さを表すものと言えます。

たとえば、イングヴェイ・マルムスティーンという音楽家がいます。
一般的には「クラシック音楽風の旋律を連発する速弾き一辺倒のギタリスト」と認知されていて、興味のない方からは、「速く弾いているだけで魂がない」「デビューした頃は衝撃的だったけど、もっと速く弾けるプレイヤーがたくさん現れた今となってはたいしたことない」という評価をされることの多い人です。デビュー以来30年にわたって殆ど音楽性が変わっていないということも、そういう「速弾きだけの人」という印象を招く原因になっていると思われます。
しかし、この人は「速いだけで能がないプレイヤー」ではありません。
効率よくスピードを稼ぐだけのプレイヤーには絶対に出せない美しい音色と、どんなに速く弾いてもその鳴りが損なわれない丁寧なフレージングだけみても、ギターに限らずあるゆる楽器において“代わり”はいませんし(事故後もそうした特性は失われていないと思います)、何よりその音楽性が唯一無二なのです。
DEEP PURPLE〜RAINBOW(というかリッチー・ブラックモア)やウリ・ジョン・ロート、ジミ・ヘンドリックスなどを通して得られた独特なブルース感覚と、J.S.バッハあたりから感覚的に吸収したバロック音楽風の音遣いとを独自に組み合わせ、熟成されたかたちで、わかりやい歌ものハードロック・スタイルに落とし込む。これは、速弾きのスタイル(指遣いやスケール)を表面的に真似するだけでは決して引き継ぐことのできない優れた「ダシ」の部分で、こういう方向性をこれほどの練度で達成した人は、いまのところ他に殆どいないのです。
このような「プレイヤー」「作曲家」の両面において、イングヴェイ・マルムスティーンという人はいまだ唯一無二の存在なので、ファンの方々はいろいろ文句を言いながらも惹かれ続けています。(2chYngwie Malmsteenスレなどは面白いのでご一読をお勧めします。)フォロワーの多くはイングヴェイよりも速く正確に弾けますし、全盛期イングヴェイの特徴的なパーツを組み合わせた小綺麗な曲を作ることもできます。しかし、イングヴェイ独自の美しく深みのあるトーンとか、音遣いに備わる独特のブルース感覚(ダシの部分)などを再現するのは難しいので、イングヴェイ・ファンにとって申し分ない代替品になることはできないわけです。

このように、個性的で深い味わいを持っているということは、その作品の「代替不可能性」を高めます。
アルバムを繰り返し聴くことで、そうした(初めて出会うためすぐには受け入れ難いこともある)味わいに対応するための“回路”が形成され、他の様々なものを鑑賞するための感覚も鍛えられていく。こうした楽しみを与えてくれるという点においても、「代替不可能性」のある作品は、とても得難くありがたいものと言えます。


・個人的に肌に合う度合

どんなに完璧な成り立ちをした世紀の傑作でも、個人的に繰り返し付き合い続けられなければ、「自分にとって大事なもの」としては扱いきれないものです。そうした作品を聴き返すのは難しいため、個人的な理解度はどうしても(他の「自分にとって大事なもの」と比べ)低くなってしまいます。
上の「アルバムとしての成り立ちの美しさ」「代替不可能性」について優れているとわかりながらも、残念ながら「個人的に肌に合うもの」ではないと感じてしまう(もしくは、たまたまそういう時期に接してしまう)ということは意外とよくあるもので、そういう作品を無理にランキングの上位に入れるのは、先述の「余計な考えを極力排した」「誠実な判断をする」という姿勢に反します。というわけで、個人的に肌に合わない作品の評価は、どうしても伸び悩んでしまいます。


以上のような評価基準を軸として、気になったアルバムを可能な限り聴き返し、できるだけ理解を深めた状態で、「自分にとってどれだけ大事なものか」≒「どれだけ聴き返し続けられるものなのか」という度合いを比較して、ランキングをつくることにしています。


【アルバム・レビューについて】

「自分はこう書いている」という手法の話ではなく、「レビューというものはこうあるべき」という理想とか心構えについての話です。
そして、それを満たしていない多くのレビューについての苦言のようなものでもあります。
余談として読み流していただければ幸いです。


たとえばアマゾンでは、発売日の0時になると、「予約中」表示が「在庫あり」「在庫なし」などに変わり、レビューを書き込めるようになります。その段階で即座に長文のレビューを投稿する人が結構おられます。Pitchforkのような海外メディアで高い下馬評を得ている作品とか、過去に名盤を発表した実力者の新譜など、注目が集まりやすい作品においてよく見られる傾向です。
こうしたレビューは、その作品が「発売前に全曲試聴ができる」「アマゾンより速いルートで入手できる」「既にネット上に音源が流出している」ものだったとしても、(良好な音質で)十分な回数聴き込んだ上で投稿されたのだとは考えられません。何回か聴き通した時点で得られた表面的な特徴を列挙しただけのものが多く、先述のような「アルバムの過ごし方」「聴き込むとどんなものが見えてくるのか」というようなことは、殆どの場合、一顧だにされていません。
こうしたことは、日本のサイトに限った話ではありません。世界中のHR/HMの情報が集まる超巨大データベース「Metal Archives(Encyclopaedia Metallum)」では、やはり発売前の作品についてレビューを投稿することができないようになっているのですが、発売が開始され投稿が解禁された直後に、長文のもっともらしいレビューを載せる人がいます。このサイトでは、データベースの編集作業やレビューの投稿量に応じて各人のアカウントにポイントがたまるようになっていて、それが多くなると必然的にある種の権威付けがなされるのですが、そのポイントを多く集めたアカウントが先述のような解禁直後レビューを載せることで、優れた作品にパッとしない印象が付いてしまい、その作品に触れようとする人が減ってしまうという影響が生まれているように思われるのです。
(あえて名指ししてしまうと「autothrall」という方です。マイナーな傑作まで広く手を伸ばす守備範囲の広さは見事で、衒学的な美文も読み応えのあるものなのですが、新譜の評価に関しては的外れな場合も多いと感じます。)

このような最速レビューは、おそらくは注目や評価を集めるためになされているものだと思われます。(アマゾンの場合は「このレビューが参考になった」評価の「役に立った」投票を集めやすくするため。)そうやって評価を欲すること自体はある意味自然な心の動きですし、特に卑しいと思うべきものでもないのですが、そのために理解度の浅い(というか理解しようという段階に至っていない)レビューを連発し、知的で説得力あるもののように装った上で、しかもそれを恥じないというのはどうなんだろう、と感じてしまうのです。
アマゾンにレビューを大量に投稿されている方は何人もおられますが、何年か前に、その中のひとりが「今年は800枚レビューした」ということを丁寧な言葉で誇っておられました。800枚という枚数は、各アルバムの尺を45分(0.75時間)と仮定しても、1回ずつ聴き通すだけでも600時間かかる分量です。一日10時間かけたとしても60日かかるわけで、均等に時間を費やしたとしても、一年で最大6回しか聴き返すことができません。
(その方のレビューは、そうした条件を反映するかのように、殆どの場合、一聴すればわかる表面的な特徴を、てきとうなジャンル用語を並べて形容して済ますものになっています。ごく稀に「これはちゃんと聴き込んだんだな」と思わせる優れた評論もあるのですが、比率としては全体の1割にも至りません。)
そうした方々のすべてがダメというわけではありません。優れた判断力をお持ちの方も多いですし(「量が質をつくる」ということも間違いなくあります)、そうした方が手際よく拾って提示することで、マイナーな傑作が広く注目を浴びる機会を得ることも少なくありません。
ただ、先述のような「上っ面をさらうだけのレビュー」が蔓延することで、レビューというものの「悪い定型」が広まってしまっているように思うのです。この程度の情報を示せれば体裁は整うから、数回聴くだけの“濫聴”をしても後ろめたく思わない。そうしているうちに、その人にとっての音楽が「繰り返し聴き込み深く吟味するもの」から「数回聴いて表面的な特徴をつかんでしまえば(わかった気になってしまえば)もう掘り下げなくてもいいもの」になってしまう。もっと言えば、「通り過ぎるだけの情報・コンテンツ」になり下がってしまう。そういう意識が広まるのは、個人的にはとても健全なことと思えないのです。

私個人の意識としては、音楽とは「聴き込んで吟味するもの」「曖昧なニュアンスをそのまま呑み込み付き合っていくもの」です。数回聴いて上っ面をなで、それでわかった気になるようなものではありません。
「何度か聴いて満足し、それで放り出してしまう」聴き方をするのなら、表面的な特徴を箇条書きしたようなレビューでも役に立てるかもしれません。その特徴を効率よくなぞるためのガイドを示してくれているという点では、むしろそういうものの方がいいのかもしれません。
しかし、「しつこい聴き込みに耐えうる奥行き・強度はあるのか」とか「聴き込んだらどういうものが見えてくるのか」ということを知りたい場合は、そういうレビューは何の役にも立ちませんし、むしろ外れをひくきっかけになることもあります。
評論やレビューを読む際に自分が知りたいのは、先述のような「耐聴性」「代替不可能性」です。そしてそれは、その作品に惹きつけられて何度も聴き込んだ人による、思い入れのある評価によってしか見えてこないものなのです。
「思い入れのある評価」は、べつに美しい文章とか豊かな知識で装飾されている必要はありません。もちろんそれがあった方が楽しめるものにはなりますが、それはあくまで枝葉の部分、小手先の技術に過ぎないものなのです。文章としての体を最低限なしているものであれば、込められた情熱とか書き手の味わい深い人間性のようなものは十分に伝わります。(これも「代替不可能性」と言えますね。)それに必要十分な客観性(同系統の作品と比べてどうなのかというような分析)が加われば、個人的にはとても好感を持って読める、参考にさせていただけるものになると思います。
このような観点から、「十分に聴き込んだ上で思い入れを持って書く」レビューが増えるように願います。
もちろん自分も、そういう文章を書くよう心掛ける次第です。


【個人的評価の傾向】

できるだけバイアスを排除するようにしていますが、「好みのタイプ」とか「個人的に評価が高くなりがちなもの」は確かにあります。
ここでは、それを簡単に記しておこうと思います。

先述のように、日常的にしつこく聴き返す接し方をするので、アルバムの構成や質としては
「強烈に感情を揺さぶりカタルシスを得るもの」
「序盤から終盤にかけて一方通行なもの」
よりも、
「ほどほどな刺激がありながらも起伏が激しくない、“フラットに揺れる”もの」
「一枚聴き通してすぐに最初に戻った際に違和感なくつながる(一方通行でない)、延々ループする聴き方に耐えうるもの」
の方をどうしても好んでしまう傾向があります。
ライヴでは「一期一会」の感動も大事ですが、日常的に聴く音楽としてはそれが邪魔になることもあります。「非日常」な要素よりも「日常」的な要素の方に惹かれるということです。
(神秘やファンタジーを扱っていても「日常」に寄り添う“フラットに揺れる”ものはありますし、生活感溢れるテーマを扱っていても強めの“解決”感をもたらす「非日常」的なものはあります。要は、揺れすぎずに十分な手応えを与え続けてくれる、長く付き合うのに向いた作品に惹かれるということです。)


とても長くなりました。
以上が「年間ベストアルバムの選定基準」、というよりも「アルバムというものについての個人的な評価基準」です。
ここまで読んでいただけるのは稀なことだと思いますが、なにかの参考になれば幸いです。
ありがとうございます。


【以上の条件を満たす個人的ベストアルバム】

MESHUGGAHの『Nothing』(remix盤:通称青盤)ですね。
複雑を極めながら実は完全に4拍子系に収まるリズム構成
(よくポリリズムと言われますが、「4or8小節単位で1周期をなす長く複雑なギター&ベースフレーズ」と「そこに装飾的に絡む複雑なボーカルライン」のみで成り立つ構成で(ドラムスは、スネアドラムなども含め基本的にはギター&ベースフレーズからは離れません)、「異なる複数の拍子が同時進行する」という言葉本来の意味での「ポリリズム」は存在しません。(「擬似ポリリズム」というならまだしも。)ポリリズムという言葉を用いてMESHUGGAHを評する人は、MESHUGGAHの音楽・ポリリズムという言葉の少なくとも一方を理解していないとみていいでしょう。)、
そして、複雑に“アウト”しながらメジャーにもマイナーにも揺れきらない曖昧な音進行。
どんな気分の時も聴け、どれだけ聴き込んでも飽きようがない構造的強度があり、時間が経つのを完全に忘れるくらい程よい集中状態をもたらしてくれる。
いまのところ、1000回以上聴き通しているアルバムはこれだけです。
(オリジナル盤・remix盤あわせて2000回以上聴き通しています。)
このようなアルバムに出会えることこそが、音楽を聴くということにおける最大の悦びなのだと思います。

みなさまのそういう一枚について、熱のこもった文章を読めることがあれば、それは私にとっても大きな喜びです。
いつかどこかで、それにお目にかかれることを願います。

Nothing (Bonus Dvd)

Nothing (Bonus Dvd)